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御影供みえくと入定にゅうじょう信仰

2019.10.04 01:59

http://mitsumonkai.na.coocan.jp/prefaces/preface200705.html   より

【御影供みえくと入定にゅうじょう信仰】

青龍寺ではその創建の母胎となった高野山青森別院で行われてきた行事である本尊弘法大師さまの御入定と大師への報恩の誠をささげる月並み御影供法要を毎月二十一日に行っている。 特に大師が入定された承和二年 (八三五年) 三月二十一日 (旧暦) は、 新暦に直すと四月になるのが普通 (閏の関係で希に五月になることもある) であることから、 青龍寺ではこの日に因み毎年四月二十一日を 正御影供しょうみえくとして、 併せて四国八十八ケ所霊場お砂踏みの法要を厳修する。 この日にはこれまで四国八十八ケ所を巡礼された信者さん達がそのお詣りの証として頂いた御朱印が押印された大師尊像の掛け軸を持ち寄り内陣に掲げ、 その前に四国霊場の聖砂を敷き、 一人ずつ南無大師遍照金剛の宝号を唱えながら巡拝する。 その多くは四国遍路の夢を見ながらも果たせない方々であるから青森に居ながらにして聖地を巡拝できる功徳をいただけるものとして感激の面もちでお詣りするのである。

 この御影供の始まりは空海入定から八十七年後の延喜二十一年 (九二一年)、 醍醐天皇が空海へ 「弘法」 大師の謚号しごう (贈り名) を賜った時を遡る延喜十年、 東寺灌頂院で行われたと記録されており、 以後本山は云うに及ばず全国末寺、 大師教会に至るまで正御影供法要をするようになって今に至っている。

 弘法大師の尊像には、 蓮台に乗って合掌する空海幼少の頃の稚児大師 (写真は高野山青森別院蔵) や全国にある修行大師が数多く見受けられる。 しかし一番多いのはやはり倚子台きしだい (寄りかかり椅子) に座り、 左手に念珠右手に五鈷杵を持っている大師像である。

 また、 空海が在世中、 念持仏である如意輪観音像を安置していたとされる高野山の御影堂内にある御真影は弟子の一人である真如親王の直筆であるとされ、 高野山名霊集に、 「大師御在世の持仏堂じぶつどうなり、 大師の尊影は真如親王の御筆、 大師の開眼なり。 親王は平城天皇の御子高岳たかおか親王と申して嵯峨天皇の御時春宮に立たせ給いけるが、 仲薬子等 (薬子の乱) のことによりて冤むじつの罪を得給い、 震位 (天皇の位) を去って大師の弟子とならせ給いぬ。 ある時、 親王窺うかがいいに大師の尊影を写し給いけるに、 大師はるかに知見したまいて、 我が姿を画き給わば、 眼を空海が入れ候わんと仰せければ、 親王大いに驚かせ給いけるぞ、 是れ即ち今の尊影是れなり」 と書き残されており、 大師自ら眼睛を点じられたものとされる。 この御影堂にある御真影は一般公開されていないが、 真言密教最奧の阿闍梨あじゃり位に昇進を許される学修大灌頂(*)に入壇された者だけに拝眉を許されている。

 さて、 お釈迦様を始め、 各宗祖が亡くなると普通入滅とか入寂と云うように表現される。 これに対して弘法大師だけは 「入定」 と云う言葉を使う。 また、 各宗祖を始め様々な方向で活躍された多くの高僧もそれぞれ大師号をいただいているが、 それに対して他宗の方々がその教理の面で心酔はされても、 自らの信仰の対象とまではなっていない。 宗旨宗派を越えて崇められているのは 「太閤は秀吉にとられ、 大師は弘法にとられ…」 と俗間で云われるように弘法大師を於いて他にない。 これは 「虚空尽き、 衆生尽き、 涅槃尽きなば我が願いも尽きなむ」 (万灯万華会願文) の言葉に代表されるように、 永遠に人々を救うと言う誓願を立てられ、 奥の院にその身を留めたまま定に入られて、 今尚衆生を済度されているという入定留身にゅうじょうるしん信仰が背景にあるからである。 虚空や衆生や涅槃が尽きると言うことは絶対にあり得なく、 大師の令法久住りょうぼうくじゅうつまり永久に仏法をこの世に存在させるという意志の表明である。

 この入定留身信仰の背景には大きく分けると二つの信仰に裏付けられているとされる。 一つは十一世紀に流行した弥勒菩薩の下生 (弥勒菩薩が五十六億七千万年後にこの世に下り衆生を済度する) という信仰を取り入れたことである。

 大師も遺告ゆいごうのなかで 「入定の後は兜率他天に往生して弥勒慈尊の御前に侍すべし五十六億七千年余の後 必ず慈尊と御共に下生して吾が先跡を問うべし (私が歩んだ跡を訪ねる) また且つ下らざるの間は微雲管みうんかん (弥勒が住む浄土から衆生界を眺める穴) より見て信否を察すべし (信仰の道に精進しているか否かを見ている)」 (御遺告第十七条) と遺されている。 このような弥勒信仰、 つまり釈尊入滅から衆生済度を託された弥勒菩薩が五十六億七千年後に下生するまでの無仏の間に生きる人達は何を便りに生きたらよいのか。 その二仏中間の大導師として弘法大師が高野山に身を留めたまま衆生済度しているという信仰が確立したのである。

