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たくさんの大好きを。

深海4 (文

2019.06.09 11:37


黄昏時の色をゆらゆら揺らめきながら映している水面を、時折視界に挟みながら赤いクーパーが家路へと急いでいく。

脳裏に浮かぶのは兄の顔ばかりで。

兄が話していた国生みの話が何故だか今の自分達の状況に重なっていく。


憎しみなんてない

そもそも持てるはずがない

けれどジワリと心を蝕むこの厄介な黒い感情は確実に自分の中で育っている。

これだけは知られたくないから。こんな想いを抱えているなんてそんな資格すらないと

いつも辿り着くのは同じ答えだ。


変わってしまったイザナミに背を向け走り去ったイザナギのようには、兄との約束に縛られているこの男にはきっとできない。

胸の間にそっと手を添え、それを手繰り寄せながらギュッときつく握りしめる。

大丈夫。あたしにはアニキがいてくれるから

あたしが出来る事はーーー


「香?」

俯いたままじっと一点を見つめていたあたしを不審に思ったのか、ハンドルを握ったまま視線だけこちらに移し獠が問いかけてきた。

「うん?なに?」

きっとあたしはひどい顔をしているはず。

手のひらの中の無機質な塊の感触を確かめながら、外の風景を眺めているフリをして、絡んでくる視線から逃げ出した。

窓越しに見える全てが淡い赤や金色に染められていて、頬や顔がその一部のように溶け込んでしまいそうな錯覚を覚えながらも、身体の半分側に感じる現実との温度差に、背けた顔は頑なになっていく。

「、、おまえなあ、さっきのはなんなんだよ。」  

「さっきの?なにが?」

獠がなにを問いかけているのかわからず、思わず冷たさを含む声になり、僅かだが獠の気配が揺れる。

タンタンとイラついたように人差し指でハンドルを打ちながら不機嫌さを隠そうともせず、獠が言葉を続けていく。

「だから、さっきのだよ。アイツの言葉を聞くなっつーただろうが。」

「アイツ?荒木、、さんの事?どうして?少なくともあたしには悪い人には見えなかったわ。信用はまだしてないけど、でも話ぐらい聞いてもいいと思う。」

「、、アイツが言うことが本当だとしたら、ヤタガラスっていうのは相手にするには厄介な奴だ。ユキの護衛をしながら、アイツに目を光らせるなんて面倒なこと俺はごめんだね。」

キキーーッッとブレーキ音を響かせながら、クーパーが赤信号で急停車をする。

衝撃で前のめりになり自然窓際から身体が離れた香は抗議の声をあげた。

「あっぶないわね!!別にいいわよ。あんたには荒木さんの事で煩わせたりしないから。

ユキさんのガードに集中したい気持ちはわかるから、こっちはこっちでどんな目的なのかだけでも聞いてみるから。」

チッ。という舌打ちと共に右手でハンドルを軽く獠が叩く。

「だから、、っ!おまえなにが言いたいんだ?」

「はあ?!言いたいことは言ったと思うけど、、、どうして獠がイライラするのよ。」

「俺はっ、、別に、、。」

青信号に変わり、クーパーが緩やかに発車していく。

何年たっても読み取ることのできない男の胸の内を思い、香は小さくため息を落とした。

「ねえ、獠。あたしね難しい事はよくわからないけど、ユキさんには今支えてくれる人が必要なんだよね。あたしにだってユキさんが誰を必要としているかはわかるよ。伝わってくるよ。」

