初めてのはずの島鉄の思い出
先週の木曜日は「あっぷる」の中継だった。季刊誌「樂」の「樂だより」コーナーに、なぜ私が出るのかはよくわからないが(テーマによって寄稿することはあるけど…)、とにかく今号の特集である島原鉄道に乗る。これまでの中継では、自分が知る範囲のことを話してきたが、今回は長崎市内でもなければ、島鉄に乗るのさえ初めて。ほんとにいいのか、私で。前の週に下見に行って、初めて聞く駅の名前を地名辞典で引いたりして。ほんとにいいのか。まぁしかし、目の前の暮らしと、それにつながる昔の時間に思いを馳せるということにおいては、おなじこと。地球の裏側に行っても変わらない。
スタートは大三東。「だいさんとう」ではなく「おおみさき」だ。この読み方さえも知らなかった。しかも地名辞典を引いたら「大野」「三之沢」「東古閑」が合わさったものらしい。しかもしかも「おおの」はいいとして、あとのふたつは「みつのさわ」「ひがしこが」と読む。こがの「が」は「閑」だ。「東」を「さき」と読むのも洒落て(?)いる。大分の国東(くにさき)半島みたいなものか。「先」に日が昇る方角というニュアンスもあるのかもしれない。「日本一海に近い駅」というのだが、実際に降り立ってみると、本当にすぐそばだった。磯の香りが立ちこめている。そして黄色い旗がずらっとパタパタしている。願い事がいろいろ書いてあった。「グラスを割りませんように」とか。
「おおみさき」と聞いたときには「でっかい岬」なのかな、と思った。海のすぐそばを走る島鉄だから、そのあたりが大きな岬になっているのでは、と。結局は違っていたのだが、島原半島自体が、大きな大きな岬だとも思えなくはない。実際「島鉄の車窓から」は海と山と里がめまぐるしく移り変わる。温泉にちなむ「湯江」、古代の鉄づくり「たたら」から来ているという「多比良(たいら)」、やんごとなき方に献上する米の田んぼを意味する「神代(こうじろ)」が駅の名前として次々に現れ、ずっとずっと昔から、豊かな自然の恵みとともに、人々が暮らしを営んできた土地だということを知らせれてくれる。雲仙山麓一帯には、百花台をはじめとして、旧石器時代にもさかのぼるような大昔の遺跡がいくらでもあり、中世なんて、新しく思えるほどだ。「西郷(さいごう)」や「古部(こべ)」など、かつて名を馳せた豪族や武将の名を残す駅もある。
大三東からしばらく、景色の中でいちばん大きいのは、雲仙そして普賢岳。噴火災害があったとおり、自然の恵み、特に火山は災害とも隣り合わせだ。島鉄も普賢岳災害の時は線路が埋没したり、大変な目にあっている。しかし人間は、どうしようもできない圧倒的な力のそばで暮らさなければならない。壊れたものを建て直し、埋まったものを掘り返し、折り合いをつけながら続けられてきた生活。車窓から見える畑や家々や小さな船に、海と山と人の、古くからの営みが、脈々と息づいている。
古部に下り立つと、大三東に負けないくらい目の前にある海の向こうに、多良の山々が広がっていた。多良も雲仙も、古くから山岳信仰が盛んだったところ。このふたつに挟まれた土地は、霊的な豊かさにも満ちているのだろう。あわただしい中継なはずなのに、頭のどこかではぼんやりと天狗が飛び交うところを想像しながら、短い旅は終わった。
後日、祖母に「島鉄に乗ったとよ」って話したら、間髪入れず「大三東ね?」と聞かれたので驚いた。戦時中、祖母のいとこが疎開していたという。読み方も知らなかったところと、ほんとうはつながっていた。このところ考えていた「記憶にない記憶」には、こういうこともあるんだろうな、と、初めて行った海のそばの駅が、なつかしい場所になった。