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中納言良房 外伝 あこな(上)

2010.06.30 15:05

 島根県の七類や鳥取県の境港から高速船で一時間、あるいはフェリーで二時間半の旅路を経ると隠岐に着く。今でこそ気軽な旅路になったが、かつては一日がかりの旅路であった。

 日本海に浮かぶ隠岐は歴史の古い島でもあり、古事記では本州、九州、四国、佐渡、淡路、対馬、壱岐と一緒に大八洲(おおやしま)の一つとしてカウントされ、律令国として独立した存在ともなっていた。ただ、他の島々と違い、隠岐は一つの島ではなく、四つの大きな島とたくさんの小さな島からなる諸島で、この全てを括って「隠岐」とというひとつの「洲(しま)」となる。

 この大きな四つの島のうち、最も東にある最大の島を島後、それ以外の西部にある三つの島を島前と呼ぶ。かつては島後の中がいくつもの町と村に分かれていたが、平成の大合併の結果、現在、島後全体は「隠岐の島町」となっている。もっとも、島後全体は隠岐の島町だが、竹島をはじめとする隠岐の無人島も隠岐の島町に含まれるので、隠岐の島町は島後だけで構成されているわけではない。

 島後はほぼ円形をしており、フェリーターミナルや空港のある島後の中心地西郷から北北西へと走る国道四八五号線に沿って北へ進むと、島のほぼ真ん中あたりで都万目(つばめ)という集落にたどり着く。公共交通機関の本数が乏しいという理由で観光案内などでは島内の移動にレンタカーの利用を勧めているが、島後はバス路線が張り巡らされており、本数は少ないものの都万目までバスで行く方法もある。バスを利用するには西郷を発って五箇へと向かうバスに乗り、「都万目入口」で降りて一五分ほど歩けばよい。

 この都万目の集落には小さな地蔵が安置されている。地元の人はこの地蔵を「腮無(あごなし)地蔵」と呼んでおり、この地蔵にお参りすると歯痛が治ると言われているが、この地蔵は何も歯痛を治すために設けられた地蔵ではない。

 元々の名前は「阿古那姿(あこなし)地蔵」であって、「腮無」は「阿古那姿」が転じた名。歯痛云々は後からとってつけられた御利益でしかない。とはいえ、隠岐の地蔵を本尊とした地蔵が各地に分置されているほどなのだから御利益はあるのだろう。

 では「阿古那姿」とは何なのか? 最後の「姿」はそのまま「すがた」だから「阿古那姿地蔵」は「阿古那の格好をした地蔵」となるが、問題は「阿古那」。これはどんな意味があるのか?

 実はこの「阿古那」。この漢字は「アコナ」に対する適当な当て字でしかない。だから漢字で表しても意味はない。

 この地蔵が生まれたのは承和七(八四〇)年のこと。

 そして、このアコナという名は一二〇〇年前にこの島後に住んでいた一人の少女の名である。

 ではなぜ、少女が地蔵となったのか。

 この物語は今から一二〇〇年前の少女を追いかけることとなる。


 承和六(八三九)年一月のある日。

 十日に一度、本府(現在の隠岐の島町西郷)の港で開かれる市では、今度この島に流されてくるという元貴族の話で持ちきりだった。

 「今度こそお公家さんだとよ。」

 「へえ。」

 市のために前の日から準備を整え、今朝竹林で穫ったばかりのタケノコをカゴいっぱいに入れて運んできたアコナには、そのタケノコの売れ行きが第一で、この島に来るという貴族の噂に対する関心がなかった。

 「なんだい、アコナちゃんは興味ないのかい。」

 「お公家さんが来たからぁてコメぇたくさん食えるわけじゃなぁ。あたいにゃ関係ないわりすぅ。」

 アコナはやはり最近の女の子だなと感じさせる。

 島民は気づかないが、島の外から来た人は、この島の人たちが言葉の最後に『~わな』とか『~わり』とかをつけるのを奇異に感じるという。そして、島にとけ込もうとするとき、まずこの言葉を真似ようとする。

 ところが、ここで間違いを起こす人がたくさんいる。

 まれに『~わりすぅ』とか『~われすぅ』で終わる人がいて、それが若い人に偏っている言い方なのを見て、これが若者の言葉なのだなと考えて、この言い方を真似ようとする。

 ところが、これは島の若い女の子の言葉なのだ。

 そうと知らない島の外から来た人が男である場合、この言葉を真似ようとすると、男なのに女の言葉を使おうとして笑われる。

 その点、この島で生まれ育ったアコナの言葉は完璧だった。若い女の子を想像させる言葉の使い方はいかにもこの島の乙女らしく、さらに、アコナにふりかかっている不幸な境遇と、それに負けないけなげさ、そしてアコナ自身の見た目も手伝って、アコナをちょっとしたアイドルにさせる要素になった。

 「関係ないこたぁないわな。うまくすりゃあアコナちゃんを嫁に貰ってくれるかもしれんちょよ。そうすりゃアコナちゃんもお公家さんの奥方だわい。」

 「よせやい。あたいはもう諦めたんわぁ。」

 「もったいないなぁ、せっかくアコナちゃんいい女なのに。」

 「誉めたってタケノコはやらんよぉ。」

 どこぞの貴族がこの島にやってくるという噂を聞いても、アコナには「またか」としか思えなかった。前にもあった同じ噂のときは、貴族ではなく都で盗みを働いたコソ泥が送られてきただけ。偉くもなんともなかった。


 娯楽の少ないこの島ではこんな些細な噂でも娯楽になる。

 アコナももっと暮らしにゆとりがあればこの噂を楽しめるのだろうが、今のアコナには来るかどうかわからない貴族のことなど気にとめる余裕はなかった。

 「それよりさ、おやっさん、タケノコ買うてくれなぁ?」

 「悪いけどいらんわい。」

 「ほな、山椒はどうかね。タケノコにかけて喰うとうまいちょよ。隠岐のタケノコは都でも喰えないごちそうだって国司様だって言うてたんだわりすぅ。」

 「そりゃあオイラだって買うてやりたいわい。でもさぁ、みんな同じもんばかり持ちてきちょるんよ。そりゃあタケノコはうまいわな。でもねぇ、そうたくさんは買えないて。」

 「それともアコナちゃんが外(=島の外)まで運んでくれるかい。」

 「無理無理。父ちゃんじゃあるまいし。せめて春になるまで待ちてくれわりすぅ。」

 「春になりゃあオイラが外まで行くわい。タケノコたくさん積んでさ、カニとか海の幸もたくさん積んでさ、出雲行きてさ、それでコメぎょうさん買うてさ、母ちゃんと倅にたらふく食わしてやるんだわい。」

 「出雲に行けばそんなにコメ買えるんと。」

 「タケノコはわからんが、カニは良う売れちょりたなぁ。」

 「ああ、隠岐のカニは高う売れる。タケノコは大したことなかが、出雲じゃ隠岐のカニ買うのにたくさんたくさんコメがいるんだわい。」

 「いやあ、出雲だなんて近くのこと言うてもしょうがないわな。それより、都よ、都。都までカニ持っていくんよ。たんまりコメ貰えるし、ゼニも貰える。アコナちゃん、ゼニて知っちょるか?」

