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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 81 (4/6/19) Tenjin Yama Castle Ruins 天神山城

2019.06.05 11:03

Kichigahara Minary Park 吉ヶ原鉱山公園

Chausuyama Castle Ruins 茶臼山城跡

Tenjin Yama Castle Ruins 天神山城

津山は三週間前に来たので、今回は素通り。岡山に向けて出発。今日は宇喜多直家の主君であった浦上氏の居城があった天神山城がメインターゲット。途中に何か面白そうな所があれば寄ろうとは思うが、岡山迄は80kmあるし、昨日は126kmの走行で少し疲れている。あまり無理はしない事にしよう。

宿を出発し今日は吉井川沿を走る。他のルートに比べ距離は長くなるのだが、天神山城が吉井川沿にあるので、このルートを選んだ。

棚田が山の上部まで続いている。

Kichigahara Minary Park 吉ヶ原鉱山公園

暫く走ると、吉ヶ原の鉱山公園というところに出た。吉ヶ原駅がある。使われているのか、廃線の駅なのか、ちょっとみただけでは分からない。線路は通っているようだし、駅舎も稼働しているようだが.....  実は平成3年に廃線となった同和鉱業片上鉄道の駅で、保存会があたかも稼働している駅のように維持管理をしている。駅の周りは公園になっており、鉄道車両などが展示されている。てっちゃんには堪らない所らしい。

吉ヶ原から少し走ると、前方の山の上に城郭が見えた。この付近に城跡があるのは知っていたが、天守閣がある城とは知らなかった。

Chausuyama Castle Ruins 茶臼山城跡

これから行く天神山城の北7キロ程の所にあり、浦上宗景にとり天神山城の上流を守る拠点であった。1579年(天正7年 宇喜多直家 50才)、 宇喜多氏の美作侵攻により落城。その後、宇喜多直家が毛利から離反し毛利方の城となり、毛利元就の側室の子である毛利元清が入る。江戸時代には備前池田藩が陣屋を構えていた。当時は本当にこんな天守があったとは思われない。模擬天守だが、史実に基づいてはいないだろう。今日は時間がないので、山には登らず。天神山城を目指す。

インターネットから借用した模擬天守

川に昔ながらのの魚捕の仕掛けと思われるものがあった。多分そうだ。この旅の途中、時々、川の中に人工的に作った石垣などが見られた。魚を追い込み、水が引いた時に出口がなくなり一網打尽できるという代物。

少し走るとサイクリングロードに出た。偶然にでくわしたのだが、自動車道理を行くとストレスがあるので自転車道路を行く。

気持ちは良いのだが、欲を言うと、国道より川沿に造って欲しかった。内側だと川の景色が楽しめない。ちょっと贅沢な思いだが....  ストレスなく走っていると、この自転車道路の正体が判明した。先に訪れた同和鉱業片上鉄道の線路跡だった。だから、川沿いでなくても旧線路ルートが自転車道になっている。駅跡が残っていた。片鉄ロマン街道と名が付いていた。それから、次々と駅跡が現れた。

ほとんど人に会わない。地元の爺さん達が駅舎跡でお喋りをしているぐらいだ。内陸部は両脇には並木があり、この炎天下でも影ができ、走ると風が起こり涼しい。川沿いでなくても良いことがある。ついこの間、下津井に行った時も廃線後を遊歩道で活用していたのを思い出した。あの時も気持ち良く走れた。

片鉄ロマン街道は旧線路の総距離34kmだが、津山から瀬戸内海の鹿久島までサイクリングロードがありこれだと76kmにも及ぶ。サイクリストには有難い。

Tenjin Yama Castle Ruins 天神山城

片鉄ロマン街道はこの天神山城の脇を通っている。ここで一時走行を停止して、今日の目的地の城跡に登る。標高390mの天神山山頂に本丸が築かれていた。


この天神山城についてだが、天文23年(1554年 直家 25才)に築城を開始したのは播磨・備前・美作を治めた守護大名赤松氏の守護代であった浦上村宗の次男の浦上宗景。村宗は守護代から一躍戦国大名となった。嫡男浦上政宗は尼子と結び次男の宗景は毛利についた。兄弟で覇権を争う。宗景は毛利の協力で嫡男の政宗を駆逐し、備前の支配権を握る。先にも書いたが宗景は宇喜多直家の主君で、直家の活躍で浦上の備前支配は堅固のものになった。天正元年(1573年 直家 44才)、宗景は西国に織田信長と結び、備前・播磨・美作の支配権を得る。しかし、宇喜多直家はこれに反対し、安芸の毛利氏と結ぶ。(浦上に反旗をあげる機会と捉えたのかもしれない。) 翌年の天正2年(1574年 直家45才)、直家は浦上政宗の三男誠宗の子の久松丸を奉じ、浦上宗家復興を大義名分に天神山城の宗景を攻める。天正3年(1575年 直家46才)の時、浦上宗景の家中が直家に内応し、宗景は城を放棄、播磨へ遁走、直家は城を焼き払い廃城となった。これで宇喜多直家が浦上宗景に変わり備前を支配する事になった。

