F.CHOPIN、フレデリックとリストの壊れた友情に、父ニコラス72歳が物申す
ショパンはパリのピガール街でサンドと別棟で生活する毎日が続いていた。作曲と演奏活動だけでは収入が足りず、作曲の仕事の合間に自宅で貴族のご夫人相手にレッスンで副収入を得ていたショパンだった。
それは、パリにショパンが来た頃に遡ること10年前の1831年、ショパンはパリ音楽院の生徒として受け入れてもらえず、(ショパンはワルシャワ音楽院を卒業し、既に作曲の技法を身に着けており知識と才能に恵まれていたためか、またはポーランド人という人種差別からである)その頃、ロッシーニや、ケルビーニ(当時71歳)が音楽院で職に付いており、ショパンが音楽院に見に行った時、若い学生が、我こそはとケルビーニのお出ましを待っていて教えを乞おうとしている行列を見て、「あれでは音楽家になれない」と悟ったショパンだった。ショパンは、ケルビーニや音楽院の教授たちのことを「この紳士方は、ひからびたでくのぼうです」とワルシャワのエルスネル先生に報告したことがあった。
そして、ルイ・フィリップ王のことは、1832年に「僕は、カルロス党員に大賛成だ(スペイン革命派)僕はルイ・フィリップの連中は嫌いだ。僕は革命派だ。だから、僕は金ではなく友情を取る」と、ワルシャワ時代の友人ドミニク・ヤン・ヘンリック・ジェヴァノフスキに告白したことがあった。
ショパンは、その友人との約束をずっと忘れずにいたのだ。ショパンは時を経ても自分の信念は曲げないという意味では変わらない人であったのだ。
そういう性格を一番よくわかっていたのは、ポーランドのショパンの家族だった。フレデリックの気持ちを理解しながらも、ワルシャワの家族は「困ったことをしてくれた」と、不安な日々を送ってた。
フレデリックは父ニコラスが心配していた12月30日の便りの返事を2月25日に書いた(現存せず)。そして、そのフレデリックの返事を父ニコラスが書くまで1週間程かかった。
「2月25日のお前の手紙(現存せず)は私たちに二重の喜びを与えました。
お前からの沈黙の数月の後に、私達の心配は静まったのだよ。
もし、ワシレウスカ夫人がまだ生きていたら、私たちは、もっともっと痛い目に遭わされたはずです。」(ポーランド伯爵夫人だったマリア・ワシレウスカは、ナポレオン1世の愛人となりフランスはパリに渡り、フィリップ・アント二イ元帥の愛人となった人物。それが、この話のワシレウスカ夫人である)ワシレウスカ夫人は1817年に亡くなっているのだ。ワシレウスカ夫人は複数の権力者の愛人だったのだ。もしも存命だったら、息子フレデリックがフィリップ王に逆らったことへの制裁がもっとひどい目に遭わされたのではないかとニコラスは息子フレデリックに言ったのだ。つまりは、もう既に何かの形でひどい目に遭っているワルシャワのショパン一家だったのだ。
「けれど、ワシレウスカ夫人の息子さんからの手紙のおかげで、私たちは安心しました。
お前は夫人の息子さんを親切に歓迎してくれたそうですね。彼は、そうお世辞を書いてくれたのです。私たちが受けた第二の喜びは、お前が音楽会を開いたことです。」
つまり、ワシレウスカ夫人の息子アレクサンドルはフレデリックと同い年だった。
父ニコラスは昔、ワシレフスカ夫人が子供の頃に彼女の家庭教師をしていたことがあったのだ。だから、ニコラスはフレデリックが上手くアレクサンドルの相手をしてくれたことで、これ以上の制裁は免れたと話した。
ショパンはフィリップ王の前で弾かされたのが1841年の12月2日、翌年1842年2月21日、ショパンはプレイエル奏楽堂で再び演奏会を開いていた。
その時の演奏が聴衆にとても満足を与えたとワシレウスカ夫人の息子アレクサンドルが評論を書いてくれたのだった。
それから、ニコラスの心配事は、まだあった。リストとのフレデリックの仲たがいのことである。ショパンはリストの悪意の論文(愛人ダグー・マリーがゴーストライター)以来、悪評を立てられ、リストとの友情も壊れていたのだ。父ニコラスはそのことをとても心配していたのだ。