 「聞いたことあるけど見たことないわぁ。何だいそりゃあ。」

 「ゼニてのがありゃあ何でも買えるだわな。都じゃコメじゃなくてゼニよ。ゼニがありゃコメだろうとカニだろうと買える。都にゃゼニがたんまりありてよぉ……」

 「よせやい。ここは都じゃねえわな。」

 「でもさぁ、都かぁ。行きてみたいわなぁ。」

 「だべなぁ。」

 アコナに限らず島の人にとって、未果てぬ都は夢のまた夢の世界。

 隠岐から出たことのないアコナにとって、十日に一度のこの本府の港のにぎわいですら村では考えられない華やかさなのに、海の向こうの出雲はもっと華やかで、さらに遠くの都はもっともっと華やかだという。

 アコナにはその華やかさを憧れたが、具体的には想像できなかった。


 アコナが持っていったものは全く売れなかった。

 アコナは本府の港に来るときに通った道をそのまま戻って、都万目(つばめ)の村まで帰ることにした。何度も何度も歩いている道なので、アコナに限らず、都万目の村の者は、本府の市までの一二里(当時の一里は約五四〇メートル。一二里はおよそ六キロ半)の山道を歩くことも苦にならなかった。

 この日、都万目の村から本府の市まで、アコナを含め五人の村人がやってきていた。

 五人とも山でとれたタケノコや山菜をカゴに入れて市にやってきたが、少なくとも何かしら売ることができたのはトシメだけだった。

 「なに買うたん?」

 アコナはトシメに話しかけた。アコナにとってトシメは生まれたときから実の妹のように接していた子で。他の誰より気がねなく話しかけられる相手だった。

 「もうすぐ三人目が生まれるでな。」

 トシメはそう言うと、カゴの中身をアコナに見せた。

 中にはもうすぐ生まれる子のための産着が入っていた。

 アコナはそれを見て、妹のように思っていたトシメが、すっかり母親になっているのに気づかされた。

 それに引き替え、自分はまだ独り身。

 もういい加減、誰かの嫁になって母になっていなければいけない年齢になったのに、そんな話は全くない。

 嫁になることは諦めたと言うが、心のどこかで、やっぱりまだ嫁になることを夢見ている自分がいる。

 それも、ごく普通の農民や船乗りの嫁ではなく、役人とか、さらには貴族とかの嫁になって、今では考えられないいい暮らしを過ごす未来を想像している自分がいる。

 生前は役人でもあった父のことを考えているのか、アコナはこれまで自分が特別な男性の嫁になるという思いをずっと抱いていた。おかげで、誰かの嫁になっていなければおかしい年齢になっても、結婚の話など何にもないまま、あるがままの日常を過ごす自分がいた。

 それでも、年下で妹のように感じていたトシメが、あと半年もすれば三人目の子供を出産するという場面を迎えると、さすがに焦りは感じた。

 「すっかり目立ちよるね。」

 アコナはトシメのお腹に触れた。

 「もう八ヶ月ぞ。」

 「三人の母になると、羨ましいわな。」

 「ありがとな。」

 「あとは、うまいもの食うて、立派な赤子産むだわな。」

 「うまいものはそうは食えんわりすぅ。」


 コメを食べなくなって何ヶ月経つだろう。わずかばかりの山の幸だけの食事はさすがに問題だと思っていたが、それ以外の食料を買える余裕はアコナになかったし、そもそも市にコメとかの穀物が登場すること自体珍しかった。

 今日の市場も、どこを見ても並んでいるのは近くの海や山で穫れるものばかりで、島の外のものは全くなかった。

 アコナは、父が生きていた頃は月に一度ぐらいはコメを食べることができていたが、父が亡くなってからもうすぐ二年、その間、コメを食べた記憶は一度しかない。

 アコナの住む家はみすぼらしいが、都万目の村ではごく普通。ただ、他の家は一家で住んでいるのに、アコナだけは一人暮らしをしている。

 「今日も売れなこうたわりすぅ。」

 家に帰ってきたアコナは三枚の板に向かって話しかけた。左から順番に、祖父、父、母の位牌、ということになっている板。兄や弟のも作ってもらおうとも思ったけど、作ってもらうにどれだけのコメがかかるのかを聞いてやめた。

 文字が読めないアコナにはこの板に何と書いてあるかはわからないが、和尚さんに書いてもらったこの板はありがたいものに感じていた。それで、三枚の板で、家族全員分揃っているということにした。

 祈ったあとカゴを見ると、中のタケノコは出かけたときと同じ量。

 アコナは都じゃごちそうだというこのタケノコを今日の夕食にすることにした。一人暮らしだからこれだけあればしばらくもつし、食べきったとしても蓄えが全くないわけじゃない。それに、冬の寒ささえ我慢すれば山や竹林である程度とれるし、もうちょっと歩けば海に出る。アコナはそう考えることにした。

 「お公家さんになりゃあ毎日コメ食えるわりすぅ。」

 火をおこしながらアコナはつぶやいた。

 一人暮らしになってから独り言が多くなったと自覚している。

 「お公家さん来てくれりゃあ、タケノコ買うてくれるかねぇ。」

 これから茹でようかというタケノコを掴みながら考えた。

 「都じゃあごちそうだと言うちょるし……、来たらそのとき考えればええわぁ。」


 日も沈もうかという頃、村長がアコナの家を訪ねてきた。

 アコナは戸を閉ざした。

 『何しに来たわりすぅ。』

 「大切な話なのにその言いぐさは無かろう。」

 『大切な話ってのは何か? 年貢か? 今年の年貢はとっくに払うたわて。もうウチには何もねぇわな。それでもむしりとろうてのけ? それとも何か? あたいの身体目当てけ? いやぁぁ! 村長さんに犯されるぅ!』

 「アコナちゃんがキレイなのは認める。母ちゃんの次に美人だ。うん。でもな、そんなことしたらトマシベさんに呪い殺されるし、母ちゃんに殴り殺される。命がいくらあっても足らん。」

 『そか。ならお前さんを信じる。だども、ちょっと待てぇな。』

 それからアコナの家の中から声が聞こえてきた。

 『父ちゃん、母ちゃん、爺ちゃん、アコナは悪い子わりすぅ。嫁入り前なのに見知らぬ男の人を家に招きますわぁ。』

 「見知らぬってこたぁなかろう。トマシベさんとはアコナちゃんが生まれるまえからの知り合いだし。」

 『何かおうたら、父ちゃん、この人を呪い殺しとくんなまし。アコナもナタで戦うからわりすぅ。』

 「こらこら!」

 「ほな、どうぞ。」

 やっと戸が開くと、アコナは本当に鉈(ナタ)を持っていた。


 「まずはその物騒なものをしまいなさい!」

 「ん?」

 「その手に持うちょるものだわい。」

 「これか。これはタケノコを切りてたわりすぅ。」

 「タケノコ? そういや、タケノコが仰山穫れたとみんな言うてたな。アコナちゃんもそれか。」

 「やらんぞ。」

 「欲しければ市で買うてる。」

 「買うか? ほな、コメと交換ぞ。」

 「人の話を聞きなされ。」

 「ほな、早う話をしてくんな。あたいは明日も早いわりすぅ。」

 「いいかい。まず、アコナちゃんも聞いたと思うが、お公家さんがこの島にやってくる。」

 「それはもう聞いちょるわな。聞いちょるが、こないだみたいにただの盗人だということねぇか?」

 「今回は正真正銘のお公家さんだ。」

 「ほか、わかった。ほな、明日は早いだでさよならな。」

 「待ちなさい。いいかい、そのお公家さんをこの村で受け入れることにしたんわ。」

 「そりゃ大変だわなぁ。」

 「たいへんなのはこれから。そのお公家さんはね、トマシベさんの知り合いなんわ。」

 「嘘つくない。父ちゃんにお公家さんの知り合いなどおらん。」

 「知り合いになったとよ。遣唐使で。」

 「ん?」

 このときまでアコナは村長の言うことが理解できなかったが、遣唐使というフレーズで村長が言ったことをある程度理解できた。


 都万目の村で大事件が起きたのは三年前。

 アコナの父トマシベが遣唐使に選ばれたという知らせだった。

 海から離れた山林の集落である都万目だが、本府などの海沿いの集落とはすぐに行き来できる距離。アコナの家は村のどの家よりも海との繋がりが強かった。それもこれもアコナの父トマシベが海の男だったから。