登り口は神社の脇にあるがここは標高30m。つまり360mの高さを登る事になる。これは結構難易度が高いだろう。登りきってわかるのだが、ほぼ直線距離で山道が出来ている。ハイキングとかトレッキングではなく、本格登山の中級の中か上の部類。崖を登っている感じだ。5分も登ると大粒の汗が滴り落ちる。

天石門別神社  

天文2年に領主浦上遠江守宗景が、この城を築くため、山頂にあった神社をここに移した。最近作ったのだろうが、出っ歯の狛犬が一匹だけ。この口では阿も吽も言えないと思うが....  もう片側は誰だろう? 人が狛犬の代わりに立っている。この神社は和気(わけ)町にある。和気氏発祥の地で、歴史に登場する和気清麻呂の生誕地。猪が足元にいるので和気清麻呂に間違いない。旅行中、3月17日に西宮の岡太神社を訪れた時に、狛犬の代わりに猪が神社を守っていた。その神社の祭神は和気清麻呂ではなかったが.....

ところどころ見晴らしの良い所がある。地元の人が整備してくれているようだ。あまり登る人もいないのに、整備を続けてくれている。多分、地元の人が各週ごとぐらいに登り整備しているのだろう。多くの史跡はこのように地元の人の協力の上に成り立っている。この人達が居なければ、この様な旅は出来なかったと思うと、ただ、感謝、感謝!見晴らしの良いところで、何度か休憩を取った。

見張り台跡 ここからも眺めが良い。まだ標高190m、まだ半分だ。ここからは麓が全て見渡せる。見張りには格好の場所。

ここからの景色は絶景。

津山方面

和気町方面

頂上に着いた時には登り始めてから1時間15分かかっていた。山の尾根ぞいの細長い城の構造だ。

下の段 北からの敵をここで食い止める。この城は宇喜多直家が攻略するまでは難攻不落と言われていた。確かに北から攻めるのはかなり難しい。

西櫓台

三の丸 重臣の屋敷が集まっていた場所

三の丸からの吉井川

鍛冶場 ここで城に必要な武器、道具を作っていた。

帯曲輪 三の丸から本丸を囲んでいる曲輪跡

大手門跡 石垣が残っている。

桜の馬場 かなり長い。馬場というがここで馬を飼い訓練をしていたのか? そうとは飼いていない。いつも思うが山城の頂上に馬場があることがよくあるが、馬をそこまで連れて行っていたのか疑問を持つ。

長屋の段 倉庫があった。武器や食料が蓄えられていた。

二の丸

空堀 本丸の防御用

本丸

天津社 ここにあった神社を築城時に天神山の麓に移した。

飛騨の丸 重臣 明石飛騨守景親の屋敷跡

馬屋の段 馬屋があったと書いてある。やはり馬を飼っていたのだ。

南の段/南櫓台/南櫓

堀切り ここまで迫ってきた敵は南櫓から攻撃をする。ここが城の南の端にあたる。

ここからはかなりの傾斜で下に道がある。城の構成図にはないので、登山用に作られた道と思う。

ここから本丸まで戻り、そこから、もう一つの登山道で下山する。案内板では、この道を下り麓へ3分の2ほど行くと武家屋敷跡があると書かれていた。多分この道が当時の登城道であったと思う。傾斜は登ってきた道よりも、かなり緩やかでジグザクに下りていく形になっている。毎日登城していたなら、こちらの道が登城道であろう。

武家屋敷 何段階に分かれており、それぞれがぐるみの段、中の段、上の段と名がついている。多くの石垣跡が残っている。

これで城の訪問は終了。移動ログを見ると行きと帰りの道のりの違いがよくわかる。

左-城全体    中央 - 登りルート ほぼ直線     右 - 下山ルート ジグザグ道

天神山城には4時間程いた。もう少しいたかったが、ここから岡山まではまだ40キロあるので、見学の時間は限られている。元気を出して、ただひたすら走る。

途中に保木城跡があった。登り口もあったが、今日はもう山に登る余力は残っていないので、通り過ぎた。

岡山に到着。移動距離は83キロだが、これに山登りがあったので疲れているが、充実した1日だった。自転車道の走りはほぼ貸し切り状態、それに城登りも貸切。素晴らしい景色も堪能。これほど贅沢な旅はないだろう。