 もう一つは十二世紀に入り、 覚鑁かくばん (後の興教大師) や、 時の検校琳賢に主張された、 大師は亡くなったのではなく 「遊行」 して人々を救って歩くのであるという信仰である。 これは高野山の入り口にある大門に琳賢時代から掲げられていると言われる二つの聯れん (板札) が端的に代弁している。 一つは 「不闕日日影向」 大師は日々欠かさずにこの世に姿を現われること。 もう一つは 「検知處處遺跡」 大師ゆかりの地に留まって護ると記されている。 そして聯はないがその前段に 「ト居高野之樹下」 そして 「遊神於兜率之雲上」 とある (日々影向文)。 それは、 身を高野山奥の院に定め置き、 魂は弥勒浄土に遊行し、 として前の二句がこの後に続くのである。

 このようにこれらの入定信仰、 弥勒信仰、 高野浄土信仰が混在してその後の弟子達や、 高野聖たち等によって時間をかけながらその信仰は全国の人々に浸透し民衆化し今日に至っているのである。

 さて大師は承和二年三月十五日の 「御遺告」 に 「吾れ永く山に帰らん 吾れ入滅せんと擬するは (決める) 今年三月二十一日寅の剋こくなり (午前四時)  諸の弟子等悲泣を為すこと莫れ、 吾れすなわち滅せば両部の三宝に帰信せよ。 自然に (仏は) 吾れに代わって眷顧を被らしめん (見護る)」 と入定することを予告している。

 一般大乗仏教 (顕教) では仏性論を説くが、 それは仏性は覚り得る可能性のことであり、 単に覚りを得たものを宿しているという意味である。 それに対して密教は仏性論を更に進めて成仏論を説く。 弘法大師の教えは、 成仏は吾が内なる仏を開顕すること、 成仏を実現することである。 その意味で 「吾れ永く山へ帰らん」 の語句は、 単に高野山を指しているだけでなく、 この万物の成仏を説いた空海自身がその万物が存在する自然への永劫回帰、 即ち自ら永遠に成仏すること実証することを意味しているのではないかと思う。

 このようにして大師入定信仰は今日に至っているが、 釈尊は機根 (能力、 理解力) に応じて法を説くことを述べている。 従って入定信仰も密教の教えに導く一つの方便ではあるが、 大師は次のようにも御遺告で述べている事に思いを致さねばならない。 「門徒 (信者) 数千万なりと雖も、 しかしながら吾が後生の弟子なり。 祖師や吾が顔を見ずと雖も、 心あらん者は必ず吾が名号を聞きて恩徳の由を知れ。 是れ吾れ白屍はくしの上に更に人の労いたわりを欲するに非ず。 密教の寿命を護り継いで (弥勒菩薩が成道のおり) 龍華樹下のもとに三回の法筵を開き人々を済度することを考えてのことである」 つまり自分の恩徳を説き帰依させる為に自分の名を唱えよ言っているのではない。 先の 「吾れ滅せば両部の三宝に帰信せよ」 等と云っていることを併せて考えると、 大師の真意は、 私の密教の事相教相 (教学と実修) の双修を究めることを決して忘れぬことであり、 今日のような個人崇拝的な大師入定信仰だけに留まっている事を敢えて諫めているのではないかということを感じとるのである。

南無大師遍照金剛 (御影供法話要旨、 加筆)

*学修大灌頂

 入壇せざる者に語るを禁ずという不文律があり詳細はわからないが、 そのあらましは、 選ばれた者だけが先ず 「鉄塔の大事」 として大塔内に於いて即身成仏を実証するために、 おのが心塔を開扉する印と口決 (真言や観念) を相承し、 さらに大師の聖像を本尊とせる御影堂にに参入し、 外陣から内陣、 内々陣へと進む。 これは貪、 瞋、 痴の三妄執の鉄扉にとざされた 「心塔」 の扉を開くものとの観想で、 手に大塔で授かった印を結んで、 第一、 第二、 第三の鉄扉を開いて、 永遠不滅の金剛定に住して、 宇宙の大生命と融合し、 法身大日如来たる遍照金剛の大師の聖像に親しく手を触れる。 そうすることによって、 大師のいのちが行者の全身全霊に遍入し、 行者は第二の遍照金剛身となり、 真言密教最奧の大阿闍梨位に昇達し、 ここに新しく 「伝燈大阿闍梨」 が誕生するのである。

 昭和四十九年に先師隆弘師がこの学修大灌頂に入壇され、 内々陣に入る事を許され御真影を拝謁したときには、 入壇者の多くはこれでいつ死んでもよいと感激感涙していたそうですが、 先師はいつ死んでもよいなんてとんでもない。 これからだ、 これからがお大師様の誓願に応えていかなければならない大切な時間だと、 更に一層菩提心をふるい起されたと隆深師は隆弘先生から聞いている。

 その後の二十年間は、 その言葉を証明するかのような不惜身命の布教活動だった。 余談ではあるが、 この伝燈大阿闍梨位に昇進されたときには普通、 総代を始め多くの檀信徒さんたちがこぞって高野山へ登り師をお迎えするのが通例である。 そして最高の衣である七条納衣しちじょうのうえをお祝いに奉納し、 記念写真はそれを着して撮るのが普通である。 しかしながら父隆弘師はその入壇することさえ母にも檀信徒の皆さんにも告げず黙って高野山へ登ったのです。 しかも記念写真に着している納衣は蓮華定院の前官様よりお借りしたものだそうです。 それは費用の面でも檀信徒の方々に迷惑をかけたくなかったし、 少し照れくささもあったようですが今にして思うと我々の配慮が足らなかった事を悔いています。

旧正御影供 御逮夜 Ⅳ

伽藍大塔では、参拝の皆様が願い事を記したロウソクを供え、僧侶につづいて大師の御宝号を唱えしました。


燈火の星とゆらめく御影供かな  高資