言いながら気持ちが折れていきそうになるのを振り切るように一呼吸つけずに言い切った。

「、、だから?」 

「だから、大丈夫だから。そりゃあね、今まで散々自由に生きてきたあんたには窮屈かもしれないけど、でも大切な人が側にいるなーー、うわっっ!!」

キーーーッキキーッ

先ほどよりも強い衝撃を受け、香の言葉はけたたましいブレーキ音に飲み込まれた。

乱暴にガレージに滑り込み停車したクーパーのハンドルを握る男の顔は不機嫌さが色濃く増している。

「なっ!?もうちょっと普通に入ってこれないの?!なんなのよ!」

キャンキャン噛み付く臨戦態勢の香を横目に無言のまま獠がクーパーから降りる。

バン!!と苛立ちをぶつけるようにドアを閉め、ガンガンと乱暴に階段を登っていく姿に

「、、なに?あれ、、、」

と、いつもは悔しいぐらい冷静な男が見せるあまり馴染みのない姿に思わず放心状態になる。

「、、面倒な事は嫌だって言ってたもんね。そうだよね、あたしまで狙われるかもしれないなんて面倒すぎるよね、、」

足手纏いにだけはなりたくない。

アイツが手を離せないなら、それなら、、、

「、、バカ、、決めたんじゃない。揺らぐな。」

やっとの思いで決めたなけなしの決意を誰かにそれでいいんだよーーと背中を押してもらいたくて

瞼の裏に浮かぶどんな時でも優しく包んでくれた存在を思い浮かべ、切なさが胸をよぎっていく。胸の間に同じ温かさが在ることを確認するように、小さなソレをぎゅっと香は握りしめた。

「ちゃんと見ていてくれるよね。」

そっと呟き香は静かにクーパーを降りた。


翌朝、午前様で帰ってきた獠をいつものようにハンマーを交えつつ叩き起こした。

いつもの風景だが、すでに懐かしささえ覚えてくる。

まるで兄と妹のような何年も続いてきたやり取りが香の心に優しい灯火のように灯り、自然口元が緩んでいく。

「、、なんだよ?いつもなら頭にツノが生えてそうな勢いなのに、なに笑ってんだよ。」

ベッドの上に胡座をかいて座りながら、寝起きの寝癖満開の頭をガシガシと、

「調子狂うんだよ、、」

などとブツブツ言いながらかき乱している。

「ツノってあんたねえ。ちゃんと起きてこないあんたが悪いんでしょ。早く食べちゃってよ。ユキさんの所に行かなくちゃ。」

アレでしょ、これもやっとかなきゃ、あ〜〜出るまでに時間足りるかな?

と眉間に人差し指を当てながら、今からの行動を頭の中でシミュレーションしている香に、髪を撫ぜる手を止め獠が問いかけた。

「なあ、おまえアイツのことどうするんだ?」

一瞬、『アイツ』の示すところに思考が及ばず

ぴたりと行動が停止した香は、昨夜の帰路につく際のやり取りを思い出し、少し眉をひそめる。

あれから獠との間の重い空気を払拭するように、せわしなく家事に取り掛かり、無言で夕食を平らげた後、「、、出てくる。」と言う背中を見送った。

正直、ほっとした気持ちが強い事に驚いた。

出掛けて欲しいわけではないが、それよりも言葉を交わすと平行線のままに気持ちだけがどんどんと削られていきそうで、いつの頃からか、獠の不在の時間に自分の気持ちをリセットさせる事を自然身につけていたことに気づく。

諦めーー

それは多分そんな感情に近くて。

膨れていく感情のほとんどを諦めて、ほんの僅かな現実にだけ拠り所を見つけながら。

そうして諦めることにさえも、鈍感になっていくのを装い、胸の奥の奥に溜まっていくモノに見ないフリをしていた。


朝が来ればまたいつもの二人に戻れるから

なにもなかったようにまた日常が始まっていくから


何度も何度も言い聞かせた言葉はいつか真実になり、そうあるべきだ。という錯覚さえ生んでいく。


今更なんでーー

終わったはずの話を蒸し返すなんてらしくないと思った。

無関心を決め込んでくれていた方が今はよっぽど楽なのに。どうやったって交わらない気持ちのズレは結局はいつまでたっても近づけない二人の距離かとため息さえも出てこない。

「、、アイツって?荒木さん?だからその話は昨日終わったでしょ。どっちにしろ向こうが引く感じがない以上は接触するしかないじゃない。そんな頭ごなしにダメなんて獠らしくないよ。」

