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この道往けば act2

敦賀新港線

2019.06.08 16:40

廃線

僕はこれまでこの分野を食わず嫌いしていたかもしれません。

廃道、廃隧道、廃トンネル、これらのいわゆる廃美という美しさにひかれて、僕はこのようなレポを公開しているわけですが、それもひとえに「道好き」という元があったからといえます。


前々回の「金ヶ崎山トンネル編」で気付かれた方もいるかもしれませんが、この探索の時に僕の中で一つ、新たな趣味が芽吹きました。

やべえ、廃線面白いかも・・・


そんな中、金ヶ崎山トンネルの情報収集中、気になる情報を見つけてしまいました。


それは・・・、

かつて敦賀の港地区には敦賀新港線なる貨物分線があった!

現在はその痕跡をほとんど残していないというその分線、これは行くしかない!!

探索の起点となる敦賀港線との分岐の痕跡は、全く残っていませんでした。

まぁ事前情報通りではあるんですが、やはり目にするのは寂しい。

取り外され横になった遮断機が、休止線の悲哀を物語っています。

しかし休止線から分岐する廃線・・・、よくよく考えればこのネタ、ローカル色強すぎか?

・・・まぁ・・・気にせず続けよう・・・。


ちなみに写真の位置は金ヶ崎山の手前で大きくカーブするあたりです。

分線はこのカーブのさらに内側をカーブしながら分岐していました。

なかなか無茶な線形・・・。

さていきなり飛びますが、ここは分岐地点のカーブの先、つまり写っているおうちの裏側が上2枚の写真の撮影地点。

敦賀新港線は両宅の間を直進していたものと考えられます(当時から右の家はあったかも)。

ちなみに写っている道は旧国道8号、左が金ヶ崎隧道、金ヶ崎山トンネル方面です。

ここを廃線疑定地とする理由は2つあります。

1つはこの直線的な道の繋がり。

先ほどの両宅の間から一直線に伸びています。

分岐方向を向いてみるとこんな感じです。

このようなスペースが残っているのも怪しいポイント。

こういう宝探し要素が廃線探索の楽しい所です。

そして写真にも映っていますが、ここを疑定地とする2つ目の理由がこれ!

敦賀赤レンガ倉庫

明治時代に建てられた国の登録有形文化財です。

資料によるとこの赤レンガ倉庫の前を斜めにレールが横断していたとの情報があるので、ここは間違いないと思われます。


いつ頃撮られたかわからない写真ではありますが、写真確認もできました。

その風景が見たかった・・・。

完全に余談ですが・・・、杉本隧道などでもしばしば話題に上げた、煉瓦についての雑学です。

煉瓦を摘む方法は主に「長手積み」と「小口積み」(「ドイツ積みとも)に分けられます。

「長手積み」は見える方に細長い長方形が来る積み方。

「小口積み」は同じく正方形に近い長方形が来る積み方です。

これはあくまで基本。


実際の積み方は日本では主に2つの方法が用いられています。

それが「イギリス積み」と「フランドル積み」(フランス積みとも)

イギリス積みは横一列に長手積み、その上の段に小口積み、その上に長手積みと積む方法。

フランドル積みは横列に長手、小口、長手、小口と交互に積む方法です。


敦賀赤レンガ倉庫にはイギリス積みが用いられていますね。

イギリス積みはフランドル積みに比べて丈夫と言われています。

現存してるのもそのおかげかも・・・。

閑話休題。

本編に戻ります。


奥に見える赤レンガ倉庫の左わきから、左カーブしながらレールが通っていたものと思われます。

現在は金ヶ崎臨港トンネル(中央分離帯のようなところ)によって、見る影もありませんが・・・。

レールはそのまま金ヶ崎緑地内を通過します。

植え込みが怪しいと思いましたが、これだけ整備されてたらはっきり言ってわかりません。

ただ線形を考えれば、植え込みより右の建物の辺りを通過してたと考える方が現実的ですね。


線形というのは少なくとも2ヶ所の疑定地もしくは確定地を線で結ぶことで予想される、線路の道筋です。

つまりこの先にそこに線路があったと確定させるものがあるということ。

敦賀新港線唯一にして最大の遺構がそこにはあります。

市民の皆さん、気付いてましたか?

橋 台 !

目倉川橋梁とでも呼ばれていたのでしょうか?

この地にかつて鉄道がとおっていたことを示す、現在では唯一の痕跡です。

限界まで接近して撮影してみました。

もはや知っている人間でなければ、これを見ても橋の跡と思わないのではないでしょうか。

今日はじめて、荒廃していくものの美しさを感じました。

もちろん対岸にも橋台は残っています。

写真中央に残っているのは橋脚ではありません。

僕も一瞬疑いましたが。

この位置からは一直線に見えますが、ちゃんと見れば微妙にずれています。

河川施設の一部ではないでしょうか?

唯一の遺構となってしまった「目倉川橋梁」で橋を渡った敦賀新港線ですが、現在は「きらめきみなと館」によって完全にその痕跡を消されています。

丁度線路上と思しき位置からの撮影ですが、まさにとおせんぼです。

こればっかりはどうしようもないので建物の裏側へ。

建物の裏手はきらめきみなと館の駐車場となっています。

その奥のいかにも古そうな倉庫群。

その間を直線的に抜けるスペース。

そして右側は当然、敦賀港。

ここが敦賀新港駅の疑定地です。

倉庫が立ち並ぶ光景は現役当時と変わらないのでしょう。

ただそこにレールがあればの話ですが。


敦賀新港線は1943年に敦賀港駅の側線となりました。(ようは構内を走る線路の一部)

もともと明治時代に金ヶ崎付近にあった敦賀港。

それが大正期に現在の蓬莱町付近に新たな港が開かれ「敦賀新港」となりました。

現在ではこちらが「敦賀港」と呼ばれていますね。

そしてさらに現在はフェリー乗り場の影響もあり、さらに北側に移動され「敦賀新港」となっています。


波乱万丈の人生を歩んだ「敦賀新港線」

今は静かにアスファルトの下に眠っています。

復元された敦賀港駅舎。

かつて敦賀市が日本屈指の都市だった時代がありました。

海上交通の拠点として繁栄し、外国製の世界地図にもその名が刻まれていたのです。

そんな時代の残り香をほんの少しだけ感じた気がします。


以上、敦賀新港線編