暦に影響を与えた「易経」
中国には古くより四書五経(ししょごきょう)という典籍があります。四書は「論語(ろんご)」「大学(だいがく)」「中庸(ちゅうよう)」「孟子(もうし)」を言い、五経は「易経(えききょう)」「書経(しょきょう)」「詩経(しきょう)」「礼記(らいき)」「春秋(しゅんじゅう)」と言います。これらの典籍は儒教の学問体系を構成する書物(経書)として重用されたものです。また、五経は四書よりも高度で重要であるという認識が当時からありました。特に、五経は戦国時代には著され始め、時代時代でまとめられていく内に儒教の経典(=経書)として認められるようになりました。こうして明代に《五経大全(ごきょうたいぜん)》が完成し、科挙(かきょ)(官僚登用試験)の教書としても利用される程になったのです(但、学術的評価は然程高くなかったとも言われています)。
さて、五経など経書の中で最も「暦」と関係が深い典籍が「易経」です。易経は元来、「易」あるいは「周易(しゅうえき)」と呼ばれる書物ですが、経書の一つとして取り込まれた際、「経(きょう)」の字が加えられたものです。易が重視された理由は2つあります。一つは古代中国で行われていた卜筮(ぼくぜい)術の英知が体系化され、天文と関連する独自の宇宙観が顕されていたこと、もう一つ、万物変化は天(宇宙)と人とが互いに感応し合い、有機的に連動した結果生じるもので(天人相関説(てんじんそうかんせつ))、正に天の事象と衆人を統べる君主との関係性を重視したり、易の象数(しょうすう)から自然規律を見い出し、未来を預測しようとする思想が、当時台頭していたことです。
後者の天人相関説は、人民を統治する君主にとって自らを権威づける格好の理論でしたが、逆に天変地異が起きれば自らにその責を問われる局面を孕む両刃の剣でもありました。これは前漢の董仲舒(とうちゅうじょ)が、五行説と天人相関思想とを結合して、災異・祥瑞の思想を整理したことも拍車をかけています。君主は天災を通じ間接的に自らの放埓(ほうらつ)を人民から監視される訳なので、たまったものではありません。けれどもそれ故に、歴代の君主は一層天変地異の預測に心血を注ぐことになったのです。さらに、時を同じくして、「赤精の讖(せきせいのしん)」など王朝存亡の預測が的中したことも相まり、讖緯(しんい)学、象数易学(しょうすうえきがく)は神秘的、かつ人民にとって関心の高いテーマとなって、瞬く間に民間へ伝播したのでした。
(※「赤精の讖」=夏賀良(かがりょう)が斉(せい)の方士・甘忠可(かんちゅうか)から
授かった「漢家歴運中衰、当再受命」の預言)
この象数易学とは漢代に流行った易学の流派で、象や数に秩序と意味を持たせ、あらゆる事象のシンクロなどを利用して、未来の預測を試みる学問です。卦気(かき)、世応(せおう)、納甲(なっこう)、方位、卦変(かへん)、爻辰(こうしん)、升降(しょうこう)、旁通(ぼうつう)、互体(ごたい)を利用するなど易卦(えきか)に精緻な秩序を見い出しており、高い的中率を持つと考えられ、現在の易学預測(六爻預測学)の大本にもなった易学です。
中国では象数易が政治的な利用価値を認められ、かつ未来預測という人類の五感では為し得ない神秘性から研究の対象になったことは疑いのない事実であり、特に、漢代においてはこの領域で、施讎(ししゅう)、孟喜(もうき)、梁丘賀(りょうきゅうが)、京房(けいぼう)ら学者が輩出されました。この時代、周易に戦国時代から説かれた「五行」理論を取り込み、時間により移り変わる「気」という存在を考慮した十二消長卦(しょうちょうか)の理論の発見などもあり、天文暦法と象数を結合した六爻預測学の原型がここに完成したのです。また象数易の概念は、律暦(りつれき)思想へ発展していきます。前漢も終わり頃になると、五経すべてを修めたという劉歆(りゅうきん)が登場。先の五徳終始説を五行の相生関係から唱えて、さらに律暦思想に基づき、劉歆は中国の夏・殷・周・前漢で採用された「太初暦」を増補、「三統暦(さんとうれき)」を編纂したのです。三統暦は太陰太陽暦ですが、従来の大小月を配して、章法により閏月を挿入する暦法に対し、五星(ごせい)(五惑星)の位置の計算法や日食、月食の推算などを導入し、天文暦法的色彩がより濃い暦となっています。
さらに、三統暦には「天・地・人の三才(さんさい)思想」「三正交替(さんせいこうたい)説」「五行五星の理」「五声(ごせい)十二律」等が複雑に織り込まれ体系化されました。「統」の単位は1539年、3倍の三統は日数にして1686360日。これは古来、易学や命理学で用いてきた六十干支との整合性をとった暦になっています。その意味からも三統暦は中国暦法の規範となり、易学の要素が暦の中に採り込まれた、画期的な暦法として受け継がれることになったのです。