古来の時制
古来中国には時間を区分する方法が色々あったと言います。《占いと中国古代の社会》によると、先秦代に一日を5つに区分する方法があったようです。それが、「朝・晏・昼・日虒・夕」や「旦・安食・日中・日失・夕日」という区分です。また1日を4つ「日・安・昼・夕」に区分する方法もありました。いずれも太陽の運行と明暗に規定されたものですが、後に時を細かく刻み、一年のサイクルとしての時間を考慮し始めたのです。
それは《睡虎地秦簡「日書」甲種疏証》に見ることができます。日を日と夕、つまり今の昼と夜に分け、その長さのサイクルを表記します。ここで使用されたのが、16時制です。この「歳篇」には下の表が掲載せれています。これを見れば、1日は16等分されており、陰陽サイクルが認識されていたことがわかるのです。
それは下図からも理解できます。日が左側、夕が右側の部分です。このような様々な時制がある背景として、官用と民用の別があったとする説もあります。于豪亮氏は戦国秦の時代には、官用が十二時制を採り、民用が十六時制であったと考えています。十六時制の時間の呼び方は、十二時辰法とも被るところがあり、「平旦・日出・夙食・莫食・日中・日過中・旦則・日下則・日未入・日入・昏・夜莫・夜未中・夜中・夜過中・鶏鳴」などと呼ばれたとされています。実はその後の劉安《淮南子》天文訓によれば「日は暘谷を出て咸池に浴して扶桑に至る。これを晨明(しんめい)という」と言います。ここから朏明(ひめい)・旦明・蚤食(そうしょく)・晏食(あんしょく)・隅中(ぐうちゅう)・正中・小遷・餔時(ほじ)・大遷・高舂(こうしょう)・下舂(かしょう)・県車・黄昏・定昏(ていこん)・桑(そう)楡(ゆ)、と続く時称が完成するのです。その後、日夕十六消長として年間を通じた日の周期が認識された、かなり正確な時制が形成されることになるのです。