ニコラスはフレデリックに語り続けた。「お前は、いつもお金に困るとやむを得ず教える仕事をいなくてはならぬが、これで、お金が出来たから、夏の間は避暑に行き、教える仕事から逃れることができる。」ニコラスは、フレデリックが無理をして弟子を取ってレッスンをすることはパリにフレデリックが来た時から反対していた。
フレデリックの身体をいつも心配するニコラスは、「数か月は田舎で静養するように」と息子を労った。
そして、リストの事は、フレデリックの便りからニコラスは事実を聞き驚いたのだ。
フレデリックは、タールベルクがパリでデビューし、大成功を収めた1836年の時、
タールベルクに人気をさらわれたリストをショパンは助けたことがあった。
タールベルクはシューマンに酷評されたが、シューマンに取り入るために対位法の作曲の技法を少なくしたのだ。リストは、「タールベルクは自分を脅かす存在だ」と、その時、愛人ダグー・マリーに泣きつきていたのである。それを心配したリストの母が、ショパンに「息子を助けてやったくれませんか」と頼んだのだ。ショパンはリストの母親からの頼みだったこと、そして友情を大事にしたためリストを助けたのだ。
この時、リストはショパンにタールベルクを弾いて解説してもらい、リストが優位になる
作曲法をショパンに伝授してもらったリストは「ショパンの時間を独り占めしたことに満足だった」と愛人ダグーに告白したことがあったのだ。
それなのに、リストは、タールベルクとショパンを風刺した悪評を愛人マリーに自分の名前を使って書かせたのだ。それを、シューマンの雑誌「ガセット・ミュージカル」に載せたのである。
その事実を初めて息子から聞いたニコラスは「正直、お父さんはリストがそのような人だったとお前から聞くとは思わなかったのだよ。」
ニコラスはフレデリックからリストとの友情が壊れた理由を初めて聞き、リストがそんな人だったとは…と、ニコラスは自分もリストに裏切られた気分であった。息子の大切なピアノをリストに弾いてほしいと思っているとフレデリックに言ったことを後悔したニコラスだった。
そして、ニコラスは話した。「リストは今、ロシアを経由してロシアからケーニヒスベルク経由でベルリンを発ったと言っているよ。その帰りにワルシャワでリストは演奏することになっているのだよ。」
そして、父ニコラスは、リストとタールベルクがワルシャワに演奏に来れて、自分の息子であるフレデリックが自分の故郷に帰ってこれない理由が分かって来たのだ。
ニコラスは更に話を続けた。「お前の演奏会についてのリストの論文の記事の中で、お前とタールベルクのことを一緒に言及したことは、お前には何も役に立たないとお父さんは思うよ。
このような状況でお前はどうするつもりかね? お前は、道を譲ることなく、
お前は威厳を持って振る舞えば、すべての非難をリストに降りかからせることができるのだよ。」
ニコラスは、息子が友情を大事に生きて来たことをよく知っているために、リストの息子への裏切りを聞き、息子フレデリックにそう助言したのだった。
そして、ニコラスは付け加えた。
「私も、もう72歳になるのだよ、
余生はまだ少し時間があるから、お前からの数通の手紙を私は読みたいのだよ。
お前が今、どうしているか教えてほしいのです…。私はお前だけが楽しみなのだ。
夏はもうすぐ来るが、お前は何を考えていますか。
お前はパリに滞在しますか?それともどこかに行きますか?」
ニコラスのもう一つの心配事はサンドのことである。ノアンのことをフォンタナから聞いたのであろう。
ニコラスは、息子フレデリックが人の道から外れていないか心配してたのだ。
「私たち家族は、お前を忘れていないことをお前も忘れないでください」と、ニコラスは家族の愛をフレデリックに伝えずにはいられなかった。
アレクサンドル・コロンナ=ワシレウスカ
1810年5月4日 - 1868年9月27日)、ポーランドとフランスの外交官、政治家。
彼はまたナポレオン1世と伯爵マリア・ワシレウスカの非嫡出子。
彼の父親から伯爵の称号と16万ゴールドフランの年金が支給された。
マリア・ワシレウスカ(1786年ー1817年パリ)ナポレオンの愛人だった。アレクサンドル・コロンナ=ワシレウスカの母。