約束の時間に遅れてはいけないと焦る気持ちが、香の言葉に棘を含ませていく。

「俺らしいってなんだよ。おまえに俺のなにがわかるんだよ。なんにもわかっちゃいないだろーが。」

「わかるわけないでしょうが。あんたみたいになに考えてるかわかんない奴なんて。」

「だったらわかった風に言ってんじゃねえよ。」

ああ、まただ。朝からこんな雰囲気なんて最悪だ。折角リセットして折り合いをつけた気持ちをえぐる目の前の男が今はただ腹立たしかった。

けれど今はこんなことで揉めている場合ではないとキッと睨み付けると、

「な、なんだよ。」

と少し怯んでたじろいだ様子の獠に

「時間がないんだってば!とにかく早く着替えて朝ごはんを食べて身支度をして出発するわよ。シティーハンターが遅刻なんて信用に関わるんだから。」

まくし立てるように一気に言い切ると、

いい?と鋭く睨みを効かせながらバタンとドアを閉め香は部屋を後にしようとし、思い出したように

「あ!今日は女王さまの警護に警察関係者の人たちに混ざる形だから、スーツだからね!

そこにかかってるからちゃんとしてきてよ。」

と告げ、バタンとドアを閉じ立ち去った。

「なん、、っだよ。話をぶった切ってんじゃねえよ、アイツーー。」

のろりと立ち上がりながら獠が時計を見上げる。

「チッ、、仕方ねえなあ。急ぐか。」

複雑に交差する、様々な背景やら厄介な想いに、はあああと獠の口から深いため息が思わず漏れる。

「まあ、とりあえずヤツの出方を見て、、か。あの人にも話を聞きに行かなきゃなんねえだろうな。」

あああ、めんどくせーーと頭を抱え左手で顔を覆った。馴染んだ気配がパタパタとせわしなく動き回るキッチンへと聴覚を傾けながら、

着替えますか。と独り呟き、クローゼットのドアを開け、始動していく。




「で?今日の予定は?」

黒いスーツに身を包む獠が窮屈そうにネクタイを緩めていく。

「今日はこの後すぐに開催される、スポーツ大会に国賓として招かれています。

午後5時からの予定は、皇太子夫妻との会食が設けられています。」

「おたくらの国は皇室との繋がりも深かったな。付き合いも色々大変だよな。」

立場的に内閣補佐官に当たるであろう男を獠がちらりと一瞥しながら、壁にもたれかかり両手を大げさに広げてみせる。

「でも、まあ、、、会食ってことはドレスコードも華やかだろ?てことは、胸元がパックリ空いたりスリットが際まで入ったーー」 

ヒュン。という音と共に10トンハンマーが獠の顔面に炸裂した。

「この、バカタレーー!!場をわきまえろ!

そんな大切な会食の場で不埒な様子が少しでもあったら、次はこんぺいとう飛ばすからな!!」

これ以上恥を晒すな!の揺らめく怒りの圧にたじろぎながらも獠が応戦していく。

「いってーな!俺の行動よりおまえのこんぺいとうにみんな引いちまうだろーが!