 トマシベは、国司様に命ぜられてこの村に来るまでは本府に住み海の男として生きてきた過去があり、都万目に移り住んでからも、隠岐に来る国司を出雲に出迎えに行くのも、隠岐を発つ国司を出雲まで見送るのもトマシベの役目であったほどだった。

 冬の荒れる海でもトマシベの操る船は出雲と隠岐を自由自在に航海したことから、トマシベが船乗りのスペシャリストと評価され、遣唐使の船を操るお役人様に選ばれた。

 遣唐使となれば出世が待っているし、唐の珍しいものを持ってきて大金持ちにもなれる。トマシベはそれが自分を、家族を、そして隠岐を豊かにすることだと考え、息子たちを連れて隠岐を発った。

 それが最後だった。

 隠岐に届いたのは船が沈んだという知らせ。

 「船乗り一家とお公家さん、いくら同じ舟に乗りようと、知り合いと言えるかわかんねぇわりすぅ。」

 「向こうは知り合いと言うてると。で、隠岐に行くならトマシベさんの生まれ育った村にしてくれと、そう言うたんですわい。」

 「物好きだわりすぅ。」

 「物好きだろうが何だろうが、お公家さんがこの村に来て、それもトマシベさんの知り合いなんだから、これはアコナちゃんにも言わないわけにはいかないわい。」

 「ま、わかった。わかったが、あたいに話したとしてどうなる。まさかあたいの家に住まわせようというわけではなかろ。」

 「いや、それを考えておうた。」

 「へ……」

 アコナはしばらく固まった。村長が何を言っているかわからなくなり、理解できるまで時間がかかった。

 「ふざけるのもたいがいにしぃ。この家のどこにお公家さんを住まわす余裕があると。」

 「この大きさの家で一人暮らしはアコナちゃんだけぞ。それに、トマシベさんのこともある。今の都万目の村に新しく家を建てる余裕はない。」

 「住まわすとして、食い物はどうするね。あたい一人でも食うに困うちょるに、お公家さん住まわせて食わせるなんてできるわけないわりすぅ。」

 「それなら心配ない。お公家さんの食い物は国司様が用意してくれるわい。」

 「コメか! コメくれるのか!」

 「それは掛け合うてみんとわからんが、おそらく、コメはくれるだろうと。」

 「わかった。あたいに任せとき。お公家さんの十人や二十人は住まわせたるわりすぅ。」

 「いや、お公家さんは一人ぞ。」


 「間もなく隠岐です。」

 「そうですか。ありがとうございます。」

 出雲を発って隠岐へと向かう船の上、その貴族は船首に座ってこれから自分が住むことになる島影を眺めていた。

 「あと、何か都に伝える手紙などあれば今のうちにお願いいたします。上陸してからは色々と手続きもあってそれどころではないでしょうから。」

 「ですね。」

 貴族は近づく島影を眺めながら、短冊に和歌を書き記した。

 自分の思いをそのまま散文で書くという概念はこの時代存在しなかった。文章の順位のトップは漢詩、次に詩ではない漢文が来て、万葉仮名を使った和歌が最下位に来る。ひらがなやカタカナはこの時代まだなく、日本語の音に合わせた表記となると万葉仮名となるが、万葉仮名を使って散文で自分の思いのままの文章を文字に記すということはまだ誰もしていない。

 自分の思いを漢文に頼らず記す手段となると、最も一般的なのは和歌だった。ただ、和歌は貴族も庶民も関係なく誰もが誰もが作ることで、和歌が貴族の教養とは見なされず、一段下の存在とされていた。

 『思ひきや鄙のわかれにおとろへて海人(あま)のなはたきいさりせむとは(古今九六一)』

 貴族はこの和歌を書いて船員に手渡した。

 「これを左大臣にお渡しください。」

 「緒嗣殿ですか?」

 「あいつ以外の誰に渡せと言うのですか。」

 和歌の意味するところはこうである。

 『思ったであろうか。都から離れた田舎の地に遠く隔てられ、落ちぶれて、海に生きる人たちとともに縄を手繰って漁をする暮らしになるとは』

 これを見た船員は、いささかの皮肉を感じた。

 「これを受け取ったらどう思いますかね?」

 「何か思ったところでどうもできませんよ。」

 下位の貴族から上位の貴族に文書を送るのは漢文と決まっているこの時代、それが、いかに自分の思いを率直にしたためた文であろうと、和歌を書いて送るというのはかなり失礼なことにあたる。

 しかも、一般公開した上での送付である。教養の有無に関係なく誰もが読みとれる文面。その中身は悲しく、一見すれば追放の嘆きを権力者に訴える内容である。だが、その手段は普通ではない。

 誰もが涙とともに見送った貴族の追放。それに悲劇を上乗せして民衆の支持を集めるのに、一般庶民でも読める内容の文とするのは有効な手段だった。

 文面は穏やかだが、この和歌には、自分を追放した左大臣が市民感情とかけ離れた独裁者であり、民衆は左大臣を味方していないと訴える効果があった。


 アコナの家に貴族が来るという知らせを聞いてからしばらくして、本府の港に隠岐で最大の船が着いた。舟から降りてくるほとんどの人は見慣れた隠岐の人たちだが、中にはいかにもお役人といった格好の人たちもいた。その人たちの中の誰かが貴族らしいことはわかったが、誰が貴族なのかアコナにはわからなかった。

 貴族がやってくるという噂も、都万目の村のアコナがその貴族を住まわせるという話も、本府の港にはとっくに広まっていた。

 「コーメ、コーメ、コーメ、コーメ……」

 「アコナちゃん、なんだいそりゃ。」

 「知らんのけ? お公家さんと住むとコメが貰えるわな。だから待っちょるわりすぅ。」

 「あのねぇ、都万目の村長さんが何言うたか知らんども、お公家さんがオイラたちみたいな家に住むと思うと?」

 「お公家さんは父ちゃんと知り合いぞ。」

 「それは聞いちょる。でもねぇ、普通、国司様が家とか用意するものぞ。お公家さんだわれ。」

 「そうそう。だいたい国司様、こないだ家建てる人集めとったぞ。」

 「そ、そな、コメは! あたいのコメ!」

 「貰えないわな。だいたい、お公家さんのコメでアコナちゃんのコメではなぁと。」

 「がーん。……、コ、コメが、あたいのコメが……」

 「だからアコナちゃんのではなぁと。」

 「こうなったら責任とってもらうわな。」

 「アコナちゃん、何する気だ?」

 アコナは人垣から飛び出して、船の荷降ろしの場に飛び込んでいった。


 「な、なんだい、お嬢ちゃん。」

 「コメ、コメはどこ?」

 「はい?」

 アコナは荷降ろしの場にいる、飛び抜けて背の高い男に話しかけた。見たことのない顔だが、いかにも普通の船乗りの格好をしている。おそらくこの舟でやってきた船乗りの一人だろうとアコナは考えた。

