「いろは歌」の作者は空海・佐伯真魚か?
facebook伊藤 文男さん投稿記事
「いろは歌」は、日本が世界に誇る偉大な宗教家、空海(弘法大師)によって書かれたものであるという伝承を基に、弘法大師が平安時代に書いたものと伝統的に言い伝えられてきました。超人的な頭脳の持ち主でなければ、「いろは歌」に含まれるような2重、3重の言葉の意味と、パズルのような文字の羅列の組み合わせを、仮名文字を1回のみ使って実現するという、神業のような創作はできないことから、空海を作者と見立てることに何ら不自然さはありません。しかし最近になって、その伝統的見解を否定し、空海著作説は間違いであったとする学説が多く見受けられるようになりました。そこで「いろは歌」を研究するにあたり、まずその著者について検証してみることにしました。
弘法大師こと空海(774~835)が「いろは歌」の作者であるとごく一般的に言われている根拠は、鎌倉時代末期の作品である「釈日本紀」、「源氏物語河海抄」(巻12)、「高谷日記」、「江談抄」(ゴウダンショウ)などの文献に、弘法大師が「いろは歌」を書いたことを示唆する記述があるためです。また空海が「いろは歌」の著者ではあっても、共著した詩人が複数存在するという説もあります。その根拠の一例として、護名という詩人が、はじめの二句を書いたことが記されている「古今序註四」が挙げられます。また空海の師である勧操も著作に関わっていると唱える学者もおります。いずれにせよ超人的な知識と知恵を必要とする「いろは歌」ですから、空海に付き添って多少の編集を加えた学者がいたと仮定しても何ら不思議はないでしょう。
しかしここ最近の学説では空海説を否定する見解が主流となっています。例えば「いろは歌」に隠されている暗号文の解読を根拠に、そのメッセージを分析して作者を見出そうとする動きがあります。7×7の升目に入れた「いろは歌」に含まれている「咎無くて死す」という怨念とも思われる折句が、作者自身の悲痛な思いを言い表しているという前提に立ち、その記述に該当する人物像から作者を割り出そうとするわけです。当時、罪なくして死んだ詩人で、しかも、万葉集といろは歌には多くの共通点があることから、万葉集に精通していた人物を選別すると、その編集者であった柿本人麻呂が候補として浮上します。今日では柿本人麻呂説を支持する学者も少なくありません。その他、空海説を支持する文献が空海の死後250年以上経ったものであるため信憑性に欠けているとか、空海の時代には区別されていたア行とヤ行の「エ」が「いろは歌」では区別されていない、また歌の句調が空海の時代のものにそぐわないなど、空海説を否定する根拠が多々、掲げられる最中、徐々に「いろは歌」を空海の作とする説は影を潜め、現在では「いろは歌」の作者は空海ではなく、別の詩人が平安時代に書いたものであるという学説が一般的になりました。しかしながらこれらの学説も決定的根拠に乏しく、推測の域を出ていないのというのが現状です。
空海説を安易に否定できない理由のひとつが、「いろは歌」の句調です。空海の時代には五七調四句、または五七五七七の短歌が一般的であり、「いろは歌」で使われている和讃式七五調四句とは一見してリズムが違うため、時代錯誤という理由から「いろは歌」の作者は空海ではない、と結論づける学説があります。「いろは歌」は、七五調四句を使った大変リズミカルな歌であり、その内容はごく一般的に涅槃経を説いていると言われています。「色は匂へど散りぬるを」は諸行無常を語り、「我が世誰ぞ常ならむ」は是正滅法、「有為の奥山今日越えて」は生滅滅己、そして「浅き夢見じ酔ひもせず」は寂滅為楽を教えているということです。確かに表面上は七五調の詩であり、インド文法を継承しつつ、涅槃の真理についてすべての表音文字を用いて説いた天才的な作品と言えども、一見して空海の時代の作品とは考えづらいのです。
いろは唄しかし「いろは歌」の背後には複数の隠されたメッセージが埋もれていることから、そこに隠されている暗号文の句調にも目を留めなければ、作者の意を正しく理解することはできません。「いろは歌」には折句とも呼ばれる暗号文が含まれています。そしてその句調に着眼するならば、見解は一変します。表面上は七五調四句に見える「いろは歌」も、実はその暗号文の句調においては、空海の時代において主流となっていた五七調四句でまとめられていたのです。そして「いろは歌」のメッセージの真髄は、むしろ折句の方に含まれていると考えられることから、空海の時代の作品であると考えた方が自然です。つまり、空海の時代に普及していた歌謡のものと「いろは歌」の句調は著しく違い、空海の作ではないという見解は、そこに含まれている折句を見落としたがための、誤った見解であったのです。「いろは歌」の折句は五七五七七調の短歌となっており、空海の時代に書かれた歌と考えられます。
「いろは歌」の作者が空海であると考えられるもうひとつの大事な理由が、その折句に含まれているメッセージの内容です。この折句に含まれる宗教観は明らかに大陸文化、およびキリスト教の影響を受けており、当時遣唐使として中国に渡ってネストリウス派のキリスト教(景教)を学び、帰国後密教を布教した空海以外、作者として該当する人物は存在しないのです。
「いろは歌」を七語調にちなんで7×7の升目にきちんと入れると、「いろは歌」には角3点、および、一番下段の列により形成されるふたつの中心的メッセージが含まれていることに気が付きます。それは「イエス」、および「トガナクテシス」というキリスト教の影響を受けたとも思える折句です。そのほかにも、「いろは歌」には多くの折句が含まれており、そこには旧約・新約聖書に書かれているヤーウェーの神、そしてキリストへの信仰告白と理解できる文脈が息吹いているのです! それ故、「いろは歌」の著者は平安初期当時、まだ日本国には伝わっていなかったはずのキリスト教や、聖書に書かれているメッセージを何らかの理由で知り得た人物に特定することができます。
いろは唄に隠されたメッセージの謎とはこれらの諸条件から浮かび上がってくる作者の人物像は明確です。弘法大師こと空海こそ、やはり「いろは歌」の作者だったのです。信仰の奥義を学ぶため中国に旅立った空海は、そこで当時キリスト教の一派であるネストリウス派の教義に触れる機会に恵まれ、聖書を学んできたことは周知の事実であります。そこで悟った教えを折句として字母歌にまとめたのが「いろは歌」と考えられます。そして誰もがこの「いろは歌」を唱えることにより、いつの間にか空海が意図した信仰の奥義に触れ、知らぬ間に信仰告白を口ずさみ、神の恵みを授かることを、空海は願い求めたのではないでしょうか。