そっちの方が恥ずかしいわ!」

「、、、その言葉そっくりあんたに返すわ。

あたしはいつもいつも恥ずかしい思いしてるんですけど。」

「ぐううぅぅ、、、ほんっっと可愛くねーやつ!」

「あんたに可愛いだなんて思われたら気味が悪いでーーすっ!」

あっかんべと舌を出す香に、眉間にシワを寄せながら補佐官なる男が呆れ顔で見つめている。

好意とは程遠いその視線に、

「あはは、、は、、えと、、その、、こんな奴ですが仕事はちゃんとしますから。ご、ご心配なく。」

渇いた笑いと共にあたふたと説明する香に、

おまえも充分怪しまれてるけどな。とは口に出せないまま獠が男の方へ歩み寄る。

「今日の出先の警備状況の配置図は?」

「、、それはこちらです。冴羽さん、、でしたよね?観戦場と会食の場ではそれぞれ後方のこちらとこちらで待機をお願いします。」

「へいへい。」

「もう!真面目に聞きなさいよ。」

カツン。と香がパンプスで獠の靴を蹴り、腕組みをして睨みつけた。

「わーってるよ!いちいち蹴るな。暴力おーー」

パコン、パコーンと時間差で10トンハンマーが二つ容赦なく落とされる。

「なんか言った?」

「、、なんでもないです、、はい。」

先ほどよりも更に深く眉間にシワを寄せる男をいつものことですから〜とやり過ごし、話を進めるように促していく。

「、、何かご質問は?」

「あるな。ここと、ここの死角はどうする?」

いって〜んだよ。とコキコキ首を鳴らしながら、地図上にある二つの場所のそれぞれ一点ずつを獠が指し示す。

「問題ありません。間違いのない人物を手配しています。」

「それはーー」



「私ですよ。」

カチャリとドアを開ける音と共に荒木と名乗る男が現れた。

「、、相変わらず気配を消すのはお手の物だな。元ヤタガラスっていうのはあながち間違いじゃなさそうだ。」

「私は事実のみしか言っていませんが。装う必要はないからです。あなたのようにね。」

穏やかな口調で語りかけるように荒木が言葉を紡ぐ。

「、、俺の何を知ってる?」

「さあ、、必要だと思われる情報のみです。それがあなたにとって知られたくないものかどうかは分かり兼ねます。」

二人の男の間に冷えた空気がほとばしる。

柔らかい笑みでその空気を割り、荒木が視線を香に移す。

「香さん、あなたを守ることが私の任務の最優先ですが、昨日もお伝えした通り、王女の護衛はあなたを守るためにも必要不可欠です。聞きたいことがあれば何でも聞いてください。答えられる範囲でお答えします。」

「まだ話は終わってない。おまえが信用できるかどうかさえ分かっていないのに、そんな話が呑めると思うのか?」

 「獠!」

「おまえは黙ってろ!」

どんな相手に対してもいつもは冷静すぎるぐらいの男が見せる緊迫した様子に、荒木と名乗る男の力量が自身が思う以上に底知れぬものがあるのかもしれないと、香の心にも緊張が走る。

「あなたはわかっているはずです。

私が誰に頼まれてここに来ているか。

あなた方に不利益になるようなことをするはずがない方ということも。

あなたのそれは、感情的な異論に過ぎない。

だから彼女は迷う。

その負の連鎖をいい加減断ち切るべきだと

思いませんか?

言ったはずです。私は香さんを傷つける全てのものから守ると。」

「、、、何をどこまで聞いているか知らないが、おまえには関係のないことだ。」

「あなたがどう思おうと私は私に願いを託した方の為に、与えられた役目を務めるだけです。」

成り行きを少し離れた場所から見守っていた補佐官なる男が抑揚のない声で二人の間を遮るように、

「信用。という点ならご心配なく。

こちらも女王の身の安全がかかっている事案ですので、より慎重に人選を行なっています。しかるべき筋から派遣された問題のない人物です。」

と、告げ軽く荒木に頭を下げる。

「どうかよろしくお願いします。あの方を失えば今度こそ国そのものが崩壊してしまうでしょう。お力添え頂き感謝致します。」

「最善を尽くします。香さんは私が護衛の間は側にいてください。場合によっては後方待機をお願いするかもしれませんが、その時々で判断致します。」

「は、はい。」

穏やかだが有無を言わせない口調の荒木に、

香は反射的に肯定の返事を返す。

「香!」

苦虫を噛み潰したような顔で声を荒げ、獠が香に視線を移した。

「獠。とりあえず今は言う通りにしよう。ね?

