【後悔しないように】これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。
「歴史上の人物で、もっとも共感する人物を3人挙げよ。」と問われれば、
迷わず、織田信長、諸葛孔明、田中角栄だと思う。
中でも、織田信長。
「本能寺の変」で亡くなっていなければ、
ヨーロッパまでが、日本であったのではないかと言われた。
急進的改革者。
彼の野望は、日本のみではなかった。
だから、日本の統一を急いでいたんじゃないでしょうか?
豊臣秀吉ですら朝鮮出兵。
しかし、徳川家康は、日本で満足。そして鎖国。
明治維新。日清、日露。
そして、太平洋戦争。
歴史に、「もし」という、パラレルワールドがあるなら、
信長が生きて、ユーラシア大陸を制覇した歴史を見てみたいものだ。
その信長。
1582年(天正10年)6月
1日の夜、光秀は1万3千の兵を率いて亀山城を出発。丹波路を進んで、老ノ坂(京都市西京区,亀岡市境)を通り、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と言い放った。
2日午前4時頃、明智軍は本能寺を包囲。
なぜか、赤穂浪士もこの時間に討ち入っている。
馬の鳴き声や物音、鉄砲音で目が覚めた信長は、小姓の森蘭丸に様子を伺わせた。
「寄せ手の旗印は!」
「水色桔梗の旗印、明智日向守殿謀叛!」
「是非もなし!」(「是非に及ばず」)
明智軍の兵数を知っていた信長は脱出は不可能と悟り、
弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。
しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。
女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、
信長は成利(蘭丸)に火を放たせ、自刃したと言われる。
享年49歳
信長の遺骸は発見されなかった。
「是非もなし!」(「是非に及ばず」)
解釈には複数の説がある。
①情報が錯そうしており、報告をきいても意味がない。
②光秀ならやむを得ないあきらめよう。
③是非を論じてる状況にない、つまり応戦する(戦う)しかない。
僕は、③の説をとる。
謀反の輩と戦うしかないだろうと・・・
49歳、早すぎる死。
歴史上の損失であることを知らなければならない。
明智光秀の罪は重い。
信長曰く。
攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。
あれも、これもと指示を出していないか?
全部負ける。
信長が好んで舞ったと言われる、「幸若舞(敦盛)」
『信長公記』によると、
桶狭間の戦い前夜、今川義元軍の尾張侵攻を聞き、清洲城の信長は、まず「敦盛」のこの一節を謡い舞い、陣貝を吹かせた上で具足を着け、立ったまま湯漬を食したあと甲冑を着けて出陣したという。
人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻のごとくなり。
一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。
【意訳】
人間の定命(じょうみょう/寿命)は五十年。
「化天」(「下天」)に比べ、夢や幻のように儚いものである
この世に生まれて滅びぬ者などいようか(いるはずがない)
これは仏の意思だということは分かっている、しかし悔しい成り行きだ。
49歳で志半ばで倒れた信長にとって、何とも儚い舞である。
地に足をつけて生きよう。
思わぬところに伏兵が隠れている。