人生の大先輩たちから、未熟者が学ぶ
教養の無さを恥じる。
詩人・茨木のり子さんのこと、知りませんでした。
通り過ぎたことはあったのかもしれないけれど、
その時の自分に届かなかったのかもしれない。
出会いは遅かったかもしれないけれど、出会えてよかった。
昨日、応援しているバリキャリ(あぁ、この言葉初めて使ってみた!)の方が、
茨木のり子さんの存在を教えてくれた。(ありがとう)
この方は、彼女の詩を抱いて、いつも己に、部下に向き合っている様子。
素敵すぎる。
茨木のり子さんの有名な詩をここに書く。
〜自分の感受性くらい〜
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
あぁ、厳しい。
ちょっと、息が止まる感じか・・・
凹んでいる時に触れたら、泣きたくなる人も沢山いるでしょう。
アドラー心理学で言えば、
「人間は自分の運命の主人公である」 ということだろうか。
人生の全責任は自分にある、ということ。
ふりかかってきた難題を、環境や運命のせいにせず、自分の課題として、
自分の責任として引き受け、建設的に取り組んでいくこと。
それを、茨木のり子さんは、平易な言葉を用いて、強く語りかけている。
彼女自身への応援歌?
人間は誰も弱い。だからこその、自らを叱咤激励する言葉。
49歳のときに、ご主人を亡くし、その2年後に書いたこの『自分の感受性ぐらい』。
その後、 彼女は、弟を亡くし、仲間を亡く、
誌の創作活動を続け、
73歳で『倚(よ)りかからず』という作品を発表。
倚(よ)りかからず
もはや
できあいの思想には倚りかかりたくない
もはや
できあいの宗教には倚りかかりたくない
もはや
できあいの学問には倚りかかりたくない
もはや
いかなる権威にも倚りかかりたくはない
ながく生きて
心底学んだのはそれぐらい
じぶんの耳目
じぶんの二本足のみで立っていて
なに不都合のことやある
倚りかかるとすれば
それは
椅子の背もたれだけ
すごいなぁ。
本当かなぁ。。
彼女に会ってみたいなぁ、と思う。
どんなひとだったのだろう。
彼女にとっての「幸せ」はどんなであったのかを、話を聞いてみたい。
15歳〜19歳という多感な時期に戦争体験をした彼女とは、生きてきた道のりが違いすぎて、考え方の根っこも大きく違うのだろうとは思う。
私は、共同体感覚の育成が、人を幸せにすると信じてしまっている。
彼女のこの詩を読めば、読むほど、
彼女は孤独を本当に楽しんでいたのだろうか?
と、思ってしまう。
倚りかかってはいけないのだ、と、自分に言い聞かせているように感じてしまう。
(※写真は、先日行った「ヨシダナギ展」で、自由に撮ってアップしていいよー
の写真。 パプアニューギニアの山岳部に住む「フリ族」の皆さん。特徴は
極楽鳥をモチーフにしたメイクと大きなウィッグスタイル。)
話しは飛ぶが(わたしはいつも、多方向に話が行く)
今年2月に100歳で亡くなった、日本画家の堀文子さんのことを思い出した。
彼女のモットーは、〈群れない〉 〈慣れない〉 〈頼らない〉
彼女は、「人はそもそも孤独なもの」といい、
「自由でいることに命を懸けてきた」と言う。
「私にとって、しいんと引き締まった孤独の空間と時間は何よりの糧である。」
言行一致の生活を、亡くなるまで貫いた彼女。
『孤独』という言葉の意味。
考えたら、深いなぁ。
孤独って何? って、聞いてみたら、10人10色の答えが返ってきそうだ。
堀文子さんの人生は、私には孤独に見えない。(若造がえらそうで、すみません)
私の思う「孤独」とは定義が違うようだ。
彼女は、人とは向き合わなかったかもしれないが、自然を抜群に愛していた。
わたし自身は、人と話すことも、自然と話すことも、そうかわりがない。
私にとっての「孤独」は、何に対しても興味をすべて失った時に、やってくるんじゃないかと思っている。
さて、何を話したかっただか・・・
話をまとめよう! (まとまらないが)
「孤独」になる必要はあるんだろうか?
自立すると孤独になるのか?
孤独じゃないと、自立できていないのか??
このテーマ、いつか、「極楽びっくり演会」で論議してみたいです。(真面目な回ですね)
↑
こんな感じで!!
いや、ちがうか・・
こんな感じで!!!
あぁ、とりとめもなく書きたい気持ちをこのへんで。