今ここで揉めている時間はないから。ユキさんが待ってる。あんたはそっちの事だけ考えて。」

「だから勝手に決めんなってーー」

「冴羽さん!!」

扉が開いた瞬間、弾けるような笑顔と共に獠の胸に飛び込んでくるユキに目を奪われる。チクリと胸が痛むが、あの素直さの欠片でもあれば少しは変わっていたのだろうか。とある種の憧れにも似た感情が湧き上がり眩しさに目を細める。

「おわっ!!」

ユキを受け止めて体勢を崩した獠が抱きかかえた姿勢のまま、後ろに少し弾かれる。

「女王様、少し戯れが過ぎます。」

先程から一切の感情を見せなかった男が、少し怒気を含んだ声でたしなめ、ユキに手を差し伸べた。

「ごめんなさい、、つい嬉しくって。

またシンイチに怒られちゃった。」

手を取りフワリとユキが満面の笑みを浮かべ、ありがとう。とその場に立った。

「シンイチ、、さん?」 

香の問いかけに、

「ええ、シンイチの祖父母は日本人なんです。

日本語も堪能なので、私もシンイチには随分頼って助けてもらっています。

でも、ちょっと厳しいのが窮屈な時もあるんだけど、、ね?」

いたずらっ子のようにシンイチの方を見つめながら、ユキがコロコロと笑う。

「女王が無茶ばかりなさるから、厳しくもなります。」

「ん、、もう!女王は堅苦しいから辞めてって言うのに、全然聞いてくれないんだから。

頭でっかちなんです。シンイチは。」

「女王!」

「ほら、ね?は〜い、わかりました。」

憮然とした顔のシンイチと隣で自然体で首をすくませるユキに目を細めながら、獠が独り言ちる。

「、、、ちゃんといるんだな、気づいてないのは本人だけ、、か?」

ユキから眼差しを外さない獠に気づき、香は思わず胸に手を添える。細い鎖をそっと押さえ、俯き瞳を一瞬だけ震わせた。

そんな香の様子を部屋の片隅の少し離れた場所から荒木がじっと見つめていた。




曇り空の下のビルの間を抜け、新宿に背を向けるように車は進んでいく。

少し車を走らせるだけで、景色が一変し流れる時間も不思議と緩やかに思えてくる。

指定された配置場所に向かいながら、兄もこんな風に警護に当たることがあったのかとぼんやりと想いを馳せた。

季節ごとの習わしや、日本的な事柄をことさら大切にしていた兄だった。母のいない香に母がいないからだと後ろ指を指されるようなことがないようにという兄の想いがあったのかもしれないと気づき、涙した事を思い出す。



まだ見たことのない日本海の話をしてくれたのも兄だったーーと懐かしい兄の姿を思い浮かべる。

「荒々しくてとっても仄暗いんだ。だけど何故だか不思議とずっと見つめていたい。

そんな場所なんだ。何故だろうな。

お前はいったいどう感じるんだろうな。」

「連れてってよ、アニキ。」

「いつかな。」

「約束だよ。」

「ああ、約束だ。」

交わした約束は永遠に守られることなく、記憶の中の一部のまま香の中で生きている。

兄と見る景色は一体どんな色を帯びていたんだろう。

見たかった。一緒に行きたかったよ、アニキ。

連れていってよ、あたしをーー


沈みいく香の心に、柔らかな声が降りてくる。

「香さん。大丈夫ですか?少しお疲れのようですが。」

「あ、、」

ハンドルを握り右にウィンカーを出す荒木をはっと見つめ、思わず両手をぎゅっと握りしめる。

「先程、大切そうに触れていたそれは、お兄さんの形見ですか?」

香の胸元を指差し、荒木が問いかける。

「あ、、気づいていたんですね。どうしてあたしの事をそんなにご存知なんですか?誰があなたにーー」

「それは、今はまだ言えません。サエバにも伝えた通りあなた方に不利益な事をなさる方ではありません。今回の件ではあなたが王女を守るために無茶をしないようにという思いを語られていました。私に託すと。」