信仰に関わる大切な真理を47文字しかない母字歌の折句としてまとめることは、天文学的知恵を絞らなければ完成させることはできないでしょう。そして古代日本で、その不可能を実現したのが空海の英知であり、「いろは歌」はその結晶です。多数の古代文献に記載されているとおり、この「いろは歌」こそ、日本国が生んだ史上最高の詩人であり宗教学者である空海が書いた作品であると推察できます。
日本とユダヤのハーモニーhttp://www.historyjp.com/より抜粋
https://blog.goo.ne.jp/tamotsu2008/e/9257e2af65f3ae3b19bdd33853030dd8 より
いろは歌の謎
以前から読みたいと思っていた「いろは歌の謎」という本を昨年知人から借り、今年の正月に読みました。この本は篠原央憲著で三笠書房から発行されており、「いろはにほへと」いわゆる「いろは歌」の47文字に隠された多くの謎を解きほぐしていくもので、興味深く読ませていただきました。
現在の日常生活の中で、仮名は「あいうえお かきくけこ ・・・」の並べ方が多く用いられています。しかし、いろは歌も1000年以上も前に作られたとされる歌ですが、今も私たち日本人の生活に根強く残っています。
歌舞伎の題目に「仮名手本忠臣蔵」というのがあります。わたしも若いときは何とへんな題目だなあという感じがありました。いろは歌は仮名の習字の手本に用いられ、いろは歌が四十七文字、忠臣蔵の赤穂浪士も四十七士であることから、この2つをかけて「仮名手本」と名付けられたということです。
いろは歌は、仮名47文字全部使い、もちろん同じ文字は2回使わず、1つの文章になっています。実際にやってみるとかなり難しい作業です。初めはいいのですが、最後の方になってくると、どうしても余る文字が出てきたり、また同じ文字を2回使わないと文章として成り立たないことになってきます。このいろは歌はこのような厳しい条件の中で1つの歌となっています。しかもこの歌の中に仏教の教えが織り込まれています。
『いろはにほへとちりぬるを わかよたれそつねならむ うゐのおくやまけふこえて あさきゆめみしゑひもせす(色は匂へど散りぬるを わが世誰ぞ常ならむ 有為の奥山今日越えて 浅き夢見し酔いひもせず)』
意味としては『この世に、花やかな歓楽や生活があっても、それはやがて散り、滅ぶものである。この世は、はかなく、無常なものである。この非常なはかなさを乗り越え、脱するには、浅はかな人生の栄華を夢みたり、それに酔ってはならない』というものです。
この歌の作者は不明ですが、この様な限られた条件の中で、その歌に仏教の教えを織り込むことができるのは昔の超人です。昔の超人といえば空海(弘法大師)が挙げられ、いろは歌は空海の作ではないかという説があります。しかしこの本の中で著者は、いろは歌は柿本人麻呂の作ではないかとしています。
柿本人麻呂は後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれたり、また松尾芭蕉と並ぶ日本の二大詩人と言われていますが、謎の多い歌人です。彼がいつどこで生まれたかは分かりませんが、660年頃から720年頃の飛鳥時代の人物です。人麻呂は中央政権の役人でしたが、その地位についてもいろいろな説があります。この本の中ではかなりの高官であったのではないかと推理しています。当時藤原不比等を中心とする藤原氏が中央政界に勢力を伸ばしてきた時代、不比等は自分の娘を天皇夫人にしようとしたのです。当時は天皇が亡くなると皇后が天皇になることがありました。もしそうなると天皇家とは血筋のつながっていない者が天皇になってしまう。このことに人麻呂が反対したため、失脚して流刑にあい、流刑先の牢獄の中でこのいろは歌を作ったのではないかというものです。
いろは歌を7文字並べで書いてみると
いろはにほへと
ちりぬるをわか
よたれそつねな
らむうゐのおく
やまけふこえて
あさきゆめみし
ゑひもせす
となり、列の最後の文字を並べると『とかなくてしす(咎なくて死す)』いう言葉が表れます。「咎」は罪ということ。「自分は罪がないのに死ななくてはならない」という意味になります。流刑人である人麻呂は迫る死(処刑)の中で、自分の思いをストレートに表現することができずに、このいろは歌の中に暗号として残したのではないかということです。
そして『いろは歌の謎』の著者は、この歌の中の第二の暗号探しに必死で取り組むのでした。日本最古の歌集『万葉集』、また、いろは歌と同じように仮名を1文字ずつ使って作られた『あめつち』などがからみ、面白く読ませていただきました。
柿本人麻呂に関しては、梅原猛著の『水底の歌-柿本人麻呂論』があります。この本は私も持っていますが、人麻呂の辞世の歌『鴨山の岩根し枕(ま)けるわれをかも知らねと妹が待ちつつあるらむ』にある「鴨山」の場所の特定、彼の終焉の地をめぐる論争が描かれています。また人気推理小説作家の井沢元彦のデビュー作で、江戸川乱歩賞を受賞した『猿丸幻視行』でも人麻呂が描かれています。
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/4523939.html
図は高野山の景教的石碑
以前、西本願寺に景教文書が存在するといううわさを聞いたことがあるが、それっきりになっていた。今日なんとなくそのことを思い出したので、ネットで検索してみたらたくさん出てきた。とくに「徒然万歩計」は興味深く読んだ。「景教」の概観を見てから、このサイトを見るといいだろう。(景教:原始キリスト教・ネストリウス派としてカトリックからは異端視されている)
うわさと言えば伊勢神宮文庫の神代文字資料は100点ほどしか公開されていないが、某大学の教員から聞いたのだが、実際は山ほどあるらしい。
「徒然万歩計」http://manpokei1948.jugem.jp/?eid=131
興味深いのでここの全文を転載させていただきます。
1.西本願寺に伝わる宝物「世尊布施論」って、どんなお経?
