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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 87 (10/6/19) Himeji Castle Ruins (2) 姫路城 二の丸/本丸

2019.06.11 07:23

姫路城 二の丸/本丸

好古園

播磨国総社

亀山本徳寺

一昨日は外曲輪と中曲輪(三の丸)を巡ったが、今日は残りの内曲輪 (二の丸と本丸) を見る。今日は平日なので、あまり混んでいないと思う。ホームページにはそれぞれの門や櫓などが詳しく解説されているので、それも引用している。後から見てその時の事を思い出せるから。

内曲輪の全体図

先ずは大天守に向けて進む。

現在の姫路城は江戸時代のものだが、それ以前は黒田家居城、羽柴秀吉居城でそれぞれ造りが異なっている。

羽柴秀吉時代の城

江戸時代の城

菱の門

登城口の料金所を通過するとまず第一の城門。菱の門からは本丸と西の丸にいけるが、まずは本丸方向に進む。

(案内版)姫山・鷺山(城山)への入口を固める櫓門で、門の正面には蔀(しとみ)となる石垣と土塀があり、枡形構造になっています。「菱の門」の名称は、鏡柱上部の冠木に木製の花菱が飾られていることに由来します。鏡柱は1本の太い角柱のようにみえますが、実は板で覆った集成材のようなもので、板の合端を隠すために筋金具を打ちつけています。外観は、一部を除き白漆喰総塗込めで、柱や貫、長押などの形がそのまま出ているのが特徴です。2階の正面には黒漆に飾り金具がついた火灯窓・武者窓が配置されています。入母屋の東西の妻は、西側が素木の木連格子、東側が白漆喰塗込めになっています。

いの門

二の丸から本丸への入り口。左に化粧櫓が覗いている。いろは順に門をくぐって行く。

(ホームページから) 「いの門」は菱の門をくぐった正面に位置する場所にある門です。「いの門」内部側は、門の柱の内側に控柱を2本立てそれぞれを貫でつなぎ、それぞれに小さな切妻屋根がかけられた高麗門様式となっています。脇戸の高さは低く抑えられています。

「いの門」(内側)の東側すぐの位置 (写真 左上) には少し高くなった石垣があります。石垣には奥行きがあり、兵が階段で登り、狭間から応戦することができるようになっています。

ろの門

(ホームページから) 「いの門」の先に位置する場所にあります。「菱の門、いの門」などの様式と同様に、「筋鉄饅頭金物」や「八双金物」などの装飾が施され、脇戸付きの重厚な作りになっています。「ろの門」の東側には石垣と土塀が設けられ、土塀には狭間が開けられています。「ろの門」の東方にある土塀は「ろの門東方土塀」と呼ばれていますが、この石垣で高くなった上に設けられた土塀には多くの狭間が開けられています。「ろの門東方土塀」を内側から見た場合、積み上げられた石垣の上の狭間から応戦ができるような仕組みになっています。石垣の上に登るための階段も設けられており、有事の際にはここに塀を配置して、攻め入った敵を攻撃できるようになっています。

はの門

(ホームページから) はの門に向かう階段 (将軍坂) に沿っての「はの門南方土塀(内側)」(写真左上) からは「ろの門」や「いの門」の方向を、弓や鉄砲で後方援護ができるような位置づけになっています。はノ門は、いノ門やろノ門とは違って防御力が格段にアップした門となります。門の前に来ると、門の上に建物が乗っかっているのが見えますね。これは城門の種類のうち「櫓門」と呼ばれるスタイルです。門と櫓が合体した、最強の出入り口です。この門は、日本の数ある城門の中でもかなり古いスタイルを残した門で、秀吉時代に建設されたものを輝政がそのまま使っているのではないか、と言われています。この階上の櫓は、両側の石垣の上に乗っているように見えますが実はそうではなく、両側の柱によって支えられ、自立しています。なぜそんなことをしているかと言えば、それは敵に攻め込まれる前に、扉を閉めて両側の石を崩し、石で門内のスペースを埋めてしまうためです。そのために門内はすぐ登り階段になっていて、扉の内側に石で埋めることのできる空間を確保しています。巨石によって内開きの扉をブロックしてしまう戦法です。もちろん、門外で扉をこじ開けることに手間取っていると、櫓の窓からは容赦ない攻撃が浴びせられます。また、首尾よく扉をこじ開けることに成功したとしても、今度は門の天井にあたる櫓の床下をはずして、守備兵は槍ぶすまを繰り出してきます。このように、このはノ門は鉄壁の守りを誇っているのです。