「それはーー。」

「香さん、あなたの思いが決まっているなら私は全力でそれをサポートしたいと思います。迷っている間が一番隙が出来やすい。

国同士の契約というものは、表で見せているものが全てではありません。

光が当たらない場所で交わされる密約の方が重き場合も多々あります。

そしてそれを壊そうと暗躍する人や国が必ずいるものです。」

「あなたは、、そんな場面にたくさん関わってきたんですか?」

思いがけず、真っ直ぐに貫いてくる瞳に自然険しくなる荒木の視線にも香は一切怯まない。

しばらく無言で見つめ合っていた二人の沈黙を破るように荒木が口を開く。

「何故、そう思われますか?」

「わかりません、、どうしてかなんてわからないけど、そんな風に思ったんです。

あなたの言葉には嘘がない気がするから。

守るためだけに生きてきたとあなたが言っていたあの言葉はきっと本当なんだ、、って思ったからかもしれません。」

緩やかにカーブにハンドルを右に切り、前を見つめたまま荒木が静かに言葉を繋げる。

「、、そんな風に思った、、ですか。」

「はい、、ごめんなさい。改めて言われるとあたし何言ってんだろうって恥ずかしいですね。わかった風に言ってごめんなさい。」 

真っ赤になって俯く香に荒木の口元が自然綻んでいく。


「笑いました、、?」

「ええ、笑いました。」

「やっぱりっ!!どーせあたしはバカですよっっ!」

「そんなこと言ってませんよ。」

「い、言ってはないけど、、でもっ!」

「でも?」

「そうじゃなくて、顔がーー」

「元からこんな顔ですが。」

「あ、、う、、あ、だからっ、、そういう意味じゃなくてーー!」

益々真っ赤になって、あうあうと怒ったり困ったり泣き出しそうになったりと、クルクル変わる香の表情に、堪りかねたように荒木が声を上げて笑い出した。

「そんなに笑わなくても。」

真っ赤なリンゴのような頰を軽くぷうと膨らませ、ジト目で香が荒木の方を見る。

賑やかなやり取りの最中も、目的地へと車を走らせていくその横顔は、予想外に楽しそうに香の瞳に映り、

笑うと少し幼くなるんだーー

と初めて見る感情の起伏の大きな振り幅に、

クスリと思わず笑みが漏れる。 


「香さん。」

「はい。」

「不思議な方ですね、、あなたは。」

「え?、、」

「サエバがあなたを離さない理由が、、私には分かる気がします。」

理由なんてーー

と言いかけて言葉を飲み込む。

ある特定の事柄になると、伝えるということが至極苦手だということに改めて香は気づき、ため息混じりに答える。

「あたしは獠にとって妹みたいな存在なんだと思います。あんな奴ですけど、兄貴との約束だってずっとあたしをそばに置いて守ってくれました。ほんと、普段は馬鹿みたいに不真面目なくせに、そんな所だけは真面目なんだから。」