まずは上の写真をご覧下さい。これは西本願寺に伝わる『世尊布施論』という経典です。
写真撮影の許可を求めたのですが、「そんな経典は当寺には存在しません」と、あっさり断られました。それでもあきらめず問いつめると、「資料室に確認したのですが、確かに以前はあったようですが、現在は見つかりません」という答えが返ってきた。
しかたがないので、ケン・ジョセフ氏の著作から転載させていただくことにした。印刷物からのコピーのうえ、今では使われていないような漢字も交じっており、ずいぶん読みにくいのだが、でもよく見ると、どこかで聞いたようなフレームが並んでいる。例えばこの三行目に注目してみよう。
「始布施若左手布施勿令右手……」(左の写真)
どこかで聞いたことはないだろうか。
そう、新約聖書マタイ伝「山上の垂訓」に「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」、あの一説だ。
また一八行目の中程には「看飛鳥亦不種不刈亦無倉坑」(右下の写真)とある。まさに『山上の垂訓』にある「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません」、そのままです。
このほかにも、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」のフレーズや、「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい」などのフレーズが見つかるはずだ。
こうしてみていけば、親鸞が学んだという『世尊布施論』という経典、何のことはない『マタイ伝・山上の垂訓』そのままの漢文訳だった。漢文で書かれているため、今まで仏典として、また親鸞が学んだため、西本願寺の宝物として保存されてきたという。
日本在住のアッシリア人で景教(原始キリスト教)の研究家として知られるケン・ジョセフ氏は、この『世尊布施論』との出会いを次のように記している。
私は実際、西本願寺に行って、この『世尊布施論』について聞いたことがあります。寺の人に、「景教の書物がこの寺に保管されていると、本で読んだのですけれども、それはありますか。見せてもらえないでしょうか」と聞きました。しかし、何人かに聞きましたけれども、「いいえ、そういうものはありません」と言う。
「でも、こうやって写真まで出ているじゃないですか」と、私が持っていた本を見せました。それでも「知らない」と言います。そのうち、私がねばっていると、奥の方から責任者らしいおじいさんが出てきました。
「はい、たしかにあります」
と言ってくれました。「でも、大切にしまわれているものですし、古くて傷みやすい状態なので、普通はお見せしていません」とのことでした。「でも、どうしてもと言われれば、お見せすることもしていますが、それを撮影した写真がありますから、普通はその写真を見ていただいています」と。
それで、写真を見せていただきました。それは私の持っていった本のものと同じでした。こうして、西本願寺に景教の書物があるのは本当だと知ったのです。あの浄土真宗の開祖、親鸞が、これを何時間も読んで学んだということは、私にとっても感慨深いものでした。
(ケン・ジョセフ「〔隠された〕十字架の国・日本」徳間書店)
このことは一体何を意味するのだろうか。
私たちは、日本に初めてキリスト教が入ってきたのは、一五四九年、フランシスコ・ザビエルによってであると教えられてきた。それが親鸞の時代には、すでにキリスト教の教典が入ってきているというのだ。
驚いて調べてみると、高野山にも『景教伝達碑』なるものがあるという。
早速行ってみると、高野山一の橋から奥の院参道に入り、二手に分かれている道を右手にしばらく歩いたところに、それはあった。まず英文で書かれた『安住家』の供養塔が目に入り、その隣に『大秦景教流行中國碑』と頭に大きく三行に彫られた石碑がある。これがお目当ての『景教伝達碑』だという。
しかし『中國碑』とあるように、これはもともと中国は西安にあるもののレプリカ(複製)だという。では、なぜそのレプリカが日本の高野山にあるというのか。
そのことに触れる前に、まずはその本体である中国・西安にある『大秦景教流行中國碑』について、久保有政、ケン・ジョセフ、ラビ・マーヴィン・トケイヤーの三氏の共著になる『日本・ユダヤ封印の古代史-仏教・景教編-』から、その概要を見ておくことにしよう。
中国における景教の様子については、西安(旧・長安)で発見された有名な、「大秦景教流行中国碑」が物語っています。これは七八一年に建立されたものです。しかし、のちの迫害の時代に隠され、一六二五年になってイエズス会士が発見しました。
この景教碑や、中国における景教文書、遺物等の研究者として、佐伯好郎教授は世界的に有名です。景教碑の複製は、弘法大師・空海の開いた高野山と、京都大学文学部陳列館にもあります。
景教碑は、次のような神への賛辞から始まっています。
「大秦景教流行中国碑。中国における景教の普及を記念して。大秦寺僧侶・景浄(シリア名アダム)叙述。……見よ。真実にしで堅固なる御方がおられる。彼は造られず造る御方、万物の起源、私たちの理解を超える見えない御方、奇しくも永遠に至るまで存在し、聖なるものを司る宇宙の主、三位一体の神、神秘にして真実な主なる神である。……」
この「神」は、原文では「阿羅訶」(アロハ)という漢字です。これはシリア語またはヘブル語の「神」を意味するエロハに漢字を当てはめたものでしょう。
景教碑に記されたところによると、唐の皇帝は景教を重んじ、中国の一〇の省すべてに景教の教えを広めました。こうして国は、大いなる平和と、繁栄を楽しんだといいます。また景教の教会は多くの町々につくられ、すべての家庭に福音の喜びがあったと、景教碑は記しています。
王室の儀式、音楽、祭、宗教的慣例なども、ガブリエルという名の景教徒が担当していたと記録にあります。
