三十七冊目:文化人類学の思考法
【文化人類学の思考法】
著者:松本圭一郎・中川理・石井美保 編
出版社:世界思想社
あまりに細分化された現代世界は、人類が本来持っていたはずの自由な関連づけの能力を奪い、生の断片化を加速 させてきた。断片化した生の中では人は、あるものの存在性能を決まり切った見方からしか捉えられなくなる。例えば「女」として出生登録されたあなたが、魅力的な「男らしさ」を具えたっていいことや、美術館に陳列された貝殻の首飾りが、トロブリアンド諸島の人々にとっては(そしてきっとあなたにとっても)重い病を治す呪物となり得ることに、すなわち「ありえるかもしれない現実」に気がつかなくなる。そして繰り返しを強いる制度によって知覚は自動化し、決まりきった枠の外に出られなくなり、私たちはどんどん息苦しくなっていく。
以前、ブログで「類推」ということについて書いたことがあるのですが、文化人類学の思考法はまさにそのような視点に立った知見です。本著は、先日紹介した「うしろめたさの人類学」の著者:松本圭一郎さんが編纂に関わられ、数人の人類学者が「当たり前」という言葉で凝り固まってしまった現代社会や世界を違った目線で見直す為の思考法について述べた本になります。
本著に書かれていることは、所謂自己啓発本に書かれているような革命を起こす「強い力」ではなく、むしろ「しなやかな転向」を促す言葉達です。上記の引用にあるように「ありえるかもしれない現実」に気がつくことで、どこか他人事となってしまっている「日常」の中から、問題の根や、解決の糸口に「気がつく」そんなあり方です。
人類学というと、未開の人々の暮らしの研究というイメージがあると思います。そのような研究から何を学ぶのかと言えば、神秘的な「呪術の世界」の真髄‥ではなく、自分たちが日常使っている仕組みや言葉や美観や思考のより深いところに流れる「源流」を探る作業です。つまり日常と非日常との間を往来することで、見えなくなっていたことや、当たり前だという言葉で誤魔化していたおかしな状態に気がつけるようになる。ということです。「都会に暮らしてみて、不便で嫌いだった田舎の良さがわかった。」というような体験に似ています。田舎の現実は何ら変わっていないのに、自分自信の対象への見方が変わる。人類学はそんな学問だと、僕は考えています。
都会と田舎、少数民族と日本など「距離感」がもたらす感覚は、今立っているここと、遠く定めた指標を対比することで、自らの立っている場所について文化的、歴史的、思想的に知る為の目印とする作業です。ただ、一点よく勘違いされるのですが、ここでいう「距離」というのは、物理的なものだけではなく、「時間」も含みます。簡単に言えば「ギャップ」があることが大切になります。その意味でインドの貧困の村と、コンビニにくるアル中のお爺さんと、サンカやアイヌの人々の営み。という一見関連のない人々への関心は、「自分とは異なる世界で生きている」という意味において、すべて人類学的な興味に集約されています。そして、自分の場合はより近いところで、少しズレている人々の営みやあり方に興味を持つことが多いです。これは人それぞれだと思います。
共通しているのは目の前の凡庸な「当たり前」を疑う。という姿勢だと思います。見て、知っていることは多くあります。でも、それについて「考えていること」はどれほどあるでしょう?僕らはどうも答えを出すことに急ぎすぎてじっくり観察し、考える時間が乏しいように思います。そして、大切なのは答えではなく、見て、知って、考える一連の経験の集積にあるように思います。
最後に本著に引用されていたアイルランドの詩人:イェイツの伝記の一節を載せたいと思います。
田舎の村々で民話を採集していたイェイツは、ある老婦人から多くの妖精潭を聴きとる。やがて夕闇が迫り、老婦人の家を辞した彼は、庭の木戸のところでふと振り返り、こう尋ねる。「あなたは妖精を信じているのですか?」。老婦人は頭をそらせて笑い、「いいえ、まさか!」と答える。ややあって、小道をたどり始めたイェイツの背中に、老婦人の声が追いかけてくる。「でも彼らはおりますよ、イェイツさん、おりますとも。」‥
わかる事より大切な事や、曖昧だからこそ愛おしい関係というのが、誰にでもあると思います。その秘密の箱をこじ開けて中身を知ろうと思うのは人間の性かもしれませんが、箱の中には答えはなく、それそのものが何かを考える時の見出し=インデックスなのではないでしょうか。目次を読むだけでは内容がわからないように、「いるかもしれない」「ありえるかもしれない現実」が、何のためにあるのかなんてことは明るみに晒さなくても、そこにいるだけでいいのではないでしょうか。僕はそんなことをよく考えています。