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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、ショパンの心の献呈先はエミリア

2019.06.03 05:36

ショパンはライプチヒのブライトコプフ・ウント・ヘンテルに望みをかけ、新たに4曲の原稿を送った。ブライトコプフとは、マヨルカ島の独房で書いたプレリュードを1000フランで版権を売って以来、親密な関係を築いてきたショパンだった。

その後は、ショパンが提示する1曲500フランが高値であり、ショパンの曲はドイツでは売れないからという理由をブライトコフに言われてきたショパンは(1839年の頃から)毎回辛酸をなめてきたのだった。

1841年12月に入り、ノアンからパリに戻りサンドと中庭を挟んで別棟に住んでいたショパンだった。ショパンは出版のことが頭から離れた日はなかった。ピカール街の16番地の部屋で出版社からの返事を待っていたショパンに、3週間経った頃、ブライトコプフから返事が届いた。知らせは、出版の交渉に合意する意向を示していたため、その返事をショパンは直ぐに書いた。

「私はあなたの書簡を12月13日に未払い書と共に受け取ったところです。

そして、私はあなたが期日を守ってくださったことを感謝いたします。

原稿の作品番号の並びは正確でございます。 [ブライトコフは作品44番と45番を疑っていた] 

メフェッテイは前奏曲作品45とポロネーズ作品44を彼のベートーヴェンアルバムに所有しています。

私はシュレジンガーに、あなたと出版期日を相談のうえ同意するよることを指示してあります。シュレジンガーは製版を済ませています。貴社も製版を迅速に進めるご意向と想像しております。」

そして、付け足して「私はロンドンの出版社の住所を送らない理由は、

ヴェッセルを放棄しましたため、その他の出版社とも契約が出来ておりません。

そのため、貴社の出版の進行は止めるべきではございません。

そして、私の夜想曲作品48の表紙にエミリアではなく、マイル・ローラ・デュパーと記載ください。」

ショパンは自分の心に従って献呈を14歳で亡くなった2歳年下だった三女のエミリアに捧げたかった。しかし、それでは売れないと出版社に言われたショパンだった。そのため、ショパンはマイル・ローラ・デュパー嬢に献呈先を変更するように出版社に伝えた。

いきさつを知らないデュパー嬢はさぞかし喜んだのであろう…。

そして、出版社との取引が納得できる価格で合意できないショパンは紳士協定を辞めるとフォンタナには言っていた。しかし、ロンドンとフランスがこのとき交渉が上手く運ばず、そして、「シュレンガーには話をしを持ち掛けないように」と、ショパンはフォンタナに伝えてあったにもかかわらず、シュレンガーが印刷を始めているとショパンはフォンタナから聞いたのである。

ノアンに行っている間にフォンタナとの手紙の行き違いのためか、フォンタナがシュレジンガーと話を進めていたのか、いや、それは勝手に進められないはずだ。それとも、ショパンの言うことを聞いていたら、どれも出版できなくなってしまうという危機をフォンタナは感じたのか…。いや、フォンタナはショパンに忠実に従っていた生真面目な性格なはずだ。だから、どちらでもない、これは、シュレジンガーがポーランド人であるショパンを見下していたため、作曲家との合意がないうちに印刷を進めていた可能性があるのだ。

ショパンに金額が見合わなくても駆け引きを諦めさせようとしていたのだ。そして、ブライトコフについては、献呈先がショパンにとっては不本意でも妥協して出版せざる得なくなった。「自分は心に正直に曲を書いている」と、いつも言って来たショパンだった。エミリアのことも月日が経っても忘れることはなく、ずっと亡くなった妹を純粋に想い続けていたショパンだった。

エミリア・ショパン(1812年11月9日 - 1827年4月10日)

フレデリック・ショパンの妹。

1807年生生まれのルドヴィカ、1810年生まれのフリデリック・ショパン、1811年生まれのイザベラ、1812年生まれのエミリア。エミリアは三女の末娘でした。

子供の頃、エミリアは文学的および芸術的才能を示しました。結核のために 14歳で亡くなりました。ワルシャワ高等学校でフランス語の詩を書いた。

 「死ぬことは私の天命 死は少しも怖くはないけれど

  怖いのは貴方の記憶の中で死んでしまうこと」

1825年にイザベラとドイツの作家ザルツマンの教育書の翻訳した。1827年14歳で結核のため亡くなる。ワルシャワのポヴォンスキ墓地に埋葬されいる。

ショパンとのエピソード

ショパンはエミリアをエミルカと呼び、とても可愛がっていた。1826年に母親ユスティナとフリデリック、ルドヴィカ、エミリアは医師の勧めで鉱泉保養地であるライネルツに湯治へ行った。

ショパンは高等学校時代から文学や演劇などに興味を持っていた。姉妹や寄宿生たちと一緒に文芸娯楽協会というグループを作った。ショパンが会長、エミリアが事務局長を務め友人たちが集まり創作活動をした。

また、文学作品を読み合う会も開いたり、家族や親友たちのお祝いや祭日などに演劇活動を家庭で開いていた。

エミリアの早い死はショパンの音楽に何らかの影響を与えたと言われている。