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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 83 (6/6/19) Ako Castle Ruins 赤穂城跡

2019.06.07 13:48

Toda Matusyama Castle Ruins 富田松山城跡

Ako Castle Ruins 赤穂城跡

Kagakuji Temple 花岳寺

今日の最終目的地は姫路。そこまでは適当な宿がない。ここ岡山からは80kmの距離で、立ち寄れるのは一ヶ所ぐらいしか時間が取れない。赤穂城に行くと決めている。数年前にも瀬戸内を自転車で走ったとき、赤穂城には来たのだが、その時は5時を過ぎていたので、本丸は閉まっていて中は入れなかった。今回はじっくり見たい。

赤穂までは50km。途中は景色を楽しみながら走る。今日は夏日で暑い。喉が乾く。旅には500mlの水筒を2つ持ってきたのだが、1リットルでは足らないので、1つを1.5リットルのペットボトルに変えた。合計2リットルだが、これも1日で、消費してしまう。

この一週間は山間部の景色を楽しんだが、今日は海岸部の景色を楽しむ。岡山を出て、備前市を通る。備前焼の町。ここに山城跡があり、写真などを見ると遺構も残っており、魅力ある城に思えるので、登りたいが、今日は赤穂城に時間を使うときめているので、素通りにする。

Toda Matusyama Castle Ruins 富田松山城跡

先に訪れた天神山城は浦上宗景の居城だったが、宗景と浦上家の覇権争いをしていた嫡男の政宗の居城がこの富田松山城だ。(詳しくは、もう一人の弟の国秀の城を攻め落とし改修後居城とした。) 覇権争いは宗景の勝利となり、この城も宗景の傘下に入り、のちには宇喜多直家が天神山城が攻略した時にここも直家の領土となった。

次の市は日生(ひなせ)で岡山県の東の端で兵庫県との県境の町。港町で、漁船、ヨット、ボートが停泊している。日生は生まれ故郷の小豆島への航路があり何度か通った事がある。

日生を越えると兵庫県赤穂市に入る。

Ako Castle Ruins 赤穂城跡

やっと赤穂城が見れる。何年振りだろう。4年ぐらいになるだろうか。自転車を昔赤穂藩の藩校の博文館があった場所、今は公園になっている所に駐めて城見学開始。この藩校跡は三の丸のすぐ外にあり、公園の前が塩屋門跡になっている。

赤穂城と言えば、赤穂浪士で有名。赤穂藩主は浅野氏となるが浅井氏は僅か三代で改易。一番長いのは浅野家の改易の後の森氏だが、赤穂市で森氏の影は薄い。全く感じられなかった。少し可哀想。もっと可哀想なのは吉良上野介だ。意地悪じいさんとして描かれて、赤穂浪士に討ち取られる。実際に意地悪だったのかもしれないが、それに腹をたて、殺そうとした浅野内匠頭はどうなのか?悲劇の人として描かれるが、現代的に言うと少し度を越した意地悪に逆ギレ、後先も考えず刀で切りかかった。こんな事、どこの会社でもある。気持ちは良くわかるが、赤穂にいる部下とその家族三千人のことを考えれば、我慢できたはず。要するに、ボンボンだったのだろう。赤穂城跡を見てまず感じたのが、城内にやたらと庭園が多い。何不自由ない優雅な暮らしだったのだろう。そう考えると、浅野内匠頭の行動は気違い沙汰に近い。

更に、赤穂浪士の討ち入りを率いた大石内蔵助が何を考え、決行後、どの様なストーリーを描いていたのか考えるのも面白い。色々なストーリーが歴史学者や小説家から出されている。

博文館

安永6年(1777年)、浅野家が取り潰しとなった後、赤穂藩の藩主となった森家の時代に創建された。

赤穂城全体図

三の丸まで城の輪郭がのこされているか、復元されている。これほどはっきりと三の丸前わかる城跡は初めて。多くのケース、三の丸はオフィス街や住宅街になって、見る影もないのが普通。二の丸も同様な城跡が多い二の丸は大体のケース、広大な敷地の重臣の武家屋敷か、藩主の御殿とか庭園で、跡地は広大な敷地を必要とする県庁、市庁舎、病院、図書館といった公共の施設に使われ、城跡を垣間見ることも稀である。その点、この赤穂城はすっきりとわかる。

