挨拶句について2
https://blogs.yahoo.co.jp/seijihaiku/17280519.html?__ysp=5a2j6Kqe44Gv5oyo5ou2IOS%2Fs%2BWPpQ%3D%3D より
【挨拶句について2】
花ちるや瑞々しきは出羽の国 石田波郷(いしだ・はきょう)
(はなちるや みずみずしきは でわのくに)
前回、俳句の「挨拶」について書きましたが、挨拶句に対する私の考えをきいていただきたく、また「挨拶句」について書いてみたくなりました。
私の考えでは、今の俳句愛好者が作っている作品はほとんどが挨拶句だと思っています。
挨拶句というと、人に対しての挨拶と思いがちですが、実はそうではないのです。
挨拶の範囲は人はもちろん、すべてものに呼びかけることが挨拶なのです。
掲句もその例、出羽は今の山形県、この句は国誉め、土地誉めの一句であり、出羽への挨拶なのです。
前回、私は、
挨拶は、「ありがとう」とか「暑いですね」とかで良いのである。
と書きましたが、この句も簡単に言えば、
桜の散る山形は瑞々しさにあふれていて良いところですね
と挨拶しているのだと私は思います。
私が思う挨拶句を挙げてみます。
いくたびも秋篠寺の春時雨 星野立子
(いくたびも あきしのでらの はるしぐれ)
頼家もはかなかりしが実朝忌 水原秋櫻子
(よりいえも はかなかりしが さねともき)
あたたかき十一月もすみにけり 中村草田男
(あたたかき じゅういちがつも すみにけり)
秋風のかがやきを言ひ見舞客 角川源義
(あきかぜの かがやきをいい みまいきゃく)
実朝の海あをあをと初桜 高橋悦男
(さねともの うみあおあおと はつさくら)
蛍狩おおきな月をあげにけり いさ桜子
(ほたるがり おおきなつきを あげにけり)
立子の句は大和路への挨拶、秋櫻子の句は、二代鎌倉将軍・頼家(北条氏と対立し失脚のちに死)、三代将軍実朝(頼家の遺児に鶴岡八幡宮で暗殺)という悲劇の一門への挨拶なのです。
また、草田男の句は故郷四国松山のあたたかさを詠った句で、産土の地への挨拶です。
もちろんその背景を知らなくても、あたたかかった今年の秋への挨拶句ととってもよいと思います。
源義の句は見舞い客と、その気持ちのよい一日を授かったことへの挨拶(感謝の気持ち)、悦男さんの句は伊豆の海であり、風土と自分が生まれ育った土地への挨拶、桜子さんの句は、豊かな自然を讃えている、土地への挨拶句なのです。
身近な例で言えば、いつもコメントを下さり、ブログで毎日、作品を発表されている大介さんの作品は、
読んでいてほとんどが自然への挨拶句だと私は思っています。
ですから、私の考えは旅吟や自然詠は、ほとんどが挨拶句です。
また自然詠に限らず、私の、
背泳ぎの指太陽に触れてゐる 誠司
も、自分では太陽そして夏への挨拶だと思っています。
つまり、「対象と自分との交歓」が挨拶になるわけです。
俳人の石田郷子さんは、俳句は自然への感謝、祈りにも似た思いで詠んでいる、と言っていました。
そう考えれば彼女の作品はすべて挨拶句と言ってよいでしょう。
現代俳句のほとんど、というか俳句はほとんどが挨拶句だというのが私の結論です。
では挨拶句ではないものには何があるのかと言われれば、呼びかける対象の無い句が非・挨拶句になります。
自己の内面を観念的に表現した句などがそれに当たります。
私の考えで言えば、それは良い悪いではなく、無季俳句に多いように思います。
もっとも、それも自分ともう一人の自分との交歓というふうに考えればそれも挨拶句と考えてもいいわけです。
ですから、コスモスを詠えばコスモスに、鶯を詠えば鶯に呼びかけているわけですから季語を入れれば自然と挨拶句になると私は考えています。
私が季語を尊重する所以です。
挨拶句であるから高尚であるとは言いません。
しかし少なくとも私が俳句をする理由は、大切な人、美しい自然をはじめあらゆるものと自分との「交歓」にありますから、自然と挨拶句を詠んでいるのだと思います。
以上、私の挨拶句に対する考えです。
よかったらみなさんの考えを聞かせてください。