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青川素丸 表参道の父

邪馬台国の鬼道論

2019.06.07 17:03

 邪馬台国(やまたいこく)が古代日本にあったことは誰もが知るところです。また同時に邪馬台国の最高司祭者が女性の卑弥呼(ひみこ)だったことを知らない人もいないはずです。ただ、その卑弥呼が当時何を行っていたか?ということになると途端に理解が及ばなくなります。その辺りの詳細を、日本史で学ぶことはありません。

 実は卑弥呼が司祭者として権力を握っていたのは紀元後180年代とされます。日本にはその当時の状況を書き残した文献がありません。ただ、中国の文献にはその当時の記述が残っていました。それが有名な《魏志》倭人伝です。そこには卑弥呼が、なんと数十年もの長きに渡り、邪馬台国の最高司祭者としての地位を得ていたと記述されていました。そして司祭としての職務について以下の様に書かれています。

 「乃(スナワ)チ共ニ一(イチ)女子ヲ立テテ王ト為(ナ)シ、名ヅケテ卑弥呼ト曰(イ)ウ。鬼道(キドウ)ヲ事トシ能(ヨ)ク衆ヲ惑(マド)ワス。年巳(スデ)ニ長大(チョウダイ)ナルモ夫壻無(ナ)ク………其ノ俗(ゾク)、挙事行来(キョジユキキ)、云為(ウンイ)スル所有(ア)ラバ、輒(スナワ)チ骨ヲ灼(ヤ)キテ卜(ボク)シ、以(モッ)テ吉凶(キッキョウ)ヲ占(ウラナ)ウ。先ズ卜(ボク)スル所ヲ告グ。其ノ辞(ジ)ハ令亀(レイキ)ノ法ノ如(ゴト)ク、火坼(カタク)ヲ視(ミ)テ兆(キザ)シヲ占ウ。(一部抜粋)」と。

 この記述はまさに邪馬台国での卑弥呼の祭祀の態様を示す重要な記述とされます。これを見る限り、卑弥呼が行っていたのは甲骨による卜術(ぼくじゅつ)です。この《魏志》倭人伝の表現を借りれば、何か事を起そうとする際には卜術を用い、進路を決定する判断として利用していたことが窺えます。但し、「よく衆を惑わす」という表現からは、卑弥呼の判断によって翻弄される民衆たちの姿も見え隠れします。つまり、古来自然神を崇拝し続けてきた民衆にとって、卑弥呼の逸常した術は受け入れ難いものだったのでしょう。それをしても、卑弥呼が最高の司祭者であったという事実は、恐らく何かの権威を後盾にしていたからこそカリスマ性を持てたのではないか、と思わずにいられないのです。

 卜術は古来「鬼道(きどう)」と言われていました。鬼道の「鬼」は「霊魂」を表し、正に「霊魂に判断を伺う術」を指します。所謂、神霊術と言われる類のものです。交霊、降霊の術を用いて神憑り、神辞を民に告げる霊媒師的な存在として卑弥呼は六十年間(後に詳述。諸説あり)も鬼道を続けたのです。否、これは本人が望んだというより、時の権力によって擁護され、鬼道によって権力を威信づけするために利用されてきたと解釈すべきではないでしょうか。

 さて話を元に戻すと、「鬼道」は元々《魏志》倭人伝の中で使用されている言葉でした。ただ元々、卑弥呼が行っていた行為を適切に表した言葉かどうかは不明です。中国では鬼=死者の霊魂と考えますから、日本人がイメージする「神」とは異なるものです。そもそも、神が人事に一々(いちいち)ご神託を下すことさえ疑わしい限りですが、もしも人事への介入をするとすれば、それは神ではなく霊魂や自然霊のなせる業と解するのが、中国古来一般的な考え方です。したがって、中国人の眼から見れば、卑弥呼の鬼道は正に霊魂や自然霊に伺いを立てる行為であり、故に「人心(じんしん)が惑わされる」と表現したのではないかと考えられます。

 さて、卑弥呼の行った鬼道は、日本では太占(ふとまに)、専門的には灼骨(しゃっこつ)卜占(ぼくせん)などと言われるものですが、正にこれは中国でも古くから行われていた祭祀の一種であり、拙者は何らかの文化的な伝播を以ってしなければ、このような中国と日本との祭礼儀式の一致はあり得ないと考えるのです。さらに、この卜術祭祀の日本での技術的完成度はまだまだ低かったと想像できます。恐らく当時卜術の判断は、占う者の個人的な特殊能力に依存していて、だからこそ判断の当たり外れの幅も大きかったはずです。なぜ卜術の技術的完成度が低いのかと言うと、当時の日本人に暦の概念が未だ無かったからです。日本人に「日」を太陽神として崇める信仰はあっても、「日」そのものに対する理解までは低かったのです。この時代、日本人は太陽を物理的に理解する能力と運行周期を読み解くだけの技術を持ち合わせていませんでした。あくまで太陽は、信仰の対象で畏怖すべき存在で、太陽に触れることはタブーだったのかもしれません。この暦の概念、時間概念の確立を見なければ正確な卜占はあり得ないのです。

 拙者は「未来の預測」は時間の概念がなければ、成立しないと考えています。時間の概念があって初めて過去と現在、未来を結ぶ時間の軸があることで、事象因果の法則を導くことができるのです。しかし、時間軸が無ければ預測はおろか、因果関係すら導けません。古く日本にも石を配した日時計が作られたでしょうが、それらからデータを記録し、規律化する段階に至ったという歴史的事実は残念ながらありません。  

 拙者の個人的な考えですが、そもそも暦の概念が生じるためには太陽、月など天体を絶対的な存在として観ないというスタンスが必要です。なぜかと言うと、絶対的という「存在」概念が人の心の中に内在化されてしまうと、それはタブー視へと変わり、客観的思考をシャット・ダウンさせてしまうからです。逆に物事を客観視できるスタンスを持って、かつ天体を単なる物体として観ることができる視点が備われば、時間は心の中にではなく、客観的尺度で以って外在化できるのです。つまり、暦が形成される上で重要なことは天体の運行周期から割り出した時間を外在化する作業と言えます。そういう観点で日本人を考える時、正に国家的侵略を海を渡って外から被ることの少なかった民族性を感じずにはおれません。日本人は外界の動きを監視し、内界では有事に備える意識が希薄な民族です。つまり外界との関わりの中で物事を考えるよりも、内界での調和を図ることの方が大事と思う民族なのかもしれません。こうした背景もあってか、日本では暦の概念が自然発生的に起こり難かったと考えられるのです。そこで日本国内で暦の概念がいつ頃、どのように形成され、あるいは他所からもたらされたのか、その歴史的な経緯と変遷について後述したいと思います。