当時の長安の都は、このように多分に、景教文明によるものでした。たとえば景教徒の自由と人権の思想は、中国社会に強い影響を与えました。唐の文学者・柳宗元(七七三~八一九年)の文学の中に、奴隷解放思想などが現われるのも、この頃です。
唐の時代の中国は、中国史上、文化・文明の上でも最も栄えた時代となりました。佐伯教授は、唐の時代の中国は、景教の強い影響下にあったと述べました。その文化の中枢に、景教徒が入り込んでいたのです。この時代、日本は遣唐使を派遣して、使節を長安の都で学ばせました。つまり、遣唐使が長安で学んできたものの多くは、純粋に中国生まれのものというよりは、多分に景教の影響を受けて発展した中国文化だったと、佐伯教授は述べています。
このように遣唐使や留学生(るがくしょう)が中国からもたらした文化というのは、多分に景教(原始キリスト教)の影響を強く受けたモノらしい。
九世紀に留学生として唐にわたった空海。そのもたらした密教も、どうも景教の影響を強く受けたモノの一つらしいのだ。高野山の僧侶たちは、このことを否定しようとはしない。むしろ「うちは単なるグレた景教にすぎないのです」と冗談めかした話をする。また、密教で結ぶ「引」の中にも、キリスト教徒と同じ「十字」を切るという「引」が存在するというのだ。ケン・ジョセフ氏は更に言う。
空海はどうして、景教にふれるようになったのでしょうか。……。
空海は、唐の時代の中国にわたりました。けれども渡る前に、すでに日本で、古代基督教徒であった秦氏、あるいは景教の人たちと接触していたようです。
空海の出身地、讃岐(香川県)は、じつは秦氏の人々が多く住んでいるところでした。その地には景教徒も多かったでしょう。また、空海の先生であった仏教僧「勤操(ごんぞう)」(七五八~八二七年)も、もとの姓を秦といいました。
空海は彼らのパワーに驚き、基督教、景教のことをもっと勉強しようとして、彼らの紹介で当時アジアの基督教の中心地であった中国の長安に行ったのだ、と述べる人々もいます。
そのとき、のちの天台宗の開祖・最澄も一緒に、唐にわたりました。最澄は日本に帰るとき旧約聖書を持ち帰り、一方、空海は新約聖書を持ち帰ったということです。ところがのちに、空海は最澄とケンカをしてしまいます。つまり二人は、景教徒たちが中国で漢文に訳した聖書を、分けて持ち帰った。じつは天台宗と真言宗の違いはそこにあるのです、と。──これは高野山のお坊さんから聞いた話です。また、岡山県の大学で教授をなさっていた岡本明郎先生も、これについて長年研究して、そうおっしゃっていました。
高野山では、空海の持ち帰った新約聖書が読まれていた、と聞きます。今も某所には、空海の持ち帰った『マタイの福音書』が保管されていると。こういったことを、当時ゴードン女史が熱心に調べて、その結果、今の高野山に景教の碑が立つに至ったわけです。
(ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本-逆説の古代史-」)
これを読む限り、空海以前、景況は既に日本に定着していたようだ。
聖徳太子が、イエスと同じく厩で生まれたという「厩戸の皇子」伝説も、既にキリスト教が日本に入っていたとなると、「なるほど」と納得できる。
ところで、ゴードン女子のことだが、日本を愛したイギリス人女性エリザベス・A・ゴードンのことである。彼女は、キリスト教と仏教の根本同一を確信し、その研究のため中国・朝鮮を調査し、明治末期にはこの日本を訪れた。そしてまず目を付けたのが真言密教。調べるにつれ、そこに原始キリスト教の影響が深く影を落としていることに確信を持つようになり、その研究の一環として、『大秦景教流行中国碑』のレプリカをこの高野山に建てたのだという。
ちなみにゴードン女子は、残された人生のすべてを、この研究に捧げ、1925年、七十四才でこの世を去ったという。最期の地は京都であった。
https://www.ne.jp/asahi/davinci/code/history/japan/index4.html
空海と景教
「 №26 「空海と景教」」を引用。
高野山に真言密教を創建した空海
803年、空海(弘法大師)は最澄と共に入唐し、景教を身につけ、潅頂(頭に潅ぐの意で、 キリスト教の洗礼)を受け、「遍照金剛」という洗礼名を受けました。
「あなたがたの光を人々の前で輝かせ」という、マタイ5:16の漢語聖書からとったものでした。
彼は帰国後、高野山に真言密教を創建します。
空海は新約聖書を持ちかえり、最澄は旧約聖書を持ち帰ったということです。
しかし、二人は喧嘩してしまいます。
最澄は天台宗を創建し、空海は真言宗を作るわけですが、 彼の仏教は釈迦が説いた原始仏教とは似ても似つかぬ教えで、「景教と混合した仏教」でした。
空海と景教徒の景浄の出会い
長安で、彼は景教徒の景浄に会います。
彼は「大秦景教流行中国碑」の碑文を書いた僧です。
彼は、61才死に就こうとするとき、 「悲しんではいけない。わたしは・・・・弥勒菩薩のそばに仕えるために入定(死ぬ)するが、 56億7000万年ののち、弥勒と共に再び地上に現われるであろう。」と言いました。
弥勒とは、へブル語のメシア、ギリシャ語のキリストであり、 原始仏教にはなかった「キリストが再臨するときに復活する」というキリスト教信仰、 景教の信仰と同じものです。
真言宗では、法要の最初に胸の前で十字を切るとか、 高野山奥の院御廟前の灯篭に十字架がついているとか、景教の影響がみられます。
日本の仏教のお寺にいる感じの景教の教会
ケン・ジョセフがアメリカの景教の教会を訪問したときの印象紀によると、 日本の仏教のお寺にいる感じだったとのことです。
牧師も会衆もみな祭壇の前を向いて礼拝し、牧師が「読経」のようなことを延々と行う、 しかも独特の節まわしで読経と錯覚するほどだそうです。
香炉からは煙が立ち上がる景教の教会
また香炉からは煙が立ち上り、人々はその煙を自分の体にかけるようにするそうです。 それが祝福をもたらすからです。
また、信者は手に数珠(ロザリオ)を持っているそうです。
