魏志倭人伝の「二倍年暦」
日本で暦の概念が生まれたのは果していつ頃なのか?その原初をたどるのは難しいですが、《魏志》倭人伝(正式:《三国志》魏書東夷伝倭人条(わじんのじょう)、陳寿)(西暦280-290年)の中に有名な一文があります。「魏略曰其俗不知正(歳)四節但計春耕秋收爲年(紀)。人多壽百年、或八九十」。この前半は「《魏略》に言います。『その習俗は正歳(せいさい)、四節(しせつ)を知りません。但し、春に耕作し、秋に収穫することを計り、年紀(ねんき)としています。』」と訳します。つまり、当時の日本人に歳紀(さいき)や四季の概念が無かったと言うのです。これは、当時の日本の暦文化レベルを如実に表したものと言えるでしょう。魚豢(ぎょけん)が著した《魏略》から西暦5世紀頃、裴松之(はいしょうし)が註(ちゅう)として引用したものとされますが、《魏略》自体が《魏志》よりも先に記されているので、3世紀頃の日本の状況を窺わせる記録と理解されています(同様の記録は《晋書》倭人伝にもあります)。さて、次の文節へと読み進めると「人の多くは100歳、或いは80、90歳」と記されています。果して古代の日本でこれほどの長寿命があり得るのか?という疑念に駆られます。
これについては様々な論争がありますが、現在有力視されているのは「二倍年暦」という暦の概念(春秋暦とも呼ぶ)が存在した可能性です。確かに先の記述をよく分析してみると理解できなくもありません。「正歳」を知らずとも、「年紀」が行われていた記述、そして「春の耕作」「秋の収穫」を計算して年紀とする記述法を考え合わせれば、春で一年、秋で一年という数え方があったと考えられるのです。勿論、この二倍年暦で計算すれば、当時の人の寿命も50歳、40歳、45歳などと妥当な年齢になります(勿論この真偽は依然決着を見ていません)。ここで重要なことは、日月星辰に基づいた暦ではなく、限りなく農事暦に近い物候の類が古代日本で使用されていた可能性です。中国から暦が招来されるまで日本では暦が存在しなかったとする考えもありますが、農事暦に近い自然暦はあったはずです。そうでなければ100歳をカウントするという発想すら生まれなかったでしょう。つまり、暦の概念の素地は既に出来ていたのです。日本では当時、水稲耕作が行われ、その上で農事暦は必要だったはずです。農耕社会ではその村の長が日(暦)を計算する「日知(ひし)り」(=聖)の責務を担っていたと考えられます。その後も、遺跡出土品などの研究から5世紀頃、既に中国の紀年銘(きねんめい)のある鏡や刀剣が日本へ持ち込まれていた事実も明らかとなっており、日本人は意識的に暦に関心を持ってなかったとしても、日月星辰に基づく中国の暦の一端には触れ始めていたと考えるのです。