「私には妹と思っているようには見えませんでしたよ。」

「じゃあ、、少しはパートナーって思ってくれてるのかな、、妹みたいな家族みたいなパートナーってところかもしれません。」

伏し目がちに香は言葉を続けていく。

「妹なら、、家族なら、いつかは、、離れる時が来ます。あたしは、あの日獠の背中を見つめるだけしか出来なかった。」

「ユキ・グレース、、ですか?」

丸い薄茶色の瞳を揺らしながら、香が息をのむ。

「そこまで、、ご存知なんですね。荒木さんにはなにも隠せませんね。」

心の奥まで覗かれているような感覚だが、不思議と嫌な気持ちは全く無かった。

まだ出会ったばかりの人物に、ゆるりと警戒心が解かれていく事に、心地よささえ覚えていく。

「嫌、、ですか?」

「、、どうしてですか?」

花が咲くようにふわりと笑う香に荒木は目を奪われる。チクリと痛みとも違う感情が胸を撫ぜた。それは甘い何かで。

「、、自分の事を探られるのは誰しもいい気はしないものですよ。」

「だってそれが荒木さんのお仕事でしょう?」

どうして?となんの疑念もないような屈託のない笑顔を香が返す。

荒木は一瞬動作を停止すると、フイと香から視線を外した。

「私は、、こんなやり方しかできない、そうやって生きてきた人間です。」

「獠とあたしの仕事だって変わらない。知られたくない情報にたどり着く時だってたくさんあります。じゃあ、荒木さんとあたしは同じですね。ね?違いますか。」

「香さん、、」

昨日とは違う、荒木という男の次々と現れてくる感情の揺らめきに、香は確信めいたものを抱く。

この人は敵ではないーー



「ヤタガラスって日本の神様を導いたっていう鳥ですよね。」

「そうです。よくご存知で。」

地下の駐車場に車を滑り込ませ、静かに車が停止した。

「亡くなったアニキが教えてくれました。

神話の世界なんてお伽話みたいだとあの頃は思っていました。」

「お伽話ですよ。でも私には全てでした。今でも守るべき対象だった方への気持ちは変わりません。もうあの世界へは戻れないだけです。」

淡々と言葉を繋ぎながらも、その瞳が寂しく揺れた。

「、、きっとあたしの知らない世界があって、知らない間に沢山の事が守られているんですよね。」

肯定も否定もせず荒木はじっと前を見つめている。

「荒木さんが生きてきた世界も、ユキさんが生きてきた世界も、あたしが生きる世界だって、沢山の知らない事で溢れていると思います。お伽話もそうじゃなくても、大切にしている人がいる限り意味がないことなんてないって、、思うんです。」