三の丸 

三の丸は城の北側半分を占めている。家来の屋敷があった場所。周りは石垣で囲まれていた。今でも石垣が残っている。

案内図では武家屋敷に居住していた家臣の名前が書かれてある。赤穂浪士やそれに関わった家臣の名前が多い。確かの赤穂は赤穂浪士で日本中に知られてはいるが。赤穂浪士は赤穂藩が浅野氏が改易になってしばらくの時代に活躍していた。浅野氏が藩主を勤めたのは僅か三代でそれ以降は森氏が明治維新まで藩主をしている。当然、三の丸の武家屋敷は建て替えもあるだろうし、居住していた家臣も変わっていったはず。赤穂浪士の人気がいまだに高いので、敢えて赤穂浪士時代の家臣の武家屋敷跡がとして、載せているのだろう。気持ちはわかるのだが....

三の丸に入る門は、塩屋門、清水門、大手門、干潟門の4ヶ所。各門の近くには重臣の武家屋敷があり、これはこの門の守りを重臣に任せていたことによる。

塩屋門

重臣宅 塩屋門を入ると直ぐ重臣達の屋敷群があった。広大な土地が更地の様に残っており、板塀で囲まれ中には入れない。ただここに誰々の武家屋敷があったと案内板があるだけ。板塀で囲っているのは何故なのか? 発掘調査中なのだろうか?

赤穂浪士の中でもよく知られている人の名前がある。間瀬久太夫、大高源吾など。

大石神社

城跡に赤穂義士を祀る大石神社がある。大正元年に三の丸の大石蔵之助屋敷跡に建てられた。赤穂浪士一色。参道には赤穂浪士の銅像がある。四十六でなく四十七士だ。寺坂吉右衛門が入っている。個人的には寺坂は逃亡者ではなく、顛末の生き証人として命令されて泉岳寺には行かず、大石の命令で抜けたと思いたい。

一人一人語り継がれている特徴を表している。これは石灯籠が並ぶ参道より面白いかな...

大手門

名前から察するに最も重要な門。石垣は復元されており、やはり大きな門であった事が伺える。

大手門の北には大手隅櫓が復元されている。

大手門を入ると、武家屋敷跡が2軒復元されている。どちらも重臣の武家屋敷。

大石内蔵助屋敷 浅野内匠頭の筆頭家老の大石内蔵助の武家屋敷。大石家は代々浅野家に仕えた重臣。備中松山城にいった時に、大石内蔵助腰掛の石というものがあった。備中松山城の城の受け取りのために幕府より派遣されたのだ。その時に自分たちが全く逆の立場で城を明け渡すことになるとは想像もつかなかっただろう。現在は屋敷の門が復元されており、跡地には大石神社が建っている。

近藤源八屋敷

清水門

清水門の外には歴史博物館がある。当時は米倉があった場所。博物館も米倉を意識して建てられている。時間があれば見てみたいが、多分ないだろう。清水門を出て堀の石垣には東隅櫓跡がある。三の丸の内側は武家屋敷跡があり、坂田式右衛門屋敷跡が武家屋敷公園として整備されている。

二の丸

次は二の丸を散策。二の丸に入るには、北側にある三の丸からは二の丸門と西中門の2ヶ所。南側は当時は海で水手門が唯一の海への出口であった。

二の丸外堀 二の丸は北の三の丸との間は堀で区切られている。南は海であったので自然の要害であった。

二の丸門跡

二の丸門から二の丸に入るとすぐに、二の丸庭園が復元されている。まだ工事中で全部を自由に歩き回れるわけではないが、半分ほどは開放している。大きくはないが、落ち着いた立派な庭園。今は庭園内に取り込まれてしまっているが、大石頼母助屋敷があった。現在復元された二の丸庭園にはこの大石頼母助屋敷門を抜けていくことになっている。

大石頼母助屋敷門

二の丸庭園

大石頼母助屋敷南面から二之丸西仕切までに至る、大規模な池泉を中心とした廻遊式庭園。上流部は池底に玉石や板石を敷き詰め、上水道の水が注ぐ「流れの庭」。下流部では、水深が深く、のびやかな護岸をなし、舟遊びができる雄大な空間。

上流部

下流部

北隅櫓

二の丸庭園は二の丸の南側とは仕切りで独立していた。二つ仕切り門がある。

水手門

水手門は船で輸送した物資の運搬口であった。門を入った所には米倉があった。復元している。

二の丸庭園から仕切られた二の丸の南側で大きな人工池が発掘され、それを復元し、周りに桜を植え、花見広場として市民に開放している。

青鷺が遊びに来ていた。

二の丸南側は海で干潟であったが、今は埋め立てられて、当時の様子とは変わってしまった。当時の海岸線側には川が造られて、川沿いには遊歩道が走っている。当時、海に面していた名残がある。

