東京は深夜25時。
木曜日、東京は深夜25時。
いつものクラブに行くと、なじみのバーカンが白眼を剥いてほろ酔いの私を歓迎してくれる。いくつかコインと引き換えに乱暴にカウンターに置かれた東京イチ濃いハイボールを流し込んで、じわりと痺れる喉の感触でやっと夜が始まったと感じる。作詞で煮詰まった一日をアルコールで薄めたら、たかが言葉の組み合わせごときに死に物狂いだった自分がばからしく思え、カウンターに肘をついて緑のレーザービームをぼおっと見つめながら、くだらねえな、と自然と独り言がこぼれる。このクラブはうるさいから、こんなたわいもないつぶやきだって、なめらかに喧騒へと溶けるのである。
「また会いましたね」と、私に気づいてかけてきた声が笑っている。私がバーのドアを開けた瞬間からあらかじめ言おうとしていたセリフだろうことは、声色から容易に想像がつく。独り言を言っていたのも見ていたのか、こんないたずらっぽい態度を前にこちらも思わず綻んでしまう。「お久しぶりですね」と、相手の持つジントニックかなにかのグラスと乾杯をして、今日の天気や共通の知人などの話を当たり障りなく。今にも壊れそうなガラス細工を丁重に扱うように、ふたりとも自然と核心を避けている。もちろん、私がまだ返信していないLINEについて追求されることなどもない。
イントロ、Aメロ、Bメロ、サビ。
最近ではサビから始まるヒット曲が多いし、「ライブで盛り上がるので、頭にサビを持ってきてほしい」と、私もけっこう頼まれる。そういう曲、そういう前提で作るのなら、頭にサビを持って来たって成立する。メロディや歌詞のストーリーを捻じ曲げてでも頭にサビをと言われた時は、私はそれはいちおう断る。私は必然性のない脈絡のなさに嫌悪感をおぼえるからだ。
「こないだは楽しかったですね」と言われて、堰を切ったようにやっと気持ちが楽になる。「俺も楽しかった、あのお店美味しかったですね」「じゃあまた食事しましょう。つぎはやっと三回めですね」という、その笑いの意味は。いい年した大人がふたり、食事がイコールXXXだということだなんてお互い承知の上で、こんなに丁寧なアポイントメントをし、あまつさえGoogleカレンダーにスケジュールを追加しているのはとても滑稽に思えた。頭からサビがスパークしているような。こういうのは私の脈絡ではなかったはずだが。
いちおうDJバーのくせに、この店でかかっている音楽は本当に適当で、ビリー・アイリッシュがかかったかと思えば2パックに繋がったり、そこからテイラー・スウィフトに行って次はTLCのような、とんでもなく無責任なミックスが聞ける。音楽とは、ジャンルとは、BPMとは…、などと考えこみがちな私にとって、この心底くだらないDJミックスに耳を傾ける時間は、意外な角度から硬くなりがちな頭を和らげてくれると同時に、音楽に脈絡など特に必要ではないという事を気付かせてくれるのだった。
ふたりとも好きなアリーヤの曲が流れたので、「じゃあ踊りますか」とたどたどしく手を取りあってフロアに向かうふたり。バーカンが向こうの方でニヤつく。うるさいな。
東京は深夜28時。曲はアリーヤからヴァネッサ・カールトンに変わっていた。こんな訳の分からない脈絡のなさも、今夜は心地よく、そしていつしか好きになり始めていた。脈絡のなさを愛する。それを歌にしようと思って、頭の中で三行ほど歌詞が浮かんだが、濃いハイボールのせいで酔いが回って、すぐに忘れてしまった。あのとき着ていた、服の色さえも。