サバト寄りのお菓子
◆少女たちの長崎地図 「買いもん」編 その2
漬物売り、野菜売り、魚売り。明け方から次々にやってくる行商人たちは、それぞれに「フレ声」を持っていた。明治45年生まれの郷土史家・永島正一さんは、記憶の中に響くそれらの声を書き残している。原文はもっとランダムに出てくるが、カテゴリーごとにまとめた。たくさんあるけれど、楽しいのでどっさり並べてみる。
漬物売りは「クーキッ」。
昆布、いも、もやし売りが「バイモ モヤイ」といった。イモとモヤシは何んとなく入っている様だが、昆布はどこに行ったものだろうか。
大根売りは「デーウーデーホ」である。デエコン、デエコンが大訛りしたものか。「ナンマーイーダ」が「ドーイ、ドーイ」に変化したようなものであろう。
西瓜売りは「エスクワェー」、南瓜売りは「ホーフリヤイ」、ボーブラヤイが訛ったものである。
梨売りは、「ナシバーナシヤイ」、柿売りは、「カジワッジュイ、カジワ」、
かぶ売り、「カブダラダラー」、なすび売りは「ナスビーヤイ」、人参売りは「ニーンジンドワイ」、花売りは「ハナーイ」、さかきしばを「サカキシバーイ」。
昆布はどこに行った。そして昆布とイモとモヤシは、おなじ人が売り歩いていたのだろうか?「『ナンマーイーダー』が『ドーイ、ドーイ』に変化」というのは、長崎の精霊流しの掛け声である。爆竹の音でかき消されてはいるが、船を流す人は「ドーイ、ドーイ」と言いながら流す。南瓜は、昔の長崎では「ぼうぶら」と呼ぶこともあった。取り扱う商品にしても、掛け声にしても、きっと人それぞれだったのだろう。永島正一さんの家のあたりに来ていたのが、昆布とイモとモヤシを一緒に売る人であり、大根を大訛りして売る人であり、カブダラダラーだったのだろう。永島さんが記したフレ声の中で、いちばん短くてよくわからないのが「ヤイッ」である。これは木炭売りだ。
はじめ「スミヤイ」と言ったものを、慣れてくるとヤイッになり買う方でもヤイッという声が聞こえると炭売りが来たと分かる。
八百屋さんの掛け声にしても、略しかたや節の付けかたはいろいろだ。その人固有のリズムや節回しがあって、ちらっと声が聞こえて来れば、家のほうでは「あ、大根ば買うとかんば」と表に出たのだろう。いつも売る人、買う人が、お互いにわかっていればよかった。
お次は肉やら魚やら。
鯨の肉売りが、「オゲンヤイ」で、鶏肉売りは「ニワッチョイ」で、豚肉売りは「ブタッショイ」である。マグロの魚売りが「シビーシパイ」、マグロのことを長崎でシビといった。シビにシパイが付いたものだが、シパイとは何んだろう。
鰹売りは、「エッツイ」と云った。これも分らない。
なまこ売りは、「ウルカエーコノワタ」とフレ売いた。なまこは干してイリコという。貿易品、一般に売り歩くことを禁じた時代があった。ウルカ、コノワタを上においてひそかに売り歩くものがあった。のちに「トーラゴヤイ トーラゴヤイ」と売りに来た。正月二日の縁起で買うのである。トーラゴは俵子と書く。正月そうそう、米俵を買うのは縁起がよいという訳。値段も「御祝儀」、売り値を云わず、買値を云わずである。
シパイ、エッツイ……なんだろう。鯨売りの「オゲンヤイ」は、講座の受講生の方から「鯨肉(げいにく)」から来ているのでは?とご指摘いただいた。たしかにそうかもしれない。
なまこ売りは、江戸時代の長崎歳時記に出てくる。正月二日の朝、普段は別のものを売っている行商人たちが、こぞってナマコを売り歩く。なまこは、その日の「なます」に刻み入れる。どうなんだろう…と思って作ってみたが、とてもおいしいものだ(写真)。これからはなまこなしになますを食べたくないほどだった。なまこ好きの方には、ぜひおすすめしたい。「御祝儀」は、時代による変化もあったろうけれど、江戸時代後期には「月の数」だったようだ。通常「十二文」で、閏月のある年は「十三文」。年の月の数だけ「俵」を買って始まるのである。たしかにめでたい感じはする。
ある日浦上の婦人が「ブタはヨゴザンスカ(宜しうございますか、ご入用ではございませんかの意)」とフレ歩いてきた。その日はイワシがいつものようにとれて、「イワシゃヨゴザンスカ」と戸町小ケ倉(とまちこがくら)の婦人が競争でイワシをフレ歩いていた。あっちもイワシ、こっちもイワシである。豚肉売りの婦人がつい引きこまれて、「イワシゃヨゴザンスカ」といってしまってテレ笑い。これは筆者の実見談。その位イワシ売りの声は巷に満ち満ちていたということである。
ほとんど田畑がなく、港も貿易のためのものであった長崎の町の食料は、江戸のころより近郊の村々が支えていた。浦上や戸町、小ケ倉は、長崎に接した農村や漁港である。そして浦上は、キリシタンの村だ。大野良子さんは、そこから来る魚売りのことを記す。