 「コメ……、じゃなかった、お公家さんはどこぞ。」

 「お公家さんですか。お公家さんかどうかはわかりませんが、この島に流されてきた男なら、二番目にこの船を降りて……」

 「降りてどこか行っただな。」

 「それから国司様とお話しして……」

 「国司様か。国司様はどこぞ。」

 「それから自分の荷を降ろして……」

 「船に戻っただか。」

 「あれこれと動き回って……」

 「落ち着きないね。」

 「そうしてあれこれしたあと今ここにいる私がそうです。」

 「……」

 「……」

 「ウソこくでねぇ! お公家さんはもっときらびやかな格好しちょるものだわりすぅ。」

 「ですから、元貴族で、今は貴族をクビになった身なのです。」


 背の高い男はアコナを無視するように国司様の元へ向かって歩きだした。

 アコナはその足取りについていき、時に前に立ちふさがった。

 「私に何の用ですか。」

 「お前さがウチに来るぅ言うから用意してたんに、来んとはどういうことけ。」

 「何を言ってるのかわかりません。」

 「お前さ、父ちゃんと知り合いやわりすぅ。」

 その貴族は、隠岐の言葉で話すアコナの話の内容を理解するのに少し時間が掛かった。

 「お嬢さんのお父さんと私が知り合い、と、そういうことですね。失礼ですが、お名前は。」

 「何言うとるだわね。おなごの名ぁ聞くぅちゅうは、お前さ、あたいを嫁にするってことだわりすぅ。でもまあ、お公家様の奥方、ええ響きだわねぇ。」

 「私が聞いているのはお嬢さんのお父上のお名前です。」

 「父ちゃんを嫁にするだか! 父ちゃんは男ぞ! それにもう父ちゃんは死んじょるわりすぅ。」

 「そうではありません。私が知り合いだと言い、あなたのような大きな娘さんを父とする……」

 その貴族は背の高さがどう見ても六尺(約一八〇センチ)を超えている。必然的にアコナを見るのは見下ろす格好となるのだが、アコナへの視線が、顔だけではなく、その下にまで向かってしまう。

 「大きいは、あたいの乳だかぁ? さっきからジロジロ見て、いやらしいわりすぅ。」

 アコナは自分の胸を隠すような仕草をした。

 「見てはおりません。」

 「嘘こくでねぇ。お前さ、さっきからあたいの乳、上から覗いて見ちょるわりすぅ。あたい、傷モノにされたわな。」

 「人聞きの悪いことを言わないでください。私にはこの島出身の知り合いが何人かはいますが、その中で、お嬢さんのような大きな……」

 「大きな?」

 「だから胸を見ない。いいですか、お嬢さんぐらいの年齢の娘さんをお持ちの方はお一人しか知りません。あなたはその方なのかを知りたいのです。もう一度聞きます。あなたのお父様のお名前は。」

 「トマシベだわな。だども、都じゃ字ぃで名ぁ呼ぶんなら、トマシベ名乗っちょらんかもしれんわな。」

 「いや、トマシベ殿なら知っております。そうですか、あなたですか。」

 「父ちゃん知りちょると! ほな、父ちゃんの最期がどないか、教えとくれだわ……」

 とアコナが言ったところで、貴族の足取りは停まった。

 目の前には国司様がいる。


 貴族が国司様の元に歩み寄ると、アコナは兵士たちに止められた。

 「アコナちゃん、ここから先はだめぞ。」

 兵士たちもさほど高圧的ではなく、知り合いの子をなだめる大人といった感じだった。

 「ほだとも、あたいのコメ、じゃない、一緒に暮らす相手が行っちょるきに、行かなならんわりすぅ。」

 「だめだめ。」

 アコナは貴族が国衙に入っていくのを、抵抗はしながらも見守るしかできなかった。

 「アコナちゃん、いくら何でもお公家様と一緒に暮らすぅは無理ぞ。」

 国衙の正門前に座り込んだアコナに、兵士の一人が語りかけた。

 「お公家様が来るぅて村長さん言うてたわな。」

 「それはオイラも聞いちょるわな。最初は都万目の村でお公家さん住まわすぞと。だども、都万目の村はお公家様が暮らせるほど豊かでないわな。お公家様住まわせたら、お公家様食べさすぅにコメがいるで、都万目の村の人がみんなもっと苦しい暮らしになるわな。」

 「コメは国司様がくれる言うてたわりすぅ。」

 「お公家様の家建てるにたくさんの人が働いたぞ。漁を休んだ者もおるし、田畑耕すの休んだ者もおるぞ。アコナちゃんの家に住んだら、みんなの苦労が無駄になるぞね。」

 「……」

 それを聞いてアコナはしばらく黙った。

 「だべな。みんな何も言わんとおるが、今日のあたい、ワガママすぎるわりすぅ。」

 「気にせんでようよ。トマシベさんのことがあるし、みんなアコナちゃんのことわかっとるだわな。アコナちゃんのこと悪ぅ言うのなんかおらんわい。」

 「だども、せめて父ちゃんや兄ちゃんや弟の最期がどうだったかぐらいは聞くぐらいさせてくれだわな。海に沈んだとしか聞いちょらんわりすぅ。」

 「……、わかった。中に入れるわけにはいかんけども、ここで待つはええ。」

 「ありがとな。」

 それからアコナは国衙の前で貴族が出てくるのを待ち続けた。


 国衙に入った貴族はなかなか出てこなかった。

 「アコナちゃん、もう帰らんと、都万目の村に着く前に日が沈むわな。」

 「だな。」

 いくら慣れた道でも暗闇の中で歩けるほどではない。ましてや普段の市のときは村人が何人かで群を組んで本府に向かうが、今は女一人。無事に都万目の村に帰るには、そろそろ国衙を発たないと危ない。

 身の危険を考えたアコナは国衙の前を立ち去り、都万目の村とは逆方向の、本府の市に向かった。

 「都万目の者はおらんかね。」

 アコナは安全を考えて、誰か村人が市に残っていないか探し、残っていれば一緒に村まで行ってくれないか頼もうとした。

 「都万目の者はおらんわな。」

 「もうみんな帰っちょっとよ。」

 市の人は誰もが同じ回答だった。

 「よければウチに泊まるけ。」

 そう言ってくれる人もいたが、アコナは断った。

 厳密に言えば、鼻の下を延ばしてアコナに言っている夫の隣りで、これ以上なく恐ろしい表情をしている妻という光景では、アコナがこの夫婦の家に泊まるなどあり得なかった。

 「ほな、一人で帰るだか。まだ日は暮れんとね。」

 「そ、そだな。それがええ。」

 アコナは背後から壮絶な夫婦ゲンカの言葉が飛び交うのを聞きながら市を去った。

 本府から都万目まで山林の中を歩く道になる。いくら太陽がまだ天にあるとは言え、女性が一人で歩くのは不安に感じる。この間も海賊が森の中に逃げ込んだという話を聞いたし、イノシシが出没し大けがを負った人もいるという話も聞いている。どれも自分で体験したことではないが、それで今日も安全だという保証はどこにもない。