にの門

(ホームページから) 本丸へと向かう最後の関門。 この門はあとで訪れるぬノ門と並んで、城内屈指の防御力、攻撃力を誇る櫓門です。ここを抜けて出た空間は西北腰曲輪 (写真右下) と呼ばれていますが、まさに本丸はここから始まります。 したがって、防御側にとってはにノ門は最後の砦です。 門は門柱、冠木、大戸からくぐり戸まで一面鉄板で覆われています。 (写真右上) 門の頭上は合計3棟の櫓が複雑に折れ重なり合った構造となり、しかも門の内部は低い天井の穴蔵を右に曲がりながら階段を登る、という構造になっています。 これは、攻め手側の一気の侵攻を食い止めるとともに、階上の櫓の床板をはずせばそのまま門内を通過しようとする敵兵の頭上に槍を突き立てることができる設計となっています。 にノ門手前の狭い通路での頭上からの攻撃に加えて、まさに寄せ手の軍勢を最終的にここで殲滅することを意図した縄張りと建築だということができるでしょう。

逆に、もしこのにノ門を破られたらもはや本丸中枢まで大きな防御装置はなく、落城は時間の問題です。城主が天守に籠って切腹するか間道を使って落ち延びるかのための時間稼ぎをするだけになります。 

ほの門

(ホームページから) この門は城郭用語では埋門(うずみもん)と呼ばれる門です。埋門には、石垣上の土塀の下の一部を切り欠いて門とする形と、石垣そのものに穴を開けて通路としてそこを門とする形の二種類があり姫路城にも両方のタイプの埋門が現存していますが、ほノ門は前者の典型的な例です。埋門はその形状から必然的に小さな門とならざるを得ませんので、攻撃にはあまり役に立ちませんが、防御力はそれなりにあります。それは、敵が迫ってきたら門の内側から石などで通路をふさぎ、門自体をなくしてしまうことができるからです。このほノ門もその点よく考えられており、門内がすぐ登り階段となって扉を閉めると内側に石を詰め込むことが容易な構造になっています。また門扉はにノ門と同様、総鉄板張りになっています。小さいながら鉄壁の守りを誇っている。もし内側の石を取り除いて門を通過できるようになったとしても、この門の小ささは一度に多くの軍勢を通すことができず、「時間稼ぎ」という守り手の思惑を叶えます。

水一門

ここで一旦いろは順の門が途切れ、水と数で門の名前が変わる。

(ホームページから) 門に入るところに見えるのが、「油壁」と呼ばれている築地塀です。真っ白な漆喰塗籠めの壁が続く姫路城の中にあって、この茶色い壁はひときわ異彩を放っています。輝政時代の壁はほとんどすべてが漆喰の白壁なのにここだけなぜ築地塀なのでしょうか? 油壁の高さにありそうです。油壁は高さ2.8m、底部の厚さ1.2mの大きさです。まず、漆喰塀では物理的にこんなに背の高い塀を作ることはできません。では、なぜこんなに背の高い塀を作らなければいけないか、というと、ここが天守の喉元をおさえる要衝だからです。油壁を袖塀としている次の水ノ一門の防御性を高めるために、低くて簡単に突き崩せる漆喰塀でなく、敢えて手間のかかる油壁を用いたのではないでしょうか? これも、守り手の最後の「時間稼ぎ」の戦略と言えそうです。