仏教の数珠の発案者は、唐の僧、道綽(どうしゃく)(562~645)といわれてますが、 この時期に初めて景教が入ったのですから、景教の風習であった数珠が、 仏教にもとりいれられたと思われるようです。
更に、景教では、ろうそくを立て、あかりをともします。
祈りの初めや終わりには、ベルの音が鳴ります。なんとなく仏教に似ています。
空海が説いた仏は「大日如来」
空海が説いた仏は、「大日如来」でした。
それを「法身仏」、さらに真理を具現化した「報身仏」、そして釈迦のような存在を「応身仏」と、 仏教では、異なった仏ではあるがすべて一体と考え、「一身即三身」「三身即一」と言います。
キリスト教での、父なる神、キリスト、イエスに似ています。
「大日」はデウス、神の日本訳とフランシスコ・ザビエルはしたくらいです。
「いろは歌」が示す「咎なくて死す」
空海との関係で、興味深いのは、彼の作との俗説があり、一般には、作者不明とされている、「いろは歌」です。
そこにも景教の影響がみられます。
これは七言絶句に並べ、47文字の「かな」を並べ、しかも深い意味のある一つの歌にしているからです。
ここで、一番下の文字を続けて読むと「とがなくてしす」(歌の中で清音と濁音は一つになっている)となることがわかります。 「咎なくて死す」と読めます。
更に、左上、左下、右下の文字を続けて読むと、「イエス」と読めます。
罪がなくて死んだ、の意味です。これらから、「罪なきイエスが十字架上の死を遂げた」という、 景教徒が持っていた信仰と関係があるのであろうといわれてきているのです。
佐伯真魚という名からの連想
http://www.joukyouji.com/houwaback/houwa0504.htm 仏足石
仏足に触れる額や風光る 高資
額衝ける千輻輪や涅槃西風 高資
魚は氷に上り額に光かな 高資
五島は真言宗が多く他の宗教にも寛容なことが影響していたのかもしれません。高野山奥の院には景教(キリスト教ネストリウス派)碑があります。
http://www.naritacity.com/journal/iroha/journal_iroha_020315.asp
いろは歌が語る古代日本の謎
第2回 ~弘法大師が「いろは歌」の作者か~
いろは歌は「七五調四句」を使った大変リズミカル いろは歌が語る古代日本の謎いろは歌の著者は伝統的に弘法大師が平安時代に書いたものと言い伝えられてきました。ところが最近の学説によるとその伝統的見解を否定するものが目立ち始めています。そこでいろは歌を研究するにあたって、まずその著者が誰であったか、ということを検証しましょう。
「いろは歌」は弘法大師こと空海(774ー835)が書かれた母字歌とごく一般的に言われています。その根拠として鎌倉時代末期の作品である「釈日本紀」、「源氏物語河海抄」(巻12)、「高谷日記」、「江談抄」(ゴウダンショウ)等、の文献に弘法大師が「いろは歌」を書いたことを示唆する記述があります。また空海が「いろは歌」の著者ではあるが、共著した詩人が複数いるという説もあります。その根拠の一例に護名という詩人が始めの二句を書いたことが記されている「古今序註四」が挙げられます。また空海の師である勧操も著作に関わっていると唱える学者もおります。いずれにせよ超人的な知識と知恵を必要とする「いろは歌」でありますから、空海に付き添って多少の編集を加えた者がいたと仮定しても何ら不思議はないでしょう。
しかしここ最近の学説では空海説を否定する見解が登場し、特に「いろは歌」に隠されている暗号文の解読を根拠に、そのメッセージを分析して作者を見出そうとしています。すなわち7×7の升目に入れたいろは歌に含まれている「咎無くて死す」という怨念とも思われる折句を解明するわけです。そこで当時罪なくして死んだ詩人に作者を限定し、尚且つ万葉集といろは歌の共通点を見出していくうちに、万葉集の編集者であった柿本人麻呂説等が浮上してくるわけです。このような議論の延長線として空海説が否定され始め、現在では「いろは歌」の作者は空海ではなく、別の詩人が平安時代に書いたものであるという学説がごく一般的になりました。その理由として「いろは歌」を空海の作とする文献が空海の死後250年以上経ったものであるため信憑性に欠けているとか、空海の時代には区別されていたア行とヤ行の「エ」が「いろは歌」では区別されていない、また歌の句調が空海の時代のものににそぐわない等、各種議論が掲げられています。しかしこれらの学説のどれもまた決定的根拠に乏しいものであり、推測の域を出ていないのというのが現実です。
特に空海の時代における歌謡の句調と「いろは歌」の句調が著しく違うために空海の作ではないという見解に結びつけることには大きな落とし穴があります。確かに空海の時代には五七調四句、または五七五七七の短歌が一般的であり、いろは歌で使われている和讃式七五調四句とは一見してリズムが違うため、時代錯誤という理由で「いろは歌」の作者は空海ではない、と考えてしまいがちです。しかしながら、これら句調の違いを唱える学者は「いろは歌」が折句と呼ばれる暗号文であることを見落としてしまっているのです。すなわち「いろは歌」は表面上、確かに七五調四句となっていますが、暗号文として升目の字を読み込んでいくとそこには空海の時代において主流となっていた五七調四句の流れとなるメッセージが含まれているのです。そして「いろは歌」に秘められている折句を読み込んでいきながらその暗号文に隠されている複数のメッセージを解読することにより、初めて作者の背景や意図が見えてくるのです。
そこで「いろは歌」の原点に戻り、暗号文の解読をするために7×7の升目に歌を入れてみると、すぐに気が付くのがいろは歌の角3点、及び、下段一列を用いて形成されている2つの中心的メッセージです。それは「イエス」「トガナクテシス」というキリスト教の影響を受けたとも思える折句です。それだけではなく、「いろは歌」に隠されている他の折句を解読していきますと、そこには旧約・新約聖書に書かれているヤーウェーの神に関する文脈と思われる記述が重なっているのです!