驚いた表情の荒木と香が見つめ合う。

「そうですね、、どんな世界に居たとしても、生きる意味が持てるということは幸せなことかもしれませんね。」

「、、たとえ生きる世界が違っても、生きていてくれれば、笑っていてくれればそれでいいと

思えるんです。」


側にいられなくても

隣に立つことができなくなっても

妹のように家族のように想うことは許してほしいと願う。 


「羨ましいです。そんな風に想われて。」

眩しそうに荒木が目を細めた。

「あ、あれ?あたし、、なんでこんなに、、

や、やだ、そんなんじゃないです!」

あっちこっちに視線を動かしながら、香の頭からシュウシュウと湯気が上る。

「あ、荒木さんにもきっと居たはずです。荒木さんの幸せを願う方が、きっと。」

「私の?」

「はい。」

真っ赤になり、それでも真っ直ぐに見つめながら香が頷く。

「こ、こんな優しい瞳をした人に、周りに誰もいなかったなんて思えないです。あ、あたしはそう思います。、、、、ごめんなさい。」

最後は恥ずかしさから消え入るような声になり香は俯く。


「あなたが謝る必要はないですよ。」

「へ?」

「まさかこんなご褒美があるなんて思いもしませんでした。」

「ええ、、と?」

香の方を見ながら、口角を少し上げて笑う荒木に、香の頭にクエスチョンマークの花が咲き乱れる。

「守らせてください、あなたを。」

「だ、だ、大丈夫ですから!!」

「ダメです。もう決めています。」

「えええ!!?」

悪戯っ子のような瞳で楽しそうに肩を揺らす荒木に、驚きを隠せない香の声が車内に響き渡っていく。

「覚悟しておいてください。」

助手席の方に少し身を乗り出しながら、荒木がにっこりと笑う。

「な、、、」


瞬間、腕を軽く掴まれた。

驚きで香の瞳が大きく見開かれる。

至近距離に在る男の瞳に、息が止まりそうなぐらいに胸の鼓動が駆け上がっていく。


「あなたが望むなら、何処へだって連れていきますよ。それであなたが傷つかずに済むのなら。

泣きたい時には泣いてください。

忘れられなければ忘れなければいい。

せめて私の前だけでは、あなたはあなたのままで居てください。」

掴まれた腕をそっと引き寄せられて、優しく肩を抱かれた。

触れる指先は、獠でもアニキでもないけれど振り払おうなんて何故か微塵も思えなくて。

ああ、泣いていいんだ。とぼんやりと思考を手放すと、溢れるように涙が頬を伝っていく。

香を包む腕の中は限りなく優しく温かい。


閉ざされた2人だけの空間の中、

声にならない声で泣きじゃくる香の震える背を、寄り添う男の大きな手がさらに深く包み込んでいった。




「おっせーな、なにやってんだ、アイツは。」

渡された配置図に目を通しながら、チラリと時計を見やり、獠が呟く。

「来ましたよ。時間ちょうどで問題ないです。」

メインの入り口の方に視線を移しながら、シンイチが2人の到着を伝えた。

ガラス張りの入り口付近の窓には、等間隔に、スーツに身を包んだ警護に当たる警察官が配置されている。

都心から少し離れた場所にあるスタジアムは、オリンピック誘致のために作られた真新しい建物で所々使用されている木材の香りが、爽やかな空気の流れを生んでいる。

「申し訳ありません。遅くなりました。」

足早に近付き、軽く頭を下げる荒木の横で

「すいませんでした!」と深く頭を下げる香の目元は少し腫れぼったくなっている。

二人の間の空気が何故か変わっていることに

黒い感情が獠の足元から駆け上がり蠢く。

さり気なく庇うように前に立つ荒木に、一瞬で険しい表情に変わった獠の鋭い視線が突き刺さるが、荒木は表情一つ変わらない。

「何があった?」

「なにも。」

意に介さぬ様子で、トンと軽く背を押し香を促すと、警備の場所へと歩みを進めていく。

獠の声に気づいた香は、口を横に結び目を合わすことなく、荒木の横に並び歩いていく。

「お似合いですね、あの2人。」

先程から会場入りするために待機しているユキがSPの輪を離れ獠の横で、甘い声で耳元近くで囁いた。

無言のまま、まるで声など聞こえていないかのようにぐるりと背を向け立ち去ろうとする獠に、

「冴羽さん!!」

と切なさをぶつけるが振り向くことなく立ち去っていく。

纏う空気が一変したことに近寄りがたさを感じ、言葉を繋ぐことさえ躊躇い、唇を噛む。


一部始終を黙って見ていたシンイチが、

「時間です。」

とユキを促していく。冷静さを欠くことのないシンイチの心中は窺い知れない。

「ねえ、シンイチ。」

「時間です、王女。」

再度発せられた制止の言葉に、軽く睨みを効かせながらユキは歩みを進めて、また口を開く。

「どうしても諦め切れないものの為なら、人生で一度くらいワガママ、、許してもらえるわよね。」

「、、、、」

「嫌な、、女なのかな、私、、

それでもどうしても必要なの。他の人じゃ無理なの。」

「、、嫌な女なら、そんなに泣き出しそうな顔はしませんよ。」

顔色を変えず、振り向くこともなく前を見つめたまま、シンイチがユキを言葉で包みこむ。

「ありがとう。」



「ねえ、あなたってどうしていつも難しい顔してるの?」

「誰かさんが苦労ばかりかけるからですよ。」

「うん、もう!誰かさんて誰よ。」

「1人しかいませんが、、、」

ユキを見つめるシンイチの瞳は深い海の色をたたえている。深く、揺るがない。



「アニキと、、、約束したんです。」

「約束ですか?」

「いつか、、日本海を見に行こうって。連れて行ってくれるって。」

「日本海、、出雲にも通じる場所ですね。」

「はじまりの地、、」

「ご存知でしたか、、私が生きてきた場所の一つです。」

懐かしそうに荒木がその地に想いを馳せる。

「全て終わったら、、アニキの思いと一緒に行ってみたいと思います。見てみたいんです。

あたしにどんな景色が見えるのか。」


そうして全部沈めてしまおうと思う

獠を想う気持ちも、どうしようもなく膨らんでいく、見たくない想いも


全部失くしてしまえたら、ちゃんと家族として獠の幸せを願えるはずだから

いつかもし、再会できる時があるなら

幸せそうだね。なんて、妹として笑って伝えたいから



まだ見ぬ約束の場所に思いを寄せながら、ふるふると頭を振り、ちゃんとしろ。と心の中で頰を打つ。持ち場はすぐそこだ。スーツの端を両手でピンと伸ばし、パンプスを軽く蹴り上げ、香は歩み出した。