水一門は城門としてはあまり使われることのない棟門という形式の門です。棟門とは、両側の鏡柱に冠木を渡して切妻屋根をかけただけの簡単な門で、姫路城内でもこの水ノ一門と次の水ノ二門、そしてちノ門の3つしか残っていません。しかもこの水ノ一門は、ちノ門とともにこれも城門としては異例の片開き扉です。 しかし、水ノ一門に向かって右側にはあの油壁が袖塀として門の屋根の高さよりはるかに高くそそり立っています。左側は天守台の石垣です。そして、この門を入るとすぐに天守台の石垣の角に沿う形で左折することになります。見かけは小さな水ノ一門ですが、ここまで敵に攻め込まれた時にはじゅうぶんに「時間稼ぎ」ができる守りへの備えはできています。

勾配が緩やかな下り坂になっています。これまで菱の門以降、ずっと上り坂を登ってきました。ところがここにきて緩やかに下り坂になっているのです。この下りは次の水ノ二門をくぐったあとも三門の前まで幅広の下り階段となってさらに続きます。敵の一瞬の躊躇を生み出し、侵攻スピードを遅らせることもここでは意図しているのです。

水ニ門

(ホームページから) 水ノ二門も一門と同様棟門です。ただ一門が片開き扉だったのに比べて、こちらは両開き扉となっています。水ノ一門、二門はいずれも桁行(横幅)が一間四尺(約3m)ほどの小さな門ですが、水ノ二門を見るとわざと小さくしたことがよくわかります。それは、水ノ二門に付随するように西側に建てられている櫓の存在です。二門をくぐって櫓を見るとよくわかりますが、この櫓はカギ型に折れています。すなわち、わざわざ二門のところで通路が狭くなるように張り出して櫓を設計しているのです。やはりここでも、門をできるだけ小さくして、寄せ手の侵攻スピードを遅らせよう、との意図が見えます。ここでの守備側からの攻撃は相変わらず、頭上の小天守および渡櫓からの飛び道具です。 

水三門

(ホームページから) 水ノ三門はさらに小さな門です。扉の横幅は1m50cmほどしかありませんし、高さも身をかがめないとくぐれないほどですから、具足を身に着けた兵なら一人ずつしか門を通れないでしょう。これもほノ門と同じく土塀の下の石垣を一部切り抜いたような形の埋門です。ここも門内がすぐ90度左折する形で上り階段になっていますので、敵がここに到達する前に、扉を閉めて内側の空間に近くの石垣でも取り崩して石を詰めてしまえば、敵が突破するまでの間、かなりの時間稼ぎができます。

水四門

(ホームページから) 水ノ四門も土塀の下に設けられた埋門です。ここもお決まりの「門内はすぐに上り階段」です。門内側に石を詰める空間があります。 そしてこのあたりのさらなる工夫は、敵を何度も折れ曲がらせる、ということです。すでに通ってきましたように、三門を入るとまずすぐに左折して階段を登らなければなりません。そして階段を登って正面突き当りを今度は右に90度折れると水ノ四門です。水ノ四門に対して正面に向かうということは、西小天守を完全に背後に回すことになります。攻め手は相当の人数をここに溜めて四門突破の作業にかからないと、兵力を逐次投入していたのでは背後からの射撃で全滅させられかねません。そして四門の門内はすぐに左折して上り階段、階段を登るとさらに左折、すなわち四門正面からは左にUターンする形でやっと天守エリアへの入口である水ノ五門に向き直ることとなります。 ここの縄張りは、お城の虎口(出入り口)でよく見られる「枡形」と言われる防御システムです。すなわち、外側(ここでは四門)と内側(五門)の二重の門で小さなエリアを作り、攻められたときにはそのエリアに敵兵を溜めて周りの土塀の狭間などから射撃して一網打尽にする、という設計思想です。さらにここでは次に続く水ノ五門を外側、水ノ六門を内側の門として連続して枡形を形成しており、全体として城郭用語で二重枡形と呼ばれる形になっています。 さすがに天守への入口ですから、防御体制もここに極まった感じです。