舟入場 文字通りの所。二の丸の石垣が残っている。一重櫓台がある。

潮見櫓 (上) と南沖櫓 (下)   名前からして海に面していた事がわかる。

三の丸と二の丸を攻略。いよいよ本丸へ突入する。

三の丸から二の丸には二の丸門から入ったが、その直ぐ先に、本丸への本丸門がある。前回来た時は、既にこの門が閉まっていて本丸攻略ができなかった。

本丸門 

立派に復元してはいるが、石垣が余りにも綺麗すぎる。切込みハギの様だが、こんなにきっかりと石が噛み合う様になっていたのだろうか?

左が高麗門 (脇の柱にも屋根がある。秀吉の朝鮮出兵時に各大名がこの方式を使っている)、右が櫓門

本丸は三つの構成となっている。天守台、本丸御殿、そして本丸庭園。

本丸御殿

天守台  天守台には結局天守閣は造られなかった。天守閣が実用な時代ではなくなり、経済的理由で敢えて造ることもないだろうとの事。元々、浅野赤穂藩は5万石しか無かった。城の規模が石高に較べ大きすぎた。

本丸庭園

本丸と二の丸への通路は本丸門以外にもう2つある。一つは厩口門、もう一つは刎橋門(はねばしもん)。

これで赤穂城の攻略が終わった。4時間ほど歩き回り、歴史博物館には行く時間が無くなってしまった。

Kagakuji Temple 花岳寺

城から赤穂駅方面にキロぐらいの所に、浅野家の菩提寺の花岳寺があるので、どうせ通り道ということで寄ってみた。浅野家、赤穂浪士の墓もあるらしい。確か東京の泉岳寺にもあったが.... 墓が複数あるケースは多々あるのでおかしくもないのだが.... では見てみようかと思ったのだが、別の宝物殿とかとひっくるめて拝観料がいる。墓を見るために拝観料が必要とは、始めてのケースだ。この間、行った寺は、住職さんがわざわざ鍵を開けて見せてくれたのに.... それに墓は寺の持ち物では無いと思う。拝観料の一部は浅野家や義士の子孫に行っているのだろうか? 少し納得がいかないのと、墓は見ても皆同じ、見て少しその人がどの様な思いだったかを想像する機会だけなので、寺だけで十分という事で、見なかった。

赤穂の街は城に近い地区には古い建物が残っている。街はやはり赤穂浪士を意識した造りになっている。赤穂浪士中心の観光はうまくいっているのだろうか? 赤穂城はうまく史跡を復元して、巡って楽しめる様になっている。今まで行った城跡でも、上手に造られている部類だ。興味があるのは三の丸をどうしていくのかだ。このまま空き地状態にしておくのか? ちょっともったいない気もする。城見学以外にも楽しめるスペースがあれば良いのにと思った。このままでは、城見学をして、そのまま帰って行ってしまう。ここでも観光地が分断されている気がした。忠臣蔵という日本国民が大好きな材料があり、城もそこそこ整備されている。何かを作るべきだ。鹿児島は史跡は乏しいが維新というストーリーを活用して、観光スポットを作っていた。熊本城は確か桜馬場だったと思うが、土産物、レストラン、カフェを集めたショッピング街を観光バスの駐車場脇に作っていた。大盛況の様に思えた。 忠赤穂も臣蔵をテーマに娯楽性のある何かがあればと思った。

これから後は姫路まで30kmを走る。途中峠超えがあるが、2時間ぐらいで姫路に着くだろう。途中その峠に駕籠かきのモニュメントがあった。松の廊下での刃傷を早駕籠で赤穂に知らせに戻る情景だ。やはり赤穂浪士はいつまでも人気がある。

峠を下るとこんな看板が、自転車も標高100mの峠だがトンネルがあればどれだけ楽かと思う。しかし誰がこれを希望しているのだろう。自動車で移動する人は特に現状でも問題無いと思う。徒歩でこの峠越えをする人か? トンネルの建設はどの様な理由で決まっていくのだろうか?

相生を抜ける。姫路まではもう少し。

そして、姫路 飾磨に到着。走行距離は90kmを越えていた。宿に入り、シャワーを浴びて就寝。