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江副浩正

2019.06.08 06:44

  それまでニッチ産業だった人材ビジネス市場の裾野を広げ、不動産事業やコンピューター通信事業にもかかわったリクルート創業者で、稀有な起業家・江副浩正氏の出自からリクルート事件、そして、事件後の活動から都内の病院で死亡するまでの生涯を取り上げているのが本書「江副浩正」です。そして、最大の特色は、著者が本書を(稀代の起業家/江副浩正の)「正伝」として語っているところにあります。(注/ 正伝:事実に基づいた間違いのない伝記のこと) リクルートを起業し、リクルートの事業拡大の勢いをかって不動産事業やコンピューター通信事業にも進出した稀有な事業家・江副さんですが、その過程で、表面化した「リクルート疑獄事件」。この戦後最大級の疑獄事件のため、不本意ながらリクルート経営者として第一線を退かなければならなかったため、江副さんの事業家としての功績は常にその疑獄事件によって相殺されているように感じます。(例えば、以前紹介した「世間の非常識こそ、わが常識」(大下英治著)なんかでは、けっこう江副さんのドロドロした人間関係とか、欲望とかが語られていました。ただし、「世間の・・・」は完全なノンフィクションではありませんが。)

  おそらく、そういった江副さんの事業家の功績に対し、悔しい思いを人一倍強く持っているのが、江副さんの生前にともに戦ったリクルート社員方、また、江副さんから薫陶や激励を受けた、または江副さんを信奉していた当時の若手起業家達であったと思います。本書はまさにそいうった ”江副浩正肯定派”から見た「江副浩正伝」です。 実際、著者のお二人(馬場マコト氏、土屋 洋氏)は日本リクルートセンターの元社員ですし、出版社の本書の内容紹介では「江副浩正の実像を明らかにすることが本書の目的である。彼(江副さん)見ていた世界、目指したもの、そこに挑む彼の思考と行動。その中に、私たちを鼓舞し、思考と行動に駆り立てる何かが準備されていると信じるからである。」とあります。さらに、本書の後書きには、「江副さんの遺した数多くの原稿、手紙やメモを読み、社内報をめくり、往時の出版物に目を通し、数多くの方々のもとを訪れた結果が、本著である。。。すべては『事実』で構成されている。だが捨てた『事実』も多々ある。別の視点から『捨てられた事実』をつづれば、おのずとまた異相の江副浩正像が浮かび上がるであろう。。。」(P487)とあります。例えば、本書において江副さんの 奨学金制度「リクルートスカラシップ」設立やそのスカラシップを受け社会人として成長した人々との交流エピソードや、本書の最終章にリクルートイズムとして定着している江副氏の「(企業の)成長の思想と仕組み」を紹介しているところなどがありますが、著者が(稀有な先人の功績の)伝承者としての視点をしっかり持って語っているのが本書の特徴だと思いました。

  江副肯定派でも否定派でもない(といっても最近少し肯定派に傾きつつあるのですが、、)自分にとって私的に興味深かったのは、「世間の非常識こそ、わが常識」の終わり(リクルート再建のために江副さんが個人所有のリクルートの全所有株をダイエーの会長、中内 功氏へ譲渡する)以後の、エピソード(不動産会社スペースデザインを興して進めた高級賃貸アパートメント事業、日本のオペラ界のメセナ事業として立ち上げたラ・ヴォーチェ、そして、江副さんの死亡原因となる東京駅での転倒事件)そして、(やはりリクルート事件に関連してしまうのですが)リクルートコスモスの株式店頭登録にまつわるエピソードでした。