水五門/水六門

(ホームページから) 水ノ五門はやや特殊な形をしています。門の形式としてはすでに見てきた菱の門やはノ門、にノ門と同じく櫓門ですが、その櫓部分は実は大天守と西小天守をつなぐ二階建ての渡櫓なのです。逆に言えば、渡櫓の階下部分に門を設けた、と言ってもよいでしょう。 ここは4つの大小天守が4つの渡櫓でロの字型につながっている、その内庭部分に入り込む門ですから、城内でも最も重要な箇所を守る門と言ってもいいでしょう。 そのため、門の柱、冠木、扉などすべてのパーツは全面鉄板で覆われ、また上部の櫓の窓は二層とも鉄格子がはまっており、石垣や屋根から直接窓に取りついて格子を切って中に侵入しようと思ってもそうはさせません。 さらに櫓正面には隠し狭間が計6個設けられています。これは、ふだんは漆喰が塗られていて口を開けていないのですが、有事の際には内側から漆喰壁を突き破って狭間として使うものです。ここの場合は狭間の存在を隠す、というよりは、天守に近い建物だけに平時に開口していてはここから火を投げ入れられたりする危険性もある、ということを考えての措置ではないか、と思います。

もちろんこの門に取りついて攻略に苦労している敵には、とくに右斜め上の大天守から容赦ない攻撃が降り注ぎます。

[天守閣]

そしてやっとこさで天守閣に到着。ここまでかなりの門をくぐらなければ到着しない。我々は案内に従って来れるが、戦時の場合、敵は初めてでどの方向に進むか混乱する作りになっている。どの城も同じような迷路の作りを工夫していただろうが姫路城はそれが体験できる程完璧に残っている貴重な城だ。

地下

(ホームページ) 姫路城の地階は内覧時には降閣口になるフロアです。地階には西大柱、東大柱の下部を見ることができ、その柱の太さを感じられる場所です。その他、籠城時を想定して厠や流しといった設備がある珍しい階です。

一階

(ホームページ) 姫路城の1階は天守の周囲の渡り櫓からの出入り口や、天守台石垣の直下に攻め入った敵に対しての監視や反撃が行える石落しなどが設けられています。

二階

(ホームページ) 姫路城の2階は外観から印象的な連立した格子が設けられている階です。

非常に大きな格子部分はそのデザイン性だけでなく、天守の下部石垣に取り付く敵に対して、石落しで攻撃することができる非常に機能的な設備でもあります。西面の千鳥破風からは外に出て屋根の上に出られるなど、非常に興味深い設備のあるフロアです。

三階

(ホームページ) 姫路城の3階は東西に大千鳥破風によって構成される空間を配し、

南北には石打棚を設け、下部を内室として活用しています。南面では迫り出した唐破風屋根を避けるように、石打棚の高さを上げて立体的な構造になっています。また大天守内でも珍しい武者隠しという小部屋もあります。

四階

(ホームページ) 姫路城の4階は、壁の四方に「石打棚」が設けられ、石打棚の下には内室を備えた構造になっています。南北面には2つの千鳥破風、東西面には大千鳥破風が、下階の屋根に架けられており、4階壁面にまで迫り出していることから、必然的に窓が高くなる構造になっています。

五階

(ホームページ) 姫路城の5階は、姫路城最上階の1つ下の階ということ、そして狭い空間に何もないような印象を持ってしまいがちです。この階は地下から伸びた「西大柱」「東大柱」の上端を見ることができます。外からは地上5層に見える姫路城が、地上6階になっているのはこの階の存在が大きな役割を果たしています。

六階

(ホームページ) 姫路城の最上階(6階)は、姫路城に訪れたらやはり登りたい場所です。大天守の最上階の見晴は絶景です。また姫路空襲の後も奇跡的に残ったこの姫路城であることから、現在では火災・災害などの災いの神として崇められる「長壁神社」があります。

