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キャンピングカーで日本一周

6月2日 安曇野市 → 中野市[高野辰之記念館]→ 信濃町[小林一茶記念館]→ 小布施町(141km)①

2019.06.10 03:12


高速のサービスエリアで朝を迎えたのは久方ぶり。


朝食をとり、安曇野市の梓川SAから高速をさらに北に走って、中野市の豊田飯山ICで高速を下りる。


ここは長野県北部、新潟県との県境に近く、市の中心部は高井富士と、蛇行する千曲川の中間に位置し、扇状地と呼ばれるなだらかな下り坂になっており、上部には果樹園、下部には水田地帯が広がっている。



今日は、まず、「ふるさと」や「朧月夜」、「もみじ」、「春がきた」、「春の小川」などの、古き良き日本の原風景を描き出した、日本人なら誰でも口ずさめるような『文部省唱歌』の作詞家・高野辰之の「高野辰之記念館」を見学することに。



この記念館訪問のきっかけは、我々が島崎藤村についてネットで調べていたときに、彼について書かれた記事がいくつかヒットしてきたからである。



藤村の『破戒』に描かれた内容(登場人物)について抗議


高野は、「破戒は飯山を写したというが、寺の描写に関しては、事実にもないことを書いている」という。


「破戒」のモデルとなった寺は、高野が実際に学生時代に寄宿し、世話になった寺であり、高野の妻君となったのは、その住職の娘であったのだ‼︎


親族となった身の上だけに、その義父となった住職が、「養女に手を出す女狂い」として描かれ、迷惑を被っていることに対し、憤慨しているのである。


寺の佇まいや、飯山の描写が写実的であるだけに、そこに登場する人物だけが架空の人物であるといわれても、読者は混乱してしまう。


結果として、地元の人には、書かれていることの全てが事実と思われてしまい、寺の関係者は、説明に奔走しなければならなくなったという。


それは、親族としては、当然、見過ごす事のできない大事件であったに違いない。



当時、日本における自然主義文学からは客観性が失われつつあり、「自然主義とは現実を赤裸々に描くもの」と解釈される傾向があったという。


自然主義作家を標榜していた藤村は、高野の抗議を受け、「ああいう性質の作物を解して、私が文学の上で報告しようとしたことを、事実の報告のごとくに取り扱われるのは遺憾である」と反論を述べ、


「親友の丸山晩霞をモデルにした「水彩画家」という小説で、丸山晩霞から絶交を申し渡されるほど強い抗議を受けた時は、筆を折ることも考えた」と述懐。


さらに、藤村は、

「拙劣なのはしかたないが、正しく物を看る稽古もしようし、一部を写す場合もなるべく全体を忘れないようにして、余計な細叙は省きたいと心掛けている。これが出来ないから私の著述は迷惑がられるのだろうと思う。勉めて見て、もしこれが出来るようになれたら、その時は大きく魅惑を掛けることがあっても、小さな迷惑は掛けずに済む」と述べており、自然主義の描写の在り方について試行錯誤を続けている様子も伺わせているが……。



ちなみに、この『破戒』という小説は、他にも住井すゑも『橋のない川』でも取り上げられており、主人公・丑松が生徒に素性を打ち明ける場面で、教壇に跪いて生徒に詫びていることを批判的に捉えている。



といった具合に、この小説は、いろいろと問題提起の多い作品なのであった。



高野辰之による島崎藤村批判についての経緯は、お隣・飯山市出身の作家(前東京都知事)猪瀬直樹著『ふるさとを創った男』に詳しいらしいので、後日、目を通してみたいと思う。




さて、話は中野市に戻るが、ここは、他にも、大正から昭和にかけて、多くの作品を残した作曲家、中山晋平の出身地としても有名。



『シャボン玉』、『てるてる坊主』、『雨降りお月』、『証城寺の狸囃子』といった童謡を始め、「可愛いや 別れのつらさ〜♪」の『カチューシャ』、「命短し 恋せよ 乙女〜♪」の『ゴンドラの唄』、「俺は河原の枯れススキ 同じお前も枯れススキ〜♪」の『船頭小唄』など、昭和世代の我々には、耳に馴染みのある曲ばかり。


また、ジプリ作品の作曲家・久石譲の故郷でもあり、近代日本の音楽界を牽引してきた巨匠を育んできた土地なのである。


豊かな自然に囲まれ雪深いこの地が、彼らの想像力の源なのであろうか。


そんなことを考えながら、一行は記念館へと向かう。





花が綺麗に植えられた記念館は、彼がかつて代用教員をしていた小学校の建物。


明治初期の1876年にこの地の豪農の家で生まれた高野は、尋常高等小学校を卒業すると、小学校の代用教員を3年間務める。


向学心の強かった彼は、その後長野県尋常師範学校(現・信州大学教育学部)に入学。


いったん社会人を経験してから大学に入り直すというのは、当時の一つの学び方だったが、学ぶときの覚悟が違うのだと思う。


師範学校時代の彼は文学を愛好したが、1000首に及ぶ和歌を詠むほどの入れ込みようだった。


21歳で師範学校を卒業し、母校の教員を務めるが、26歳で東京に出て、東京帝国大学の上田萬年に師事し、日本文学を研究し博士号を取得。


故郷に錦を飾った彼は、再び東京に戻り文部省に就職、日本初の音楽の教科書の編纂にたずさわる。


その後、東京音楽学校(現・東京芸大)や東京帝国大学で教鞭をとりながら、日本文学の研究に没頭。『日本歌謡史』(1926年)、『日本演劇史』(1933年)、『江戸文学史』(1935-38)といった大作を発表する。


これだけ異なる専門分野の通史を一人の手で完成させるというのは、学問が細分化された現代ではちょっと考えにくい壮挙だ。


彼にはこのほかにも、『近松門左衛門全集』の編纂という成果もある。


しかし、日本文学者としての顔は別にして、作詞家としてだけ見ても、例えば野口雨情や北原白秋などと比べ、高野の名前はそれほど知られていない。


これは、当時の文部省唱歌の作詞者・作曲者名が公開されず、作者自身も口外しないという決まりがあった、という事情があったようだ。


その後の研究によって、高野の作詞であることが世に知られるようになったそうである。





記念館のホームページには、高野辰之の著作物が多く展示されているとあったので、ひょっとすると藤村に関係する文章等も残されているのではないかと期待していたが、そのような類の資料は一切見当たらず。



藤村といえば、半ば長野県を背負って立つような大作家である。


この辺りの地域が「部落出身者に対する差別が酷かった村」、人望も高かった寺の和尚さんが「女癖の悪い生臭坊主」として描かれた事などから、飯山周辺における藤村の評判は芳しくないらしいが、あえて火中の栗を拾うような展示にする必要もないわけであり、それは当然の事と理解し、静かに記念館をあとにする一行であった。