  リクルートコスモスの株式店頭登録に関しては、はじめ主幹事証券会社として野村証券を指名していたのですが、引受審査に時間がかかり、業を煮やした江副さんは店頭登録の話を大和証券へ持って行ってしまいます。そこで江副さんは「政治家を含めてこれまでお世話になった個々の方にも株を持っていただきたいのですが問題ないですか?」と大和証券の会長、千野宣時氏に問います。千野氏は「お付き合いのある人、お知り合い、社会的に信用のある人々に公開前の株をもってもらうのは、どの企業でもやっていますし、証券会社では常識です。」 そして、同席した同証券会社の土井社長も「証券会社の内規では、上場一年前からの株式譲渡は禁じられていますので、お渡しになるならお早めにお願いします。」(P250)と伝えます。この後、株の引受を断った(と江副が勘違いしていた)野村証券を「野村に断られた、いまに臍(ほぞ)をかむのは野村だ。」とののしるようになります。そして、ご存じのように、リクルート事件が1988年の朝日新聞に初報道されます。リクルート事件の最後の法廷となった2003年3月4日まで長期にわたるリクルート事件も一段落した 2006年1月頃、スペースデザインの不動産事業に携わっていた江副は、コスモス株の店頭登録の話を最初に江副に勧めた、当時の野村証券勤務の廣田光次に再会します。廣田は意外にも江副に次のように話します。「江副さん、いつかお話したいと思っていました。あのコスモス上場は、野村で主幹事会社をお受けする体制が整っておりました。ただ引受審査部の審査が長引いて、、あとで審査部できいたのですが、コスモス社内の経理体制を私どもの基準に変更できれば、あと少しで店頭登録できるところまで来ていたそうです。。」「それを私が、野村に断られたと勘違いしたというのだね。」(江副) 廣田は「私がコスモスさんを担当していれば、どんなに江副さんがお望みになっても、政治家、官僚への株式譲渡は必ず止めていました。確かにあの当時は未公開株の譲渡は誰もがやっていたことかもしれません。ただ私ども野村証券では、政治家、官僚への譲渡は、どなたがお客様であろうと認めてまいりませんでした。私は体を張っても止めていたはずです。」「そうか、そうだったのか。。。」(江副)」(P425)そして、「江副の手を持ち、左右に強く揺さぶり続ける廣田に身を任せながら、江副はうめくように声をあげた。野村に断られた悔しさで動かなければ、リクルート事件は起こらなかったのか。ましてその後の長い裁判生活もなかったというのか。。。」(P426)と意味深長なセリフが続きます。

    リクルート事件に関しては、江副氏本人が書いた著書「リクルート事件・江副浩正の真実」の「長いあとがき」の中で本人、江副氏が「なぜ、多額の政治献金をしたのか」を語っています。「自分はさして才能のある人間ではないが、『広告だけの本を無償で配る』というビジネスモデルと事業部制を導入したことでリクルートは発展した。新入社員は我々よりも優秀な人たちを採用し、会社は急成長していった。社内だけでなく社外での切磋琢磨も重要視し『外飯、外酒』を社員にも推奨し、自らも実践した。そうして財界、政治家の『(・・さんを)囲む会』に出席するようになり、そういった外部の先輩からは『政治献金は企業にとって必要なことである。』と強調されたこともあった。そういった中にあって、一方で後に続く優秀な社員に追われ、常に自らも、もっと学ばねば、成長しなければ、という強迫観念に駆られていた。私は絶えず緊張していて孤独でもあった。多くの人と交わることで、学ぶと同時に、乞われるままに多額の政治献金を行い、心のバランスを取っていた。『私はリクルート時代、精いっぱいの背伸びをして道を踏み外してしまった』といまになって深く反省している。(一部要約)」(P371)と心情を吐露しています。

   私もこのリクルート事件ついでに「政治献金」について少しネットで調べたのですが、何か特定な私的利益見返りが目的の献金でなければ政治献金は違法ではないようなことが、どこかに書いてありましたが。。(どなたか政治献金について詳しい方がいたらご教示下さい。。)

   最後に捕捉になってしまいますが、江副浩正関連本で私的に一番のおすすめは江副氏本人の著作「リクルートのDNA - 企業家精神とは何か」です。やはりご本人自身が企業家精神について語っているのが一番の魅力です。