この事実から察するに、「いろは歌」の著者は平安初期当時、まだ日本国には全く伝わっていなかったはずのキリスト教、及び聖書に書かれているメッセージを何らかの理由で知り得た人物に断定することができます。そう考えると答えが明確になってきます。すなわち「いろは歌」の著者は弘法大師こと空海以外には考えられないのです。信仰の奥義を学ぶため中国に旅立った空海はそこで当時キリスト教の一派であるネストリウス派の教義に触れる機会に恵まれ、聖書を学んできていることは周知の事実であります。そこで悟った教えを折句として母字歌にまとめたのが「いろは歌」なのです。そしてこの「いろは歌」を唱えることにより、読者が何時の間にか空海の目指した信仰の道に引き込まれていき、神の神秘に触れる機会を与えられるようになることを空海は願い求めたのではないでしょうか。その結果が後の日の真言密教へと発展していったと思われます。
信仰心に関わる真理を複数の折句としてたった47文字の母字歌にまとめることは、天文学的知恵を絞らなければ完成させることは出来ません。しかしそれを古代日本で実現したのが「いろは歌」であり、多数の古代文献に記載されている通り、この「いろは歌」こそ日本国が生んだ史上最高の詩人であり宗教学者である空海弘法大師が書いた作品であると推察できます。
https://www.recordchina.co.jp/b575783-s146-c30-d1146.html
中国に初めて伝わったキリスト教は、ネストリウス派の流れをくみ「景教」と呼ばれていました。その景教を伝えたのがソグド人。ソグディアナと呼ばれる地域出身のイラン系民族です。
2010年と少しデータが古いのですが、全世界のキリスト教徒数は約21億7000万人。そのうち中国国内のキリスト教徒は約6700万人です。政治的な問題で自由に信仰するのは難しい状況であるにも関わらず信者数は上昇傾向にあり、2030年には世界最大数のキリスト教徒を抱える国になる可能性もあるそうです。
そんな、「隠れたキリスト教大国」でもある中国ですが、普及のきっかけは16世紀(明代)、マテオ・リッチらイエズス会の宣教師によるによる伝道活動がきっかけでした。しかし、それ以前にも、一時的ではありますが中国国内にキリスト教信者が多数存在していた時代がありました。それが唐代です。
中国に初めて伝わったキリスト教は、ネストリウス派の流れをくみ「景教」と呼ばれていました。その景教を伝えたのがソグド人。ソグディアナと呼ばれる地域出身のイラン系民族です。このソグディアナは、今のウズベキスタン共和国にあるサマルカンド州やブハラ州、タジキスタン共和国のソグド州辺りになります。
ソグド人は、商人として有名な民族でしたが、それだけでなく各地にコロニーを作り、さまざまな国家に文化や宗教、政治など多方面に渡る影響を与えました。彼らの信仰していた宗教は主に三つ。ゾロアスター教(けん教※「けん」の字は示偏に天)、マニ教(明教)、キリスト教(景教)で、これらを総称して三夷教と呼びます。今回はこの三夷教の一つ、景教にまつわるお話をご紹介します。
景教はキリスト教の一派であるネストリウス派に属します。ネストリウス派とは5世紀、当時のコンスタンティノポリス総主教であったネストリウスによって説かれた教義です。ネストリウス派の特徴を簡単に言うと、「聖母マリアの信仰がない」ということです。
難しく言うと、キリスト教には「両性説」といってイエス・キリストには神性と人性二つの“位格”があるという考え方がありました。ネストリウス派はこの両性説を取り、マリアはイエスの「生みの親」であって、「神の母(聖母)」ではないとしています。
ネストリウス派は431年のエフェソス公会議で異端と認定され、教えを説いたネストリウスはエジプトに追放となります。ネストリウスの追放後、残された弟子たちは東方へとその教えを広めて行きます。この教えがソグド人に伝わり、「景教」として中国に知られることになるのです。
この「景教」、中国からはなくなってしまいましたが、ネストリウス派は今も「アッシリア東方教会」として存在しています。このほか、「カルデア教会」という16世紀にアッシリア東方教会から分離した教派もあります。ちなみにこのカルデア教会は1830年にローマ教会へ正式に合流(フル・コミュニオン)しています。異端として追放された後、約1400年経って再びローマ教会に戻ってきたわけです。さらに1968年にはバグダードで「古代東方教会」がアッシリア東方教会から分離・独立しています。これらネストリウス派の諸教会は主に中東やアメリカで活動しています。
さてネストリウス派は異端認定された後、隣国のササン朝ペルシャで保護を受け伝道を続けます。そしてササン朝がイスラムに滅ぼされるまでの間、ペルシャ帝国内にネストリウス派の本部が置かれました。ササン朝滅亡後はバグダードに本部を移し、イスラム帝国内で活動を続けることとなります。イスラムの支配下だと迫害を受けるイメージがあるかもしれませんが、実際は引き続き保護を受け、ペルシャ時代よりもさらに広い範囲で布教を進めて行きます。
景教が正式に中国に伝来したのは唐の太宗の貞観9(635)年。宣教師・阿羅本(アロペン)が布教のため長安を訪れ、二十四功臣の一人・宰相の房玄齢が彼らを出迎えたとされます。そして太宗によって長安に景教寺院が建てられ、景教の布教が正式に始まります。
