自然との共生
このキーワードは、15年以上前、福岡正信さんの自然農法について知ってからのものです。
だけどそもそもは、自分の中にある不安との出会いから始まったものでもありました。
私は、大学生の時、不安神経症のような状態でした。
すべてが不安。家から外にでるのもなにかあるのではないかと不安だし、家の中も、地震などで壊れたらどうしようと不安。とにかくどこも安心できるところはありませんでした。
咳が出たら、結核なんじゃないかと不安になり、お腹が痛くなったら、盲腸ではないかと疑い。パニック障害のように、駅など人が大勢いるところで、突然恐怖に襲われることもありました。
私の場合年齢的なものがあったのかもしれませんが、長くそのような状態にある人は、本当につらいだろうと思います。
私は、そこからなにか特効薬のような出会いや出来事があって、良くなったわけではなく、少しづつ、自然と生きるということを考えるようになって、良くなりました。
はっきり覚えている最初のきっかけは、浄水器です。
私は、浄水器を使っていましたが、その浄水器を使わないと飲めないような水を作っているのは自分だとある日、気が付いたのです。(洗剤をつかっていましたし、環境に配慮した企業やそうじゃない企業などへも無関心でした)そこから、自分だけが心地よく生きるのではなく、周りの自然や人も心地よくいられることを目指すということを考えるようになりました。それが自然との共生のはじまりでした。
洗剤をやめました。最初はエコ洗剤などを使っていましたが、水だけにしてみました。
何の問題もありませんでした。なんで今まで、泡で洗っていたんだろう?その無駄な泡のせいで、水を汚していたのに。
ちょっとの不便で地球にやさしくなどと思っていましたが、とんでもなかったです。地球にやさしい行為は、不便どころかなんの害もないうえ、自分も気持ちよかったのです。
初めて、心地よいということを感じた瞬間でもありました。簡単にきれいになることが良いと思っていましたが、それは、無意識の罪悪感の中にある、勝手な概念でしかありませんでした。本当の心地よさは、ここにあったのです。
このあたりで、福岡さんの自然農法に出会います。
不思議に様々なご縁がつながり、たくさんの畑や田んぼを見せてもらう日々の中で、福岡さんからの影響をうけて自然農というのを始めた川口さんの教えを守る方と出会い、田んぼと畑を借りて、自然農をやることになりました。そして、ただそこに、種をまいただけで、ぐんぐん伸びる植物にびっくりしました。
自然農で育てたお野菜たちは、とても心地よさそうでした。見た目は悪く、あんまり取れないので、生産性もなく、筋が多かったりして、工夫しないと食べずらいものすらあります。それでも、なんとか頑張って食べてみると、美味しいというのを超えて心地よいとかんじました。
自然農法をとおして、必要なものなんてあんまりないということを学びました。ただ、ほんの少し自然と協力するだけで、実りを分けてもらえるんだ。いままで勝手に決めていたことが多かったことに気が付きました。一つ一つ本当にそうなのかな?と疑問をもちより心地よく変化させることができると気が付きました。
それに気づいた頃には、不安はなくなっていました。
最近、不安を抱えている人がどんどん増えているように思います。
また、見えないルールが増えているようにも思います。それは、社会のルールで、時に社会的に制裁を受けることもあるようです。私が一時期陥っていたように、自分の心地よさを忘れ、社会の正しさの方を優先させそれが自分にとって大切と信じてしまうことによって起こっているように思います。その社会の為のルール、本当に各個人にとっても良いことなのでしょうか?社会を成熟させていくことは、個人の幸せと同時に起こっていくことではないのでしょうか?
社会から取り残されるのは不安です。私たちは一人では生きていけないからです。でもその為に自分を犠牲にしてまで社会のルールに従うことが本当にいいことでしょうか?それぞれの心地よいを大切にすることはそのバランスをとってくれるように思います。
その為には、自分が心地よいことがなんなのか知ることが第一歩。みんながそう言っているから、ではなく、自分がなにが心地よいのか。見た目や生産性、損得などを抜きにして、ただ、心地よいと思うこと。
小さな心地よいを見つけていくことでやがて、沢山の心地よいに囲まれる日になります。
そして、そのそれぞれの心地よさは、人によって全く違うのです。だからこそ、ルールでは解決しないですし、誰かが答えを知っていることはありません。
一人一人が自分の心地よさをしっかり感じて生きることのできる場所を増やしていくことが、不安や生きづらい人をなくしていく本当の社会成熟へつながるように思います。