[小天守] 大天守から続けて小天守に入る。

イの渡櫓

(ホームページ) 「イの渡櫓」は南面で大天守に、北面で東小天守に接続し、建物の高さ9.03メートル、高さ8.88メートルの石垣の上に位置する。

東小天守

(ホームページ) 大天守の北に位置し3重3階地下1階。南面は「イの渡櫓」に、西面は「ロの渡櫓」に接続している。西小天守・乾小天守と同じく2重の櫓部の上に望楼部をのせるかたちだが、外観上は完全に一体化しており、唐破風や火灯窓を備えていない。

台所櫓

(ホームページ) 「台所」は大天守西北隅の北方に位置し、東面南方に下屋を設けて大天守に、北面はロの渡櫓に接続する。1重2階入母屋造・本瓦葺。

ロの渡櫓

(ホームページ) 「ロの渡櫓」は東面で東小天守に、西面で南端間が乾小天守に接続し、建物の高さ9.03メートル、高さ8.3メートルの石垣の上に位置する。

乾小天守

(ホームページ)  大天守の西北に位置し3重4階地下1階。東面は「ロの渡櫓」に、南面は「ハの渡櫓」に接続する。1重の西面に軒唐破風を設け、3重の南面と西面に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所ずつ設けており、西面を中心に意匠を凝らしている。

ここからの眺め

ハの渡櫓

(ホームページ) 「ハの渡櫓」は南面で西小天守に、北面で乾小天守に接続し、建物の高さ9.167メートル、高さ10.061メートルの石垣の上に位置する。

ニの渡櫓

(ホームページ) 「ニの渡櫓」は東面で大天守に、西面で西小天守に接続し、建物の高さ9.679メートル、建物面積56.784平方メートル(17.177坪)。1階に水五門を設ける。水五門や1階の材が大天守と西小天守の石垣にとりつく状態から、天守群の中で最後につくられたものと考えられる。

西小天守

(ホームページ)  大天守の西南に位置し3重3階地下2階。東面は「ニの渡櫓」に、北面は「ハの渡櫓」に接続し、地階東面に「水六門」を備えて出入口とする。南面は中央に軒唐破風を設け、3重に黒漆塗り・錺金具打ちの火灯窓を2所設け意匠を凝らしている。

備前丸 天守閣を出ると大きな広場に出る。

(ホームページ)  備前丸は本丸御殿があった所である。池田輝政は秀吉の差し金で家康の娘・督姫(北条氏直室だった)を後妻に迎えていた。その間に生まれた忠継(1599生)は備前岡山城を与えられていたが、幼少のため両親とここに住んだ。そこから備前丸の名がつけられたのである。なお、輝政には前妻との間に嫡子・利隆があり、1613年に輝政死去後は彼が姫路城主となった。2年後の1615年に督姫と忠継はともに疱瘡で死去した。

天守から二の丸に戻る。来た時と別のルートを通る。

備前門

備前門脇の石垣には石棺が用いられている。築城の際、石不足のため当時姫山にあった古墳の石棺をこの石垣に使用した。

井戸櫓/番所 侵入不可 以前はここも公開していたのだが、何かあったのだろうか

帯の櫓/腹切丸 ここも非公開になってしまっていた。

への櫓/リの門

備前門を抜けるとリの門への長い通路で突き当たりにへの櫓が門のところにある。

[二の丸]

リの門を抜けるとニの丸に出る。

播州皿屋敷で有名なお菊井戸がここにある。

チの櫓/リの一渡櫓/リの二渡櫓

二の丸を囲む櫓。手前からチの櫓、リの一渡櫓とリの二渡櫓

ぬの門

二の丸の出入り口

るの門

流の門を抜けると内曲輪の開始時点の菱の門がある三国堀曲輪に出る。そこには行かず三の丸への道の反対側を行く。

をの門跡

[西の丸]

(ホームページ)  西の丸は鷺山と呼ばれる丘を削って整地したところで、豊臣家滅亡後、城主となった本多忠政が嫡男忠刻のために造営。西の丸の御殿の跡地に、長大な多門櫓 百間廊下が残っている。百間廊下は姫路城の防衛上の欠点である西側を守るために築かれた施設。