 「参ったわりすぅ。」

 アコナは物音一つしない道の中で一人つぶやいた。

 そして、そこらに落ちてた木の棒を手にし、いざというときの身を守る武器として持ち歩くこととした。

 そして、その棒を振り回しながら歩くことにした。

 「あたいはトマシベの子ぞ! 何かあったらトマシベに呪い殺されるわな!」

 傍目にはアコナのほうが怪しい人物に見えるが、どうせ誰も見ていないだろうし、この道を一人で歩くのはこのほうが正解だとアコナも考えた。

 ところが、道も半ばに来た頃、アコナは信じられない光景を目の当たりにした。


 道に放置された、男二人、女一人の死体があった。

 三人とも今朝一緒に本府まで来た同じ村の仲間だった。

 そして、女の死体をレイプする裸の男がいた。

 裸の男はアコナを見たとたん、行為をやめ、包丁のような小刀を持ってアコナに襲いかかってきた。

 白髪交じりのはげ上がった頭にシワだらけの顔は五〇代とも六〇代とも思えたが、いくら高齢でもアコナが戦って勝てる相手とも思えなかった。

 何より、目つきが異常だった。

 「な、なな……」

 アコナは一瞬状況が掴めず立ちすくみ、それから後ずさりし、今まで来た道を逆に走り出した。

 「い、いや。」

 「△☆□◇!」

 男は何と言っているかわからず、怒鳴りながらアコナに走り寄ってきた。

 完全に男はアコナをターゲットに追いかけ回していた。

 「父ちゃーーーん、助けてーーー!」

 男は刀を振り回しながらアコナを追いかけてきた。

 男の足のほうがアコナより早く、アコナは髪をつかまれ引きずり倒された。

 「いやーー、いやーーっ!」

 「△☆□◇!」

 男は何語かわからぬ言葉でアコナ襲いかかり、左手に持った刀をアコナの喉元に突きつけつつ、右手で服を引きちぎりだした。

 アコナは持っていた棒を振り回して抵抗した。

 アコナの反撃は何度と男の腕や足に当たり、最後に男の頭に当たって大きな音がし、棒が真っ二つに折れた。

 アコナは真っ二つに折れて先端が尖るようなった棒を相手の胸に突き刺した。

 「ぐぁっ!」

 アコナの服に返り血が飛び、男は思わぬ反撃にうろたえた。

 男がひるんだ隙を見て、アコナは再び逃げ出した。

 引き裂かれたせいで胸元が顕わになりそうになり、アコナは手で胸を押さえて走った。

 男はどうやらこっちに向かってきているようだったが、ダメージが大きいせいかヨタヨタとした動きであった。

 走って、走り続けて、アコナの目に本府の港町の入り口にある国分寺が見えてきた。

 「和尚さん、助けてーー!」

 そう言いながら、アコナは国分寺に逃げ込んだ。


 国分寺の僧たちは、服に血がこびりつき、服が乱れ胸を必死に隠しているアコナの様子を見てただならないことが起きたと考え、アコナから何が起こったのかを聞き出すと同時に、僧の何名かを都万目の村までの道中に派遣した。

 アコナは恐怖のあまり声にならなかったが、それでも、刃物を持った不審者が出没したこと、すでに村人が三人殺されたこと、自分も不審者に襲われそうになり必死に抵抗して逃げ出してきたこと、その不審者の喋っている言葉が何なのか理解できなかったことは聞き出せた。

 僧の一人は、国衙に報告するために本府に向かった。

 和尚は、男性に襲われそうになって恐ろしい目にあった以上、アコナを男性ばかりのここに留め置くわけにはいかないと考え、近くの国分尼寺に迎えの人を寄越すよう使者を派遣した。アコナを女性しかいない国分尼寺にかくまわせるためである。

 この三つの使者のうち、いちばん最初にやってきたのは、全身血だらけになった不審者を連れてきた僧たちであった。

 かなり暴れていたらしく、僧の一人も額に傷を負っている。それでも三人がかりで押さえつけながらここまで連行することに成功し、国分寺に着いてすぐに縄で縛られ庭に横にされた。

 その間も男は何かわめき続けていた。

 次にやってきたのが国衙の兵士と役人、そして、ついさっき港で会った貴族だった。

 貴族は横たわった不審者に何やら話し出した。

 どうやら、その貴族は不審者の言葉がわかるらしい。

 「海賊です。」

 貴族はまずこう言った。

 「海の向こうに帰るすべを失い、森で仲間と生きていたが食料の蓄えも少なくなったので食料を恵んで貰おうとしたそうです。」

 「そんなことないわな。三人も殺されちょるし、あたいは襲われたんだわりすぅ。」

 「それについては何も言ってません。ですが、今のお嬢さんの格好を見れば、そして、死者が生じていることと、取り押さえたときの抵抗を聞けば、本当は何があったのかわかります。それに、私はこの人の言葉をかなり優しい言葉で言い直しているのです。直訳してしまいますと、女性がいるような場で口にするような代物ではなくなってしまいますから。和尚さま、一つ頼みがあるのですがよろしいでしょうか。」

 「俗世にまみれた愚僧でよろしければ。」

 「この者の治療を。」

 「ん?」

 「傷は浅いですが、このまま放置しては命に関わります。外国(とつくに)の海賊であろうと、命は命。それに、まだまだ聞き出さなければならないことも多いです。それから、国司様にご連絡願いたいのですが、トマシベ殿のお嬢さんをどこか安全な場で一晩過ごさせてください。今から村へ返すわけにはいかぬでしょうから。」

 「それなら平気だ。あたい、国分尼寺に泊めてもらうから。」

 「そうですか。そこであれば問題ないでしょう。」


 噂だった海賊の一人が捕まって国衙に連れていかれたという話、そして、何人か死者が出たという話、被害にあったのが都万目の村の者達で、トマシベの娘だけが何とか逃げ延びたという話は、翌日にはもう本府に広まっていた。

 「泊めていただいた上に、服までくれて、ありがとうごぜぇますだ。」

 アコナは頭を下げて礼を述べた。

 今のアコナが着ている淡い赤の服はこの尼僧が用意してくれたものだった。市が閉じた後で急遽用意したのは大変だったろう。

 着るものもまともになく、家でも外でも常に一張羅でいるアコナにとって、新しい服はありがたいプレゼントだった。

 「ほな、本府のお役人様のところぉ行ってきます。」

 市が開かれていない日なので本府の港町も閑散としているが、それでも港町には山道とは比べようもない安全さがあった。

 本音を言えば昨日の恐怖はまだ残っている。

 それでもアコナは昨日の辛い思い出を懸命に封印し、新しい服を着ている自分のことを考えることにした。

 「ええべ。新しい服だわりすぅ。」

 「だな。オイラもかぁちゃんに買うてやりたいわな。」

 国衙に着いたアコナのことを、門を守る兵士は知っている。何があったのかも知っているし、アコナがなぜここに来たのかも知っている。ただ、それは言わない。

 アコナはそのため、昨日と違い門で停められることなく中に入っていけた。

 ただし、一人で勝手に動き回るわけにはいかず、アコナを迎えに来た役人とともに移動となる。彼はかつてトマシベの部下だったらしく、その娘を迎えることに終始恐縮した様子だった。

 「大きな屋敷だわりすぅ。」

 この島で一番大きな建物に入るのはこれで二度目。一度目は父の死を聞いたとき。そのときは建物がどうとかという感情の余裕など無かった。

 今は前回のときよりは余裕がある。無論平然としてはいないのだが、それでも平然を装う余裕ならある。

 「これならたくさんの人が住めるわりすぅ。」

 「ここに住んぢょるは国司様だけだわな。」

 「ここに一人で住んぢょると? ほなここで働いちょる人はどうしちょるね。」

 「本府の港町にみな住んぢょるわな。アコナさんも小さいときはそうだったわな。覚えちょらんと?」

 「覚えちょらんわりすぅ。だども、昔、本府に住んぢょったような気はするわな。」

 「トマシベ殿の家はオイラの家の近くだったわな。アコナさんのお兄さんとよく一緒に遊んぢょって、アコナさんが生まれたときのことも覚えとるだよ。それがこんなきれいなおなごになるとは、もったいないことしたわな。オイラ、もう母ちゃんも子どももおるけど、独り身なら夫婦(めおと)になってくれと頼んだわな。」

