オウィディウス『変身物語』の新訳
オウィディウス『変身物語』の日本語訳として、僕たちは、田中秀央・前田敬作訳『転身物語』(人文書院、1966年)および中村善也訳『変身物語(上・下)』(岩波文庫、1981年/1984年)をすでにもっているわけだが、このたび、新しい訳書がこれに付け加わることとなった。京都大学学術出版会の「西洋古典叢書」の『変身物語』がそれである(ただし、出版されたのは、第1巻~第8巻をおさめた第一分冊のみで、第9巻~第15巻をおさめた第二分冊については、また別のタイミングで出るとのこと)。訳者は、日本のオウィディウス研究の権威、高橋宏幸氏である。
訳文については、読者それぞれの観点から評価してもらうほかないが、せっかくなのでここで少しだけ批評めいたことをしてみたい。高橋訳を2つの先行訳と並べて眺めてみるのが、わかりやすくて良いだろう。たとえば「序歌」(第1巻1~4行)は以下のとおり。
【田中・前田(7頁)】胸の願いにうながされて、ここに万物のさまざまな転身の物語を語ってみようとおもいます。神々よ、これらの転身をつくりだされたのはおんみたちなのですから、どうかこのくわだてに恵みを垂れ、宇宙の開闢からいまの世にいたるまで、とぎれることなく語りつづけることができますよう、おんみたちのちからをお貸しください!
【中村(上巻11頁)】わたしが意図するのは、新しい姿への変身の物語だ。いざ、神々よ―そのような変化をひきおこしたのもあなたがたなのだから―わたしのこの企てに好意を寄せられて、世界の始まりから現代にいたるまで、とだえることなくこの物語をつづけてくださいますように!
【高橋(5頁)】新たな体に姿を変えたものどもを語ろうと心が逸ります。神々よ、私の試みに―それを変えたのもあなた方ですから―霊感をお授けください。宇宙の原初から私の時代まで途切れない歌をお導きください。
これは僕の主観的印象にすぎないが、今回の高橋訳は、どこか「上品な雰囲気」をそなえているように思う。田中・前田訳および中村訳は、全体に「軽さ」や「カジュアルさ」が目立つが、それとは根本的に違うなにかがこの新訳にはある。オウィディウスが「真面目を装ってふざけた話をする作家」であるとすると、高橋氏はそれを見事に日本語化しているかもしれない。
もうひとつ、今回の出版物で注目すべきなのが、高橋氏による「解説」だ。田中・前田書および中村書では、解説はごく簡単なものにとどまっているが、この高橋書では、オウィディウスの詩人としての経歴および『変身物語』の文学的特徴について、じつに丁寧で行き届いた説明がなされている。なかでも、「作品構想」という小見出しが付された部分(419~425頁)は、個人的にとくに面白いと思う。詳しくは読んでいただくしかない(「ネタバレ」も最小限におさえるべきだろう)が、そのハイライトは、ケニー(E. J. Kenney)という研究者によって提出され、「作品解釈に画期的な進展をもたらした」(422頁)、テクストの新しい読みにかかわる議論だ。それは序歌の第2行の末尾にある代名詞をめぐるもので、僕が上で序歌の話をしたのも、そのポイントをわかりやすく示したかったからだ。問題の代名詞については、古い読み(illas)と新しい読み(illa)があり、田中・前田および中村は前者を、高橋氏は後者を選んでいる。具体的にいうと、田中・前田および中村が「神が姿を変えた」(=神の力で変身が引き起こされた)という読み方をしているのにたいし、高橋氏は、「神が試みを変えた」(=神の介入により、詩人が作業計画を変更することを余儀なくされた)と理解しているのだ。この新しい読みを採用する利点は、長きにわたってオウィディウス研究者を悩ませてきた、「叙事詩という形式と「変身」という主題の不釣り合い」(419頁)の問題にひとつの解決策が与えられることにある。一見ちぐはぐなようにみえる『変身物語』は、じつは、「「小さな詩」から長大な叙事詩への変更」(424頁)によって生まれた作品であり、オウィディウスがやってのけた「小さな詩」と叙事詩の混ぜ合わせは、「従来の規範ではいずれにも当てはまらないような新たな詩作」(424頁)と呼べる、画期的な仕事なのだ。
最後に駄洒落をいわせてもらえるならば、翻訳というのもひとつの「変身」で、日本では、これまで、『変身物語』の2種類の「変身」があった(田中・前田訳と中村訳)。今回の高橋氏による新しい「変身」は、オウィディウス作品の専門家的理解の仕方を、はじめて日本の読者に示したものだと思う。ぜひ多くの人に手にとってほしい。