南門跡

門は消失。門の内側に武者溜まりがある。文字通り、兵士の待機場所であった。南門を通り坂を登りきると西の丸。

カノ櫓

(ホームページ)  西の丸の東南隅に建つ二重櫓がかノ櫓です。この櫓は、一階と二階が同じ寸法で建てられているので、ちょっと見ると頭でっかちのように見えます。ほかのお城でもまれに見られる形ですが、城郭用語ではこういうタイプの櫓を重箱櫓と呼んでいます。

ワの櫓

西の丸にある百間廊下への観光入り口になる。

百間廊下

ここ百間廊下は、名前は百間ですが実際の長さは121間、約240mあります。これから見学するわノ櫓脇から入って半分ぐらいまでのるノ櫓までは、往時は主に倉庫として使われていました。その先、化粧櫓までの北半分は長局でした。長局とは、城主やお姫様にお使えする奥女中たちが起居する集合住宅のようなものです。本多忠政が嫡男忠刻と千姫のために建てた御殿、中書丸がこの西の丸の中心に建てられたわけですから、この時代には確実にこの百間廊下に多くの奥女中が住んでいたものと思われます。このような長局がここまで完存している例は全国でも姫路城西の丸だけであり、たいへん貴重な文化財です。しかし忠刻が早逝し、千姫が姫路を去った寛永3年(1626年)以降は中書丸もその役割を終えたようですから、奥女中たちも御居城と呼ばれる三の丸の御殿のほうに引っ越したのではないかと思います。結局、本来の長局の役割を果たしていたのは西の丸造営からわずか20年ほどの間だけだったようです。

レの渡櫓

タの渡櫓

ヨの渡櫓

カの渡櫓

化粧櫓

これで二日間に渡って姫路城の公開されているところは全て見ることができた。姫路城の周りにはまだ史跡があるので、残りの時間はそちらに行って見る。

好古園

江戸時代に存在した藩校「好古堂」や武家屋敷跡に平成2年に造営し開園した庭園。後半は雨の中の見学となった。

御屋敷の庭入り口

渡り廊下

御屋敷の庭

松の庭

流れの手庭

竹の庭

築山池泉の庭

夏木の庭

茶の庭、双樹庵

苗の庭

花の庭

播磨国総社

赤松氏や歴代の姫路城主に崇められた「播磨国総社」。官兵衛、父・職隆(もとたか)も崇め敬った黒田家との縁も深い神社。播磨国内の神々が合わせ祀られており、地元では「総社さん」「総社の神様」と呼ばれ親しまれている。

総社の結婚式場、随分と立派なものだ。

亀山本徳寺

本徳寺跡が英賀のある。この亀山本徳寺は羽柴秀吉が一向宗徒の播磨本拠地であった英賀城を陥落させた時に、この姫路亀山に移らせた寺院。英賀の本徳寺は浄土真宗一向宗徒の播磨での本拠地。播磨では一向宗徒の勢力は地元の為政者と繋がり、というよりは為政者が一向宗を保護する形で勢力を維持していた。本願寺と対立していた信長にとっては大きな障害になっていた。英賀の三木氏も同様に一向宗と結んで秀吉勢に対抗していたが、一向宗と繋がっていた毛利水軍、村上水軍が秀吉側の九鬼水軍に敗れ、同じく三木城も落城で英賀が孤立して最終的には秀吉に屈服することになった。秀吉がとった政策は、本徳寺を潰すのではなく、移転させ自分が治めている姫路に移し管理下に置くこと。英賀では今まで本徳寺中心の自治権を取り上げはするが、楽市楽座は残す。検地を行い、租税たいせいを管理下に置くといった半融和策で運営変えていった。これは信長が本願寺と和議を結んだ後で、信長も比叡山の場合とは異なる対応であった。本徳寺が移り、一向宗徒も姫路に移住させられるたが、この姫路亀山で新たに城下町の形成に貢献することになった。今でも、この地域の住民の半分は西本願寺の浄土真宗に属すると言われている。

写真左上は一向宗が武装していた頃の太鼓楼。有事の物見櫓の機能を備えていた。その名残が残っている。