 「あたいはもう諦めちょるわりすぅ。」

 「なして?」

 「あたいを嫁にするとつらかとよ。」

 アコナの言葉は自嘲気味であった。


 アコナは建物の一番北の部屋に案内された。

 「こちらで、皆様お待ちです。」

 「国司様がおるとね?」

 戸を守る兵士が戸を開け、アコナは国司の執務室に通された。

 中には国司と国衙の主立った役人、そして、昨日の貴族、厳密に言えば元貴族がいた。

 話し言葉がこの島のものではなく、見る感じ上流階級の雰囲気もする。だから、もしここにいる他の者と同じ服装をしていたら、誰もが彼のことを元貴族ではなく現役の貴族と思うだろう。

 だが、その元貴族の今の格好は、隠岐と出雲とを結ぶ舟の船乗りの格好。この格好では背の高い一庶民にしか見えないし、昨日のアコナはそう思って話しかけた。

 「まずはそこにお座りなさい。」

 国司や役人達に囲まれるように、アコナは部屋の中央に座らされた。板張りの床は冷たかったが、ここにいる全員が同じように座っている以上、何の文句も言えなかった。

 アコナは緊張していた。

 ここにいるのは島の偉い人たちばかり。そんな中、一庶民でしかない自分がここにいることなど普通では許されないことだった。

 アコナは役人の娘、それも遣唐使にまでなった男の娘だから、全くの庶民ではない。それでも、父を失った後のアコナは島でも有数の貧困者となってしまっていて、恐れどころか哀れみをかけられる対象になっている。

 この人たちとは身分が違いすぎるのだ。

 「まずは昨日のことを訊かにゃならん。」

 緊張しているアコナに向かって、国司はまずそう語りだした。


 とはいえ訊かれた内容は昨日国分寺で訊かれたのと大差なかった。

 どこで海賊が現れたのか。

 海賊の格好はどうだったか。

 海賊は何と言ったか。

 これに対するアコナの回答も昨日の国分寺と同じだった。

 海賊が現れた場所、都万目の村への途中の山中。

 海賊の格好、裸で包丁のような小刀を持っていた。

 海賊が言ったこと、日本語じゃないので何と言ったかアコナにはわからない。

 明らかに緊張を隠せぬたどたどしい口調だったが、誰もがアコナの言葉を真剣に聞いていた。

 そして、アコナの尋問が終わると、アコナをそのままにして討論が始まった。

 アコナは国司たちの繰り広げる討論がさほど理解できなかった。理解できたのは、ここにいる元貴族の名前が「タカムラ」だということだけ。貴族だから名字はあるだろうが、その名字は最後までわからなかった。

 「山に潜んぢょる言うことは、山を通る道で、第二、第三の被害が生まれてもおかしくなぁ。」

 「兵を集めて山を徹底的に探すべきです。昨日捕らえた海賊は、自分を入れて仲間が五人いると言いました。五人なら今の隠岐で用意できる兵士でも向かい合えませぬか。」

 「兵を集めることはできようが、指揮する者がおらん。都から派遣してもらわな兵は動かせんとよ。」

 「私が指揮します。」

 「タカムラ殿が?」


 元貴族の名は「オノノタカムラ」といった。アコナにとって、生まれてはじめて実感する、名字を持った人間だった。

 世の中には名字というものを持つ者がいるというのはアコナも知識としてなら知っている。そして、名字を持つのは偉い人で、持たない自分は偉くない人だとも知っている。さっきまでの討論で自分一人浮いているように感じたのも、ただ一人の女だからというよりもむしろ、自分一人が名字を持たない、つまり、偉くない一般庶民だからということに尽きる。

 とは言うものの、アコナにも名字がないわけではない。亡き父は役人であったのだから名字を持っていたはずなのだが、普段の生活では使わなかったので、アコナは自分の名字が何なのか知らないだけ。

 それに、アコナはこれまで人の名前を名字で呼んだことがない。名字があるような知り合いなどいないし、実は名字を持っている人であっても、隠岐の島でそれを使う局面など滅多にない。

 だから、自分の隣りを歩く人物が、名字を持ち、名字を名乗っている人物ということだけでもアコナにとっては新鮮な感覚だった。

 タカムラは、国衙に務める兵士から五名、港を守る兵士から五名、そして、コメを褒賞としたところ農閑期だからと集った、本職が農民である志願兵二〇名、合計三〇名を集めて、まずは都万目の村に行くこととした。

 都万目の村は島のだいたい中央にあるので、そこを拠点とすればどこに行くにも短時間で行けるというのが島民共通の認識だった。

 「国分寺ぃ過ぎると、家が無うなりますわな。」

 アコナはその案内役になった。いくら屈強の兵士でも見知らぬ土地は分が悪いが、十年以上この道を行き来しているアコナと一緒なら話は別。万が一襲撃を受けたとしても右往左往することなく対処できる。