正午頃になると浦上から来る女の魚やさんが二三人あった。浦上には漁業はないからどこかで仕入れての行商であったろう。絣の三幅前かけに筒袖の半衣、その衿もとに十字架がちらほらと見えた。この人達は決して日曜日には来なかった。
大野さんの少女時代を明治40年前後だとすれば、長い弾圧を経た「信徒発見」と、さらなる大弾圧「浦上四番崩れ」は、まだ30〜40年のうちのことである。この「魚やさん」や、朝から野菜をかついで売り歩いていた人たちも「旅」と呼ばれた厳しい流刑にあった人かもしれないし、そうでなくとも親やまわりの人たちから幾度となく「旅」の話を聞いて育った人であったろう。
浦上の人からの聞き書きを二編見つけた。まずは『宮本常一と歩いた昭和の日本2 九州1』より。昭和44年の記事。インタビュアーは、ジャーナリストの中島竜美。
ワンピースにソックスをはいた老婦人は、首に少々太めの鎖をかけており、それがクルスであることが一見して解る。彼女は明治二十一年生れ、今は一人身で遠縁の家にやっかいになっているとのこと。
おばあさんは根っからの百姓育ちらしく、昔の話を始めると小さな目がますます細くなる。
彼女の話というのはこうだ。
このあたりは今でこそ花等を作る農家がでてきたが、以前はじゃがいも、さといも、麦、それに陸稲等を作っていた。野菜が一荷でよく売れて四、五〇銭の頃のこと。よかもんはすべて売りに行き、おかしかもんば食べてきたという。
百姓仕事がない時は土方仕事にも出た。西山の水源地作りにもわらじ一足ひっかついで、朝暗いうちから出かけていった。その他浜町の岡政デパートが建った時、当時としては最もハイカラな二階建ての洋館だったそうだが、左官仕事もできるということでやとわれた。
こうして男衆並みの技術を身につけていった彼女は、信仰の中心である浦上天主堂建設工事には、進んでレンガを積みに参加したという。
浦上天主堂が着工したのは明治28年。建設には19年かかり、鐘楼はそれからさらに11年を要している。天主堂には、明治21年生まれの左官仕事が得意なおばあさんが積んだレンガが、ずいぶんあったに違いない。
もうひとつは、祖母が「旅とられた」女性に聞いた話。さっきのおばあさんより一世代若いくらいだ。昭和38年発行の雑誌『太陽』より。インタビュアーは、詩人でノンフィクション作家の森崎和江。
祖母たちは旅からかえってきて、毎週サバト(土曜)寄りをしよりました。年とって足もとが危うくなったころは母が行きよりました。今はわたしが土曜ごとに行きます。
サバト寄りは、家庭の主婦が近所どうし、集まってお祈りしたり話し合ったりするとです。そのおかげで旅の話も、もう誰の家のどの人はどうだったと、わたしの代までよく知っているのです。その日がたのしみでならん。そんな時に信仰も植えつけられたとでしょうね。
わたしや母の代の人らは、ほとんど原爆で死にました。サバト寄りは生き残った者が受けついだとです。…(中略)…妹も原爆で死にましたし、十字会の姉も原爆を受けて死にましたから、その命日には皆さんにおねがいしてわたしの姉妹の霊魂もまつります。あるときは無縁な人のために。または忘れられた霊魂のために、それらの人々を忘れぬために。
わたしの母はサバト寄りのお菓子などに使うお金は、必ず自分で汗を流して工面したものを使いました。わたしにもそうさせました。手元にある金は使ってはならん、先祖様をしのぶのに苦労しないでは申しわけがないといって畠のものを町に売りに出ました。わたしも原爆症で十分に働けませんが、サバト寄りのためには必ず野菜を売りに行きます。その日は朝から楽しいですよ。
戦争中もつづけていました。原爆のあとのくるしい時も、どんなに力づけ合えたかしれません。いまはサバト寄りをつづけているのもこのあたりだけになりました。
祈りがすみましたら、誰でも食べているものだけれども、芋なんかを煮しめたものを食べながら話し合います。亡くなった人のこと、畠の作物のこと、こんどは何を植えたのか教えあったり……たのしいものです。
永島さんや大野さん、佐多さんの家を訪れていた浦上の人たちの多くは、のちに原爆で亡くなったであろう。左官仕事が得意なおばあさんは生き残ったが、彼女が何年もかけて積んだレンガは一瞬で崩れ落ちた。それを思えば悲しいけれど、毎朝、浦上から長崎の町に運ばれて来ていた野菜のいくらかは、サバト寄りのお菓子にかわり、「旅」や「畠」の話とともに、おばさん、おばあさんたちの楽しみとなっていたのもたしかなことだった。