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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、シヨパンの思い出のピアノとニコラスの想い

2019.06.06 07:42

父ニコラスは、リストとサンドがワルシャワに来ることを、息子であるフレデリックからは何も知らされていないことを心配していた。

息子が話さないことはフレデリックの友人マッシンスキからニコラスは時々報告を受けていた。リストとショパンはかつては親しい友人のように見えた。しかし、マリーやサンドがその関係に口を挟むようになって以来、二人の関係はこの二人の女に翻弄されたのである。ショパンは少なくとも、パリにやってきた頃、リストに親切であった。

タールベルクにリストが人気を奪われショパンにリストが泣きついてきた時も、ショパンはリストに優しく、どうしたらリストが作曲家としてタールベルクを負かすことが出来るかを、リストの特徴を生かした攻略法を伝授したのもショパンだった。

その時、リストは「ショパンは優しく、自分のためだけに時間を割いてくれた」と語り、ショパンに敬意を払ったリストであった。

それが、どこでボタンをかけ間違えたのか、マリーーがサンドとショパンの活動を嫉みリストに不満を言うようになり、果ては、裏に回って、マルリアニ夫人にまで中傷をするようになったことが原因していた。そして、それが公になるのが怖くなったマリーは、いい人を装うために、リストの名前でショパンの評論をシューマンの雑誌「ガセット・ミュージカル」に掲載したことがショパンには裏切りであったのだ。

父ニコラスは言った。「お前は、リスト(本当はマリーが書いた)が書いたガセット・ミュージカルの評論以来、リストとは会っていないそうだな。お父さんは心配しているのだよ、あんなにも親密だったリストとの友情が壊れてしまったことは。それはとても残念なことだよ。」

ニコラスはリストと仲たがいしていることは、ショパンがパリで活動がしにくくなることに繋がるのではと懸念していた。

そのため、リストがワルシャワへ来たときには、ニコラスはショパンが大事にしていた思い出のピアノをリストに弾いてもらい、ショパンとの仲を取り持とうと親心で思ったのだった。

「私は、リストが私たちを訪ねてくることを望んでいるよ。私は、お前がワルシャワにいたころお前に演奏する喜びと美しい旋律の霊感を与えてくれたこのピアノをリストに弾いてもらいたと思っているのだよ。」

そして、ニコラスは言った。「幸せだったあの頃の時間は過ぎ去ったが、今は、イザベラがこのピアノを大切に弾いていてくれるのだよ。決して、このピアノを手放したりはしないよ。」ニコラスは、フレデリックがピアノを弾き、家族が幸せだった頃を思い出し、しみじみと語った。

(1863年9月19日イザベラと母が住んでいたアパートに(通過列車の窓から)爆弾が投げ込まれリトアニアの連隊の兵士たちは、アパートを破壊し逮捕されたが、この事件でショパンの多くの遺品とイザベラが大切にしていたショパンのピアノは破壊された)

そして、ニコラスは、パリでの新しい住まいでフレデリックがどうしているか心配していた。ショパンの召使ルイスを辞めさせたと聞いたからだ、「あんなに喜んでいたルイスをどうして辞めさせたのかね?」

ショパンはお金の問題で、サンドの召使を辞めさせたが、サンドはすぐに代わりの若い少年を雇ってしまった。だから、ショパンはルイスより低賃金で雇える召使いに変えたのだ。

サンドがショパンを面倒見るどころか、ショパンがサンド一家の家計を支えているとは知らないはずのニコラスだったが、息子の性格をよくわかっているニコラスはそれとなくフレデリックに忠告した。

「お前には、経済的に面倒見てくれる人が必要だよ。」ショパンの身体を気遣うニコラス。

「お前は、覚えているかな?[雨の日には]という古い歌を思い出してごらん。

お前の新しい地区はどんなところかね?どんな冬を過ごしているのかね ?」

語りかけるニコラスの言葉のひとつひとつが傷ついているショパンの心に沁み渡った。

1832年、アントニ・コルベルク著、クラクフスキー・プリゼドミーのワルシャワのショパン一家のアパートの部屋

ショパンの家族、父ニコラスを囲んで、母ユスティナ、姉ルドヴィカ、妹イザベラ

1830年にショパンはワルシャワを発った。

1832年はパリでショパンがデビューした頃。