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青川素丸 表参道の父

始皇帝「水徳の計」

2019.06.08 17:38

 制度を改める場合、何を基準に改めるべきかは、歴代王朝を築いた天子の最大のテーマだったはずです。この時、天子は必ず王朝の永続と安定を願うもので、そのために手を尽くすのが天子の義務でありました。一方で、改制の大義、あるいは改制により、どんな利や果を得ることができるかまで周到に考えてきたはずです。中でも、秦の始皇が得たとされる「水徳」《史記》の記述に、拙者はこうした緻密な計算があることを察しました。そこで、この始皇の「水徳の計」について考えていきたいと思います。実は、学者は従来天子が受命(じゅめい)すべき徳を次の5つの分類(五常(ごじょう)の徳)の中から業績やその傾向、性格と照らして、それぞれの皇帝・王朝(時代)と結びける発想を抱きました。 

 ●信徳・・・属土の徳(土徳) 五帝の時代。漢朝。

 ●仁徳・・・属木の徳(木徳) 夏朝        (寅月正月)

 ●義徳・・・属金の徳(金徳) 殷(商)朝     (丑月正月)(服装は金徳の白)

 ●礼徳・・・属火の徳(火徳) 周朝と後の春秋戦国 (子月正月)

 ●智徳・・・属水の徳(水徳) 秦朝 

  (水徳は宇宙サイクルの最終段階、水徳を持つ政権は未来永劫続くと考えられました)

 後に詳述しますが、上記は五行の相克関係に基づいて王朝を配したものです。五行には「土に克つのは木」「木に克つのは金」「金に克つのは火」「火に克つのは水」と言う相克の理があり、秦は周に勝つことで中国の統一を果たしたので、相克関係にあるとします。

 水の配象は黒色であり、数字では1と6で、北であり、亥と子、冬をなします。

 その気の本性は「潤下(じゅんか)」です。生気旺盛(せいきおうせい)ではなく、安定冷静の象です。亥月は旧暦10月、現在の11月。また亥は陽水を表します。ここまでは易の基礎知識を持っていれば誰でも思いつくでしょう。 

 では、なぜ始皇の天命が水徳でなければならないか?について考えてみましょう。水は北を表しますが、北天には不動の星「北極星」があります。北極星は、天を統べる安定の星とされ、天に照らして天子は「北座(ほくざ)し南向(なんこう)する」を尊ぶ思想がありました。さらに、水は冬を意味しますが陽気を長生する時でもあります。また、始皇は寅歳生まれでこれは亥水と生合(せいごう)関係にあり、始皇が力量を得られる地支です。亥は陽水の気で、水徳=智徳(ちとく)でもあります。水の本性は「潤下」で、天高き所から地の低きへと、流れ届く象。これは天徳(てんとく)が国の隅々まで行き届くことを意味し、改制に際してこれほど良い意味がそろう地支もないのです。水の生数(せいすう)は1で、成数(せいすう)は6です。亥の数も6です。王朝を安定維持するためにも将来起きるであろう凶事を吉事に変える成数の利用は不可欠であり、そのため6と黒色を利用するのは易学の常套手法です。そして数字の6は、偶然にも始皇が統一した国の数と符合し、それを統べる始皇が数字の「6」に支えられている意義も見出せます。

 一方、八卦において水は坎であり、事の始まりを示します。始皇は初めて中国全土を統一して、初めて皇帝を名乗り、中国の基本的な制度を最初に確立した天子です。当然、そこには易学精通者の助言があったはずですが、これほどまで五行に心酔し、利活用を見い出した天子も始皇をおいて他にいないのではないでしょうか?そして、始皇の政事(せいじ)を詳しく見るにつけ、「水徳」には何らかの策が隠されているように思えます。物に対して6と黒を単純に当てはめた訳ではない点がポイントです。

 基本的に風など自然に靡(なび)く物(旗や流し飾り等)、動く乗り物(輿や馬等)、自分を象徴する物(印や冠等)、自ら着用する物(服装)へ、この6と黒を適用しているのです。実は、この策は始皇に直接、影響を及ぼす事物に限ったはずです。さらに言うと、6頭の馬も黒色だったでしょう。なぜなら、これらの策は、全て始皇自身の力量を常に強める働きをするばかりか、始皇が水気(の徳)を得られる仕掛けになっているからです。極めつけは、黄河を徳水と称した件(くだり)です。黄河は秦の首都の咸陽を囲む形で北に位置し、しばしば洪水被害を引き起こしています。人民に対し天子の威徳を示すため、黄河の治水事業は重要案件でした。黄河の名は「黄(こう)」であり、五行でいう土の気です。つまり、五行的には、始皇が有する「水徳」を克す関係にあります。したがって、これも「徳水」と敬称することで、土の気を払拭する策であったはずです。なぜならこれが易学や地理風水学で気の流れを改善するための策だからです。

 天子は自分が国を統治していることを人民に明らかにし、かつ存在感をアピールしながらも人民から信頼を得るため積極的に改制を実施しました。勿論、改制の裏の意義として自らに利をもたらす徳(気)が授かり、かつ活用できることが大前提でした。ですから、暦上の年始の朝賀(ちょうが)を旧暦10月(亥月)に改めることは、天子と王朝にとって重要な意義があっても、人民にとって別段何の恩恵もないのです。つまり、天子自らの利を計ることを目的とし、暦を政治的易学的に利用する以外の何物でもなかったのです。易姓革命の思想は五行説と結びついて王朝交代が五行運行(相克)に適(かな)っていたことで注目されました。そして、五行に則り実際に受命改制まで遂行されました。勿論時代背景も影響しています。秦朝以前の戦国時代は王道(おうどう)が否定され、覇権(覇道)を争う時代だったからです。そして、武力や実力こそが天命を得る手段であり、そこでの「徳」とは、人民をうまく統治し納得させるキーワードだったのです。つまり、始皇「水徳」の計は、こうした人民統治や皇帝自らの安泰を計る意義が忍ばされた計略に他ならなかったのです。