 それでも、道の途中、昨日の惨劇のあった場に来ると、ここにいる誰もが動揺を示した。

 遺体は埋葬されたか運ばれたかして、もうここにはいない。

 それでも血の跡は残っていた。

 「ここで道が分かれるで、左行くと都万目の村ですわりすぅ。」

 アコナはそう言って動揺を隠そうとした。

 「あとどれくらいだわぁ?」

 「日が沈む前には着くだわりすぅ。」

 「だか。」

 無理して明るく振る舞おうとしているアコナの姿はかえって痛々しく感じた。


 兵士たちは各自の荷物を背負い、手にも荷を持って歩いている。

 「あたいも持つだわりすぅ。」

 アコナはいちばん大きな荷物を持っている兵士に話しかけ、その荷を持とうとした。彼は本職の兵士ではなく農民だが、その立派な体格は他の兵士と見劣りしなかった。

 「えぇて。オイラは運ぶが仕事ぞ。お嬢ちゃんは道案内してくれりゃあえぇ。」

 「重かと。」

 「お嬢さん、あなたに持てる重さではありませんよ。」

 タカムラは自分が右手で持っていた袋をアコナに手渡した。

 「重っ!」

 アコナは両手でも持ち上がらない重さであることを知った。

 「何が入ってると!」

 「コメです。」

 「コメ!」

 タカムラのその言葉を聞いて、アコナだけでなく、兵士たちも顔がにやけた。

 「コメかぁ。ええなぁ。コメなぁ。」

 「コメの飯、食えるだわな。」

 「今日はコメが食えるだわりすぅ。」

 兵士たちはともかく、アコナの喜びように、自分達の運んでいるコメは戦いのための食料であって、アコナに分ける余裕はないことを伝える勇気のある者はいなかった。

 「あたい、もう二年コメ食べちょらんわな。」

 「オイラは三年だわな。」

 本職が農民の兵士たちは誰もが似たようなもので、一人だけ秋に一年ぶりに食べたのがいただけだった。

 「あんたはどんだけ食べちょらんと。」

 アコナは国衙の兵士に訊ねた。

 「コメはたまに食べちょると。国司様がコメくれるだね。」

 「兵(つわもの)ならコメくれるんか?」

 「くれる、くれる。毎日コメ食えるほどじゃなぁが、月に一度や二度ならコメ食えるわな。」

 「ほ、ほな、兵になるにはどうすりゃよいわりすぅ。」

 アコナは真剣な表情だった。

 「おなごはなれん。」

 「……」

 簡単な回答にアコナは黙り込んだ。


 都万目の村に着いたとき、村は神妙な雰囲気だった。

 三人の村人が殺され、うち一人は殺されたあとで山賊に犯された。

 恐れていた山賊が現実のものとなったのだ。

 情報として、アコナが逃げのび、そのおかげで山賊が一人逮捕されたことは知っている。

 だが、そのアコナが三〇名もの兵士達と一緒に帰ってきたことは驚きをもって迎えられた。

 「何があったと!」

 その異様な雰囲気にたじろいだ村長は、まずアコナに駆け寄って話しかけた。

 アコナに代わってタカムラが村長と話をした。

 「海賊を退治しにきました。」

 「おお!」

 タカムラの言葉を聞いた村人達から歓声がわいた。

 それからタカムラは、自分が何者で、どうして兵を率いて都万目の村に着たのかを説明した。

 アコナをはじめとする村の女性達は、少し離れたところでその光景を眺めていた。

 「無事だったんね。」

 二人の子供の手をしっかり握りながら、トシメはアコナに話しかけた。

 「んだ。」

 「だども、この人たちは?」

 「海賊退治だわりすぅ。」

 「?」

 トシメは怪訝な顔をした。

 「どないしたと?」

 「なしてこんな山の中来たと。海賊は海だわな。」

 「海賊が山の中に逃げてきて山賊になったとね。」

 「ほか。……。ほな、山賊退治言うても、戦になるだか。」

 コクリ……

 アコナは黙ってうなずいた。

 「ほ、ほな、この村は……、この子らはどうなるわな!」

 「この方たちが守ってくれる。」


 山賊が出て村人が殺されたことと、山賊退治が早いうちにあることを知った村人は、誰もが恐怖の表情を示した。

 無理もない。山賊の噂は知っていたが、誰か犠牲にあった人がいるという話などついこの間までは無く、この村に住む者は誰もが、貧しいながらも平穏無事な暮らしを送っていたのだから。

 それなのに、その平穏無事を破る知らせが何の前触れもなく飛び込み、そして、つい昨日まで一緒に暮らしていた村人が無惨な姿になって運ばれてきた。それは平穏無事が失われたと考えさせるに充分だった。

 ただし、嬉しい知らせもあった。都万目の村に集った兵士達はそれぞれの家に一人から二人ずつ分かれて宿泊したが、そのとき、各家にコメを分けたのである。

 アコナの家には、元々タカムラが住めるよう用意を調えていたこともあり、タカムラが泊まることとなった。

 「ここがあたいの家だわな。」

 「ほう、これはなかなか……」

 と言ったところでタカムラの言葉は停まった。

 貴族であったタカムラにとって、アコナの家は牢獄かと思わせる粗末な家に見えた。

 「どないしたと。」

 「いえ、女性の一人暮らしと聞いていたので、もう少し小さな家を考えたのです。」

 タカムラはそうごまかした。

 「昔はたくさん住んぢょったわな。だども、爺ちゃんも婆ちゃんも母ちゃんも死んで、父ちゃんも兄ちゃんも弟も死んで、あたい一人になったわりすぅ。」

 「……」

 「だから聞きたいわな。父ちゃんの最後。船が沈んだとしか聞いとらんと。」

 「そうですか。」


 「遣唐使は四つの船で唐に向かいます。私はをそのうちの第二船、隠岐から選ばれた遣唐使たちは全員第三船に乗りました。」

 タカムラはそのときの様子を語りだした。

 「博多を発ってすぐ、嵐が襲いました。船は大きく揺れ、それぞれの船が散り散りになりました。私が第三船を見たのはそれが最後です。」

 「うそこくでねぇ。父ちゃんの船が嵐に負けるわけないわな。」

 「隠岐と出雲を結ぶ船なら嵐に勝てますが、唐へ渡る船は豪華ですけど嵐には勝てないのです。お嬢さんは遣唐使船をご存じないのですか。」

 「聞いたことはあるが見たこたねぇ。」

 「とても大きい船です。国分寺のお堂より大きいです。」

 「なっ!」

 アコナの知っている船は大きくてもせいぜい三〇人程度が乗れる船で、家より大きな船という概念がなかった。

 というところで家の大きさどころか国分寺のお堂より大きな船だと聞いたのである。アコナの脳裏には想像を絶する光景が浮かんだ。

 「なんちゅう船だわりすぅ。」

 「それが遣唐使船です。大きすぎて、素晴らしい船乗りを集めても扱いきれない、そんな船です。」

 「何かあったと?」

 「優れた船乗りなら嵐を乗り越えることができますが、それは船を操れるときだけです。扱いきれない上に船がインチキなら、その船に乗っていた人の命はどうなるでしょう。」

 「……」

 アコナは黙り込んだ。

 それに合わせてタカムラも黙った。

 それからしばらくの沈黙があり、タカムラが口を開いた。

 「国に、死ねと命令されたのです。」

 「!」

 「遣唐使船は豪華で大きな船ですが、そんな船に乗ってはるか彼方の唐にまで行けと命令するのは、船に乗って死ねと命令するのと同じです。お嬢さんは、私が貴族をクビになった理由、聞いていますか?」

 「噂じゃ聞いちょるが、詳しくは知らんわな。」

 「死にたくないから逃げたのです。遣唐使船を無断で降りて、唐に行かなかったから捕まって、貴族をクビになった。私だけではありません。逃げた者はたくさんいます。」

 「ほな、父ちゃんは逃げなかったと?」

 「逃げられなかったのです。『この船では沈む』と隠岐からの遣唐使たちは皆言いました。でも、船乗りとして呼ばれた者は無理矢理船に乗せられ、出航させられた。そして、嵐に遭った……。私は、彼らを救えなかった……」

 アコナは涙でタカムラの話をまともに聞くなどできなかった。

 タカムラはアコナをそっと抱き寄せ、そのままにさせた。

 タカムラの目にも涙がたまっていた。


 翌朝、都万目の村の何人かが、武器を持ってタカムラの軍勢に加わった。その中では、息子夫婦を殺された怒りを示し続けた老人がもっとも鼻息を荒げていた。

 都万目の村を基地にすることを考えたタカムラであったが、この村は位置的には便利でも、戦の基地とするには民間人が多すぎる。戦に協力してくれるメリットより、負担になるデメリットのほうが多いと考え、基地を築かず、直接山に乗り込むことを考えた。

 これから山賊の本拠とされる山へ向かう。寒い冬山に出向くだけでなく、帰ってくるのはいつになるかわからない。二日や三日で終わる確証などなく、今は農閑期だからいいとしても、帰る時期によっては農繁期を迎えているかも知れない。

 それでも、都万目の村の者は手製の武器を手に軍勢に加わった。無惨な殺され方は彼らに怒りを呼び起こし、軍勢に参加すると決意するのに充分な理由だった。

 「それでは、行って参ります。」

 「ご無事で……」

 村の入り口までアコナは出迎え、軍勢が視界から消えるまでアコナは佇んでいた。

 「行ってもうたわな。」

 「すぐ帰ってくるわりすぅ。」

 トシメはアコナにそう声を掛けた。

 トシメの夫も軍勢に参加しているが、それでも何事もないかのように振る舞っている。

 ただ、本心ではないだろう。トシメは明らかに動揺している。

 夫を心配しないわけがない。アコナはそう悟った。

 「さて、帰ってきたらうまいもの食わせてやるわな。」

 「あのお公家さんにけ?」

 「な、なに言うちょるわな。みんなにだわりすぅ。」

 「だども、アコナちゃん、あのお公家さんのことじっと見てたわな。昨日何があったか気づいちょらんと思うちょるとね?」

 「し、知っちょると?」

 「知るとか知らんとかより前に、アコナちゃん、昨日とだいぶ雰囲気が違うとね。抱かれた女は誰もがそうなるちょよ。」

 「トシメちゃん、そういうことはお天道様の下で言うことではないわりすぅ。」

 「アコナちゃんは独り身ぞ。誰かの嫁でもおかしくない歳の独り身のおなごが、自宅に招いた男と何しようと気にすることなぁ。」

 トシメにそう言われたアコナは顔を真っ赤にしていた。


 都万目の村を発った軍勢の情報が入ってくるのに三日かかった。

 本府へと向かう途中この村に寄った隣の村の若者三名が伝えたその情報は、自分たちの村に軍勢が着いたことと、さらに軍勢を集めたおかげで五〇名にまで規模が増えたことの二つの情報だけで、山賊征伐の情報はなかった。

