三十六冊目:うしろめたさの人類学
【うしろめたさの人類学】
著者 松村圭一郎
出版社 ミシマ舎
自分が彼らよりも不当に豊かだという「うしろめたさ」がある。つねに彼らからいろんなものをもらってきたという思いもある。そのうしろめたさに、できるだけ素直に従うようにしている。それは「貧しい人のため」とか、「助けたい」という気持ちからではない。あくまで自分が彼らより安定した生活を享受できているという圧等的な格差への「うしろめたさ」でしかない。この違いはとても大きい。善意の前者は相手を貶め、自責の後者は相手を敬う。
エチオピアをフィールドに研究を続けてきた人類学舎である著者が、エチオピアと日本という異なる文化・社会の間を往来する事で気がついたことを綴った良書です。以前から気になって本ですが、読んで良かったです。
息苦しさを感じる今の社会を変えるのではなく、バランスを取る事で緩やかに良い方向へ向かわせる方法を、著者は「うしろめたさ」を感じる自分を直視する事から始めるべきだと本著では書かれています。読んでいて鮮明に思い出されたことがありました。それは別に海外での経験でもなんでもなくて、昔、コンビニで働いていた時のことです。
僕が働いていたコンビニには、毎日決まった時間に同じものを買いに来る初老のお爺さんがいました。身なりは汚く、いつも酒に酔っていて、いつも店員に絡んでくる。店長をはじめ多くの従業員から邪険に扱われていました。お爺さんがもし綺麗な身なりで静かにただ買い物をする人であれば店長は上客として接した事だろうけど、アル中で突然怒り出すお爺さんにそんな丁寧に接する人はいませんでした。
僕もまた嫌悪感は特に無いにせよ、もう少し常識的であってくれたら良いのになぁ。と思いながら、いつも取り留めの無い会話をしてました。僕が嫌だったのはお爺さんそのものではなく、そのお爺さんに温かく接する事で職場内での関係が乱れて、自分が仕事をしづらくなることだった。その意味であの時の僕は「うしろめたさ」から目を背けていました。
そのうしろめたさがあるから、店長が不在の時には接客の範囲で丁寧に接したし、お爺さんが毎日買っていくカップ酒もおつまみも切らさず多目に発注していました。しかし、ある日、そのおつまみが定番から消えて発注出来なくなりました。こればかりは、フランチャイズのコンビニではどうすることも出来ず、最初のうちは自分への仕打ちだと言ってブツブツ怒っていたお爺さんも、やがて少し離れたスーパーへ買い物に行くようになったようでした。それでもたまに店の前を歩いているお爺さんとすれ違う時などは、最近の調子について立ち話をしたりした。そして、店長が不在の深夜の時間には申し訳なさそうに隠れるように買い物に来るお爺さんと二時間も三時間も身の上話を聞いたりもしました。
僕には、自分とお爺さんとの間に一体どのような違いがあるのか理解できませんでした。アル中で身寄りもいないお爺さんと、20代そこそこの若者は明らかに違うのだけど、僕が将来アル中で身寄りのない老人にならない確証はないからです。弱者とは「過去の自分と未来の自分自身」だと僕は考えています。そうでなければ弱者に尽くす理由がなくなります。見返りを求めない「贈与」を可能としているのは、他ならない自分自身が「赤ん坊」という世話をしてもらえなければ生きられない弱者として産まれ、やがて介護なしでは生活できない「老人」になるという圧倒的な事実が存在するからです。
日本がこれから多様性社会を目指すのであれば、必要なのは善意による統治ではなく、皆が自責の念と向き合うことで主体者となることではないかと思います。
良書ですので是非ご一読ください。
やわい屋書店でも新刊として扱わせていただきます。