受命改制
「受命改制(じゅめいかいせい)」の思想とは?
天子が徳を失うことで天命が変わり、王朝交代が起きることは理解できましたが、それと暦法とが、どのように関係するかについて説明したいと思います。
実は中国の政治思想にもう一つ「受命改制」というものがあります。これは新たに君主(天子)が天命を拝受した事実は世々に明白たらしめなければならず、そのため、政治的に各制度を改める必要があると考えるものです。これは鄒衍(すうえん)(紀元前305年~240年)が唱えた説とも言われ、中国の「革命」は天命の交代だけでなく、諸制度の改革も含むと考えるものです。つまり、暦法も受命改制によって改める必要が出て来るのです。これこそが中国において太初暦(たいしょれき)以降、清朝まで約50回に渡って頻繁に改暦を繰り返した理由です。勿論、暦法と天体運行に誤差が生じたり、日食・月食などの天象予報が外れれば、修正は加えられるべきで、これも改暦理由の一つとなります。
しかし、最も大きな理由は、やはり「天命を受けた天子が天の意思に基づいて国の統治を行い、同時に天命に従って国の制度も改めるべき」という政治的思想が底流にあったからと言えるのです。
鄒衍は戦国時代の斉(せい)国の思想家(儒家)で、陰陽五行説をまとめた人物です。鄒衍の学説体系は3つから成っており、1)天文及星暦的天論、2)九大洲理論的地理学説、3)陰陽五行的五徳終始説です。中でも顕著なのは3)「五徳終始説(ごとくしゅうしせつ)」です。これは秦、漢の政治に大きな影響を与えるものでした。例えば、秦の始皇帝が六国(りっこく)を統一した後、五徳終始説を採用したことが、《史記》卷六秦始皇本紀第六・二十六年に記されています。「始皇推終始五徳之伝、以為周得火徳、秦代周徳、従所不勝。方今水徳之始、改年始、朝賀皆自十月朔。衣服旄旌節旗、皆上黒。数以六為紀、符、法冠皆六寸、而輿六尺、六尺為歩、乗六馬。更名河曰徳水、以為水徳之始。」これは秦の始皇が韓(かん)、魏(ぎ)、趙(ちょう)、楚(そ)、燕(えん)、斉(せい)の六国(りっこく)を滅ぼし、天下統一を成し遂げると同時に、五行思想から秦の徳を「水徳(すいとく)」に定めたという有名な一節です。この「水徳」に基づき、秦では年始を陰暦10月とし、衣服や旗旄(きぼう)(=旗と飾毛(しょくもう))は黒を尊び、また数は六を基準として、割符や冠、輿をすべて六尺、馬の数も六頭で仕立てることとし、黄河の名も徳水(とくすい)に改めたと言います。このように始皇は暦のみならず、度量衡(どりょうこう)まで統一し、制度の改革を進めました。しかもこの記述を読む限り、始皇は、六爻、命理を篤く信奉していたと推察できます。正に五行生克の理を忠実に実践に移した制度改革と言えます。
では、なぜ秦の始皇が受けた天命が「水徳」でなければならなかったのか?その徳を利用する意味は何であったのか?について次に触れてましょう。