 「戦にはまだなっちょらんね。」

 「早う終われば良いわな。」

 トシメの言葉はこの村の多くの者の感情だった。

 山賊がいなくなることは誰もが願っていた。しかし、そのために長い月日がかかること、そして犠牲が生じることは受け入れがたいことだった。

 「オイラたちも本府へ向かうから、本府に行くのがいればともに行くわな。」

 「市が開かれると? 今日は市の日ではなかね。」

 「本府で人集めちょるんよ。兵になりゃコメくれると。」

 「それはあかんわな。あたいはおなごだわりすぅ。」

 「だべな。」

 アコナは軽い感じで返答したが、これが彼らを見た最後になるとは思わなかった。

 村を出て本府に向かった彼らの変わり果てた姿を伝えたのは、この翌日、本府から送り込まれた軍勢の第二陣たちであった。

 戸板に乗せられて都万目の村まで運び込まれたのは、つい昨日、都万目の村を発った三名の若者の遺体、そして、縄で縛られた、見たことのない薄汚れた男だった。

 四人とも深い傷を負っており、三名は無惨な殺され方をしたことが見てとれた。

 「山賊の一人ぞ。」

 軍勢の指揮をとっている兵士は村人たちにそう告げた。

 村人たちは、つい昨日までなごやかに話をしていた若者達の変わり果てた姿にさらなる怒りを感じ、はじめて見る山賊に不快感を抱いた。

 誰が最初に投げたのかわからない。しかし、気づいたときには石の雨が村人から飛び、山賊に降りかかっていた。

 アコナは生まれてはじめて、人が人の手によって死んでいく光景を目の当たりにした。

 トシメは自分の子供達を抱きしめ、その光景を見せないようにした。

 石の雨で始まった暴行は、棒での殴打に発展し、最後には血の海が生じて終わった。

 この瞬間、村の誰もが、ついこの間までの貧しくとも平和な暮らしに戻れなくなったことを悟った。

 山賊が五人だという話はあった。

 一人が捕まり一人が死んだから残るは三人のはず。

 それでも、安心はできなかった。

 都万目の村から外に出る者はいなくなり、本府で市が開かれるときも都万目の村からは誰も足を運ばなくなった。

 いや、それは都万目の村だけじゃない。都万目の村より北の村も静まり返ったのか、これまでは本府に行くときは都万目の村を通っていたのに、今は誰も都万目の村に来なくなった。


 そうして二〇日が過ぎたある日、次の情報がもたらされた。

 「新しい海賊が来た!」

 久しぶりの村の来訪者は本府から派遣された役人だった。

 普通であれば本府の役人を歓待すべきところであるが、悲壮感を漂わせた彼を見て、誰もが何か大きな事があったと考え、誰もが歓待など考えなくなった。

 彼の口から聞かされた内容はこうだった。

 残り三名となった海賊は、一人は捕まったものの残る二人は未だに捕まっておらず、また、おそらく殺されたと思われる島民の遺体が四体見つかったこと。

 そして、新しい海賊が五〇名ほど押し寄せ、海沿いの村が一つ焼け落ちたこと。

 その村の住人のうち脱出できたのはわずか七人。あとは殺されたか、拉致されたらしいこと。

 山賊退治のための軍勢は山ではなく海に向かい、今のこの時点も五〇人の海賊と激しい戦闘が繰り返されており、亡くなった者も出たこと。

 そのため、山に逃げ込んだ海賊は今もなお健在であること。

 「ほ、ほな、あたいの人は。」

 トシメはすがるように訊ねた。

 「わからぬ。」

 役人はそう答えるしかできなかった。

 トシメは自分の夫が亡くなった者の中に含まれないと考えようとした。無論、それは理屈であって感情ではない。感情に従えば今すぐにでもタカムラの軍勢の元に向かって夫の無事を確かめたかった。ただ、海賊が山賊と化して島中をうろついている上に、もうすぐ三人目の子が産まれる身体でそれは無茶だった。

 「あたいが、確かめてくるわな。」

 アコナはそう声をかけた。

 そしてアコナは言った。

 誰かが行かなければ村人の無事を確かめられないが、それはとても危険なこと。

 誰かがそれをしなければならないなら自分がやる。家族のいない自分ならば、何があっても家族を失う悲しさだけはなくて済むから、と。

 「何を考えちょると! 戦の場に行けるわけなかね!」

 トシメは声を大にして言った。

 「あたいなら平気ぞ。」

 「だめだって!」


 アコナの言葉は瞬く間に村中に広まった。

 そして、決意は誉められたが、行動は村人全員が反対した。

 結果は、村長がアコナの家にやってきての直談判である。

 「何を考えちょるね。」

 「誰かの命がいるなら、あたいの命を差し出せばよいわりすぅ。」

 「無事かどうかを確かめることなど命掛けることではないわな。」

 「このまま何もせんと待ち続けるわけにはいかないわり。」

 「アコナちゃんが戦の場に出向いて、無事を確認して戻ってくるのは確実でなかね。今でも村人の帰りを待っちょるのに、その上アコナちゃんの無事も待たにゃならん。都万目の村の心配を増やすはおかしなことぞ。」

 議論は平行線をたどっていた。

 説得に来たときはまだ太陽も高かったのに、いつしか夕方を迎えていた。

 本来なら夕方を迎えたことも議論を止める要素にはならないはずだったが、議論は突然停められた。

 「村長さん! 帰ってきた!」

 アコナの家に村人の一人が走ってきて、軍勢に参加した者の中から三人が都万目の村にきたという知らせを伝えてきた。

 戦場から戻ってきたのは三人いて、うち一人が都万目の村から出向いた者。彼を含むこの三人はいったん都万目の村に立ち寄るだけで、このあとは夜を徹して本府に向かう予定だという。そのため長居はできないで村を去ったが、それでも戦の最新情報を聞き入れることには成功した。

 その日の夜、村長から戦の最新情報が村人に伝えられた。

 海賊は総勢五〇名以上。

 その大部分を捕らえることに成功し、多くの船を沈め、拉致された者の多くを奪い返したこと。

 山に潜んでいるとされた三人のうち二人を捕らえたこと。前は残り二人という情報だったから、その間にさらに一人が捕まったこととなる。

 しかし、こちらの犠牲者も出たこと。

 そして、その犠牲者が誰であるかも判明した。

 その中にはトシメの夫が含まれていた。

 「ウソだウソだウソだウソだ!」

 それを聞いたトシメは夫の死を信じようせず、村長にくってかかろうとした。

 「まだ話を聞いただけで、亡くなったと決まったわけではないわな。」

 村長はそう言ったが、ここにいる誰もが高い確率でトシメの夫が亡くなったと考えた。

 話が終わってもトシメはなかなか動こうとせず、村人達に促されてようやく家路についた。

 トシメの家からは、泣き叫ぶ母と二人の子の声が夜通し聞こえた。