しかし、布教活動は決してスムーズには行きませんでした。高宗の時(650〜683年)に一時的な発展を見せるものの、則天武后の時代(690〜705年)に入ると仏教が第一に置かれたこともあり、思うような活動はできませんでした。
しかし、玄宗の時代(712〜756年)に入ると再度勢いを取り返します。そしてそれまで、寺院は波斯寺、ネストリウス派のことを波斯経教やミシア(メシア)教(※漢字はいろいろな書き表し方が伝わっているので割愛)と呼んでいましたが、この時代にそれぞれ大秦寺・景教と改められました。
最初のころ、波斯―ペルシャという名をつけて呼ばれたのは、景教の本部がペルシャにあり「ペルシャ」からきた宗教であるという認識があったからです。しかし、その後、ネストリウス派はローマの宗教であるという認識に改まり、改称されたと考えられています。ちなみに大秦とはローマのことで、また景教の「景」とは光明を意味しています。
またササン朝滅亡後、ササン朝の王子たちが長安に亡命しており、彼らの信奉するゾロアスター教のために、「波斯胡寺」というのも建てられていたので、ややこしかったというのもあるかもしれません。
そして景教は代宗から徳宗の時代(762〜805年)にかけて最盛期を迎えます。そのきっかけを作ったのが、粛宗の時代(756〜762年)に景教布教強化のためにバルク(今の新疆ウイグル自治区アクス市)からやってきた司教・伊斯(ヤズドボジド)です。
彼は安史の乱を平定した郭子儀に力を貸すなど政治的にも活動し、粛宗に重用されます。その結果、景教は当時の貴族たちの間で流行するようになりました。それを記念し、伊斯の資金提供のもと徳宗の建中2(781)年、『大秦景教流行中国碑』(景教碑)が建てられます。
そしてこの景教碑にまつわる話に「え?」と言いたくなるような妙な話があるのです。
景教碑は、漢文と「エストランゲロ」と呼ばれる古体シリア文字で書かれた文章の二つで書かれています。この碑文の文章を作ったのが伊斯の子アダム、漢名「景浄」です。ちなみに景教の聖職者は婚姻ができ、伊斯・景浄の家系は代々景教の聖職者をしていました。そしておそらく景浄の世代から、中国在住の景教聖職者は「景」を姓にした漢名を名乗るようになりました。
この景浄は語学に優れており、景教碑文だけでなく多くの景教経典も漢訳しました。さらに異教徒ながら、インド人僧・般若三蔵がソグド語の『大乗理趣六波羅蜜多経』を漢訳するのを手伝っています。
実はこの般若三蔵、804年(日本の延暦23年、中国の貞元20年)に入唐した弘法大師空海のサンスクリット語の師でもありました。このことから、景浄−般若三蔵−空海というルートが成立し、空海は景教と接触があったという考えがあります。それどころか、空海は景教を学び、真言宗の教えは景教、つまりネストリウス派キリスト教の影響を受けていると考えている人たちもいます。まさしく「え?」です。
中でもアイルランドの仏教研究家であったゴードン夫人という方は、高野山を訪れた際「真言宗と景教とのつながり」を確信し、明治44(1911)年に自分でお金を出して高野山に景教碑を建ててしまっております。その隣にご自身の墓所もあるそうなので、ある意味、自分のお金で自分の墓に自分の好きなオブジェを建てたってことになりますが…お金持ちの行動力って凄い…。
で、実のところどうなのか、気になりますよね。その前に景浄と景教について、もう少し詳しく。
まず景浄が行った仏典の漢訳は『大乗理趣六波羅蜜多経』だけです。しかもメインは般若三蔵であって、異教徒である景浄はあくまでもサポート的な立場でした。その一方で「本職」の景教経典は『大秦景教宣元至本経』『志玄安楽経』『景教三威蒙度讚』など確認できるだけで30部ほど著しています(余談ですが、三威蒙度讃はいわゆる賛美歌のようなもので、中国キリスト教会発行の『賛美詩(新編)』にも収められているそうです)。
漢訳された景教経典の特徴は「仏教」や「道教」の素材をふんだんに取り入れている点です。例えば景浄が著した『志玄安楽経』は「無動無欲、即不救不意。無休無為、即能清能浄。能清能浄、即能晤能証。能晤能証、即遍照遍境。遍照遍境、是安楽縁」といったように、老子の『道徳経』にそっくりな思想が、仏典と同じ様式の文章で書かれています。
つまり、景浄が著した景教経典は純粋な「聖書」ではなく、「漢化した経典」であったわけです。例えば教主は「法王」、教会は「伽藍」や「寺」、神父は「比丘」や「僧」、神ヤハウェは「天尊」という風に仏教や道教の用語を使って経典が書かれています。景浄が撰述した景教碑文でも「上座」や「法王」といった仏教用語を見ることができます。
この景教漢化の痕跡は彼らの名前からも解ります。伊斯(ヤズドボジド)まではその名の音訳ですが、その子景浄(アダム)の世代になると皆「景」という姓を使った漢名を名乗るようになっているからです。
景浄の世代で一気に漢化が進んだと考えると、景浄は般若三蔵との仏典漢訳プロジェクトを通して「漢人に受け入れられるコツ」を学んだのではないでしょうか。つまり彼は仏教をリスペクトして、景教をカスタマイズし、多くの人に受け入れられるようにしたのです。要するに「景教が(空海の)仏教に影響を与えた」わけではなく、「景教が仏教に影響を受けた」のです。
しかしながら、景教碑を高野山に建ててしまうほど、そのつながりは近かったのでしょうか?
実は空海が般若三蔵に師事したのは最初のうちのほんの数カ月で、その後は青竜寺の恵果和尚に師事して本格的に密教を学んでいます。しかも空海の長安滞在は804年の12月末から806年の3月まで、約1年3カ月という大変短い期間です。その間に、サンスクリット語を学び、密教の奥義を会得しているわけです。
そして空海が般若三蔵に師事してサンスクリット語を学んだのは、他でもない密教を学ぶためでした。言い換えれば専門科目を学ぶ前に、必須の語学を別のスクールで習得したということに他なりません。空海は何に重きを置いたかは、学習期間からもうかがい知れます。般若三蔵に師事したのは804年の2月からですが、5月には恵果和尚に師事しています。空海は長くない長安滞在中、そのほとんどを密教を学んだ青竜寺で過ごしているのです。
ただ空海が入唐した当時は景教の全盛期でもあったので、まるっきり接触がなかったと考えるのも無理があるとは思います。そしてまた景教は仏教をリスペクトしていた時代でもあるので、今、私たちが感じるような「仏教」と「キリスト教」ほどの差もありませんでした。しかし一方で空海の濃密なスケジュールを考えると、景教を知ったとしても、影響を受けるほどではなかったと考える方が自然です。
つまり、高野山の景教碑とは空海の「サンスクリット語の先生の昔のプロジェクト仲間が作った異教の碑文のレプリカ」でしかないのです。
景教碑のレプリカのさらに悲しい逸話として、京都帝国大学(当時)の教授だった桑原隲蔵(くわはらじつぞう)先生が大正12(1923)年に行った講演会で、高野山の景教碑について「現物と似通っていないところが遺憾」といわくを付けられてしまっています(おまけにこの講演の内容は『大秦景教流行中國碑に就いて』として桑原隲蔵全集に収められ、著作権切れとなった現在は青空文庫で公開されており、誰でも見ることができます)。
もっとも、景教碑のレプリカは京都帝国大学にもあったので(現在は京都大学博物館蔵)、「うちの方が優れている」という自慢でもあったとは思いますが。しかし景教碑研究の大先生に「もう少し頑張りましょう」的な烙印を押されてしまったのは残念な事実です。
結局のところ、「高野山になんで景教碑が!?」というのは、「景教と真言宗につながりがある」証ではなく、さまざまな国から多様な人たちが集まっていた唐の長安で、点と点でインド人とソグド人と日本人がつながった証しなのです(ゴードン夫人の真意はともかくとして)。
そしてまた、その般若三蔵という縁でつながった二人は、それぞれ中国景教と日本仏教の優れた領袖でもありました。そう考えると、二つの点をつないだ般若三蔵は本当にすごい奇縁を持った方だとも思います。
ついでですが、景教と空海という「点でのつながり」は、まだまだ広げることも可能です。例えば景浄の父・伊斯を通して安史の乱という歴史的なことにつなげていくこともできますし、景浄の故郷バルク(景浄がバルク出身かどうかは、実は微妙なのですが、祖父と父がバルクにいたのは景教碑のシリア文面で確認ができるので、ざっくりとバルクにしております。実のところ、伊斯はバルクを出てラジャスタンで司教をしてから中国に赴いているので、景浄はラジャスタンや中国で生まれた可能性も否定できません)と般若三蔵の故郷カピシー、どちらも玄奘三蔵の立ち寄った国なので、初唐の偉大な求法僧と(かなり無理やりですが)つなぐことも可能です。もっともここで弘法大師と玄奘三蔵法師をつなげられるかどうかは、かなりの勝負ですが。
こんな感じで、つながりとか縁って四方八方意外なところにまで広げていくことができるので、高野山に景教碑があってもいいじゃないって思えてきませんか(もっともイレギュラーなつながりであることには間違いはありませんが)。
そんな高野山の景教碑ですが、いろいろな国のいろいろな文化を包み込んで成り立っていた唐代の象徴には間違いありません。そしてまた、唐代にあったさまざまな異国の文化は時代を経るに従い「漢化」して漢文化に溶け込んでいく課程も知ることができます。たしかに「え?」と思いたくなる組み合わせですが、遙か昔の長安の様子をうかがい知ることもできる貴重な存在でもあるのでした。
さて、この中国景教ですが、全盛期から1世紀も経たぬうちに終焉を迎えます。840年に即位した武宗による「会昌の法難」もしくは「会昌の廃仏」と呼ばれる宗教弾圧によって、寺院は閉鎖され景教僧は塞外へと追放されます。
塞外へ去って行った景教徒たちは、その本拠地を高昌に移します。その後はソグド人の末裔や彼らと関係の深い遊牧民の宗教として―つまり、阿羅本の中国布教以前の姿に戻って存続していきます。
13世紀、元の時代になって、景教徒は再び中国に戻ってきますが、これはあくまでも“色目人の宗教”であって、かつて貴族たちの間で流行ったようなものとは違いました。景浄たちが説いた教えも景教碑も、文字通り土に埋(うず)もれていき、忘れ去られていったのでした。
この土に埋もれた景教碑の“発見”についても、なかなか興味深いエピソードがあるのですが、長くなるので、それはまた改めて次回に。ローマ教会(カトリック)との関係も含めてご紹介したいと思います。
■筆者プロフィール:瑠璃色ゆうり
東京出身。立正大学文学部史学科卒(東洋史専攻)。ライターとしての活動は2006年から。平行してカルチャースクールスタッフや広告代理店で広告営業なども経験。2017年よりライターのみの活動に絞る。