応天門燃ゆ 外伝 山崎の踊り娘(下)
河陽離宮の建設工事は九割ほど完成していて、国府の一部の業務は既にこの場で稼働していた。
軽食を終えた二人は工事中の国府の中に入っていった。
家出同然で都を発ったとは言え、本物の家出ではない以上、貴族の家の者として滞在先を明確にする必要がある。
貴族やその家族が都を発つとき、行き先が五畿のどこかであるならば許可なく出発することは許されるがどこに滞在しているかの報告が必要となり、五畿の外だと出かける前に朝廷の許可が必要となる。それは京都から目と鼻の先にある比叡山に向かうのでも例外ではなく、事前に五畿の外にある比叡山に向かうことを朝廷に申請し、朝廷から出かけることの許可を得なければ出発できなかった。
今回の二人の場合、五畿の中に含まれる山城国の山崎が滞在先だから事前の許可はいらないが、滞在先が山崎であるという届け出は必要になる。そこで工事中の国府に向かったのだが、本来ならば何もわざわざ工事中の国府にいく必要はない。なぜなら、港にいる係員に届け出を出せばそれで充分であり、多くの者は国府まで行くのをむしろ時間の無駄と考えられていたのだから。
にも関わらず国府まで来たのは、何はなくともカヤに逢うため。
「源朝臣能有、菅原朝臣道真。以上二名、山崎に滞在します」
「は、はい」
この訪問者に国府の役人は驚きを隠せなかった。と言っても、予期せぬ訪問者に驚いたのではない。偶然の連続に驚いたのである。
理論上はここでも届け出を受け付けてはいる。だが、ここに務める役人の仕事のメインは工事の監督であり、山崎にやってきた貴族の滞在受付ではない。だから、滞在受付をするのが仕事として存在していることは心得ているが、そんな仕事は一度もしないまま工事の監督だけをして一日を終えるのが日常だった。
それが、今日に限ってはそうじゃなかった。
「全く今日はどういった日でしょう。三人目でございますよ」
「三人目?」
「先ほど、在原業平様がおいでになられました」
「業平様が?」
「工事の進み具合を確認なされてから港に戻られたようです」
「そうですか」
能有も道真も、この知らせを良い知らせとして受けた。無論、業平に会わないようにするにはどうするべきかという知らせとしてである。
尊敬できる人ではあるが、業平は道真とカヤとの関係を知らないし、それが業平であっても、山崎の踊り娘に思いを寄せていることを知られるのは貴族としての人生に影響する。
「それで、工事の進み具合ですが、いかがでしょうか?」
能有は、国府まで足を運んだことのオフィシャルな目的を果たそうとした。
「もう九割ほど完成しております。勅命があれば今すぐにでも国府として使えますよ」
「そうですか」
「いかがです? 見学なさりますか?」
「ええ。ぜひ」
能有は即答したが、道真はあまり乗り気ではなかった。ここまで来たのだから一刻も早くカヤに逢いたいという想いが浮かんだから。
とは言え、能有だって思い人に会いたいことでは変わらないのだから、文句を言う気にはなれなかった。
道真は自らの思い浮かんだことを自省した。
建物の外観は完成していて、後は内装だけとなっている。
「ここは倉庫ですか?」
「そうです」
真っ先に倉庫に案内されたのは、この建物が最初にできあがっていたから。
「一国の倉庫でこの大きさですか」
道真はその倉庫の小ささに意外さを感じた。都を抱える国の税は全てここに集められるはずなのに、これでは小さすぎる。
果たして、この大きさの倉庫で山城国の必要をまかなえるのか。
「これでも大きく造り直したのでございます」
「でも、山城国の農民が納める税はここに集まるのですよね」
「納めていただいたうち、山城国で使える分のみがここに集められます。都に運ぶものは除きますから、この大きさがあれば充分でございます」
「そうですか」
このときの道真が考えたのは、この倉庫に積まれるであろうコメがそのまま山城国の予算になるということ。この程度の大きさしかないのでは、山城国の困窮者を救うのはおろか、山城国の国府に勤める貴族や役人の給与をまともに払えないのではないかということ。
「なあ、能有」
「なんだ?」
「山城国だけが貧しいのか? それとも日本全国がそうなのか?」
「貧しい? 何を言っているんだ?」
「この倉庫に集めたコメだけで山城国は一年間やっていけるのか?」
「やっていけるかどうかじゃない。これでやっていくしかないんだ」
「これじゃ足りないだろう」
「足らないというなら増税だな」
「増税って、これ以上民衆の負担を増やすのか?」
「増税しないでどうやってコメを増やすんだ?」
能有の言葉に道真は何も言い返せなかった。
「山城国の人たちが納めた税を全部集めても、この倉を埋めることもできないんだ。国府に向かって『あれをやれ』『これをやれ』『道路作れ』『施をやれ』なんて言ってくるのがいるけど、そのために使えるコメはこの倉だけだ。この倉のコメで一年間やっていくことができなければ、その人は国司失格だな」
道真はこのとき、生まれてはじめて予算というものの概念を目の当たりにした。
二人が次に案内されたのは武器庫。
もっとも、武器はまだ搬入されておらず、立てかけるための棚を作っている最中だった。
「武士(もののふ)がここに集うのですか?」
「ここは武具を保管するのみでございます」
「すると、武士たちは何処へ?」
「おりませぬ」
「『おりませぬ』って、軽々しく言わないでください」
「道真、何も軽々しく言っているわけじゃないぞ」
「何でさ? だいたい、国衙に武人がいないなどあり得ぬだろうが」
「道真は山城国に割り当てられた武人が何人か知らんのか?」
「詳しくはわからぬが、おそらく数千人といったところか」
「ふざけたことを言うな。健児(こんでい)が三〇人だ」
「三〇人だと! 都を抱える山城国でか!」
「都には衛士もいるし検非違使もいるから別だ。都を除く山城国で守りに就けるのは三〇人だけだ。その三〇人で山城の八つの郡を守っている。今こうしている間にもな」
「三〇人で守りきれているのか?」
「山城国が雇える武人の限界が三〇人なのだ。庶民の負担を減らすために税を減らし、兵役を減らし、労役を減らした。一つ一つは庶民が望んだこと。それを全て叶えたことが山城国ですら三〇名という現実だ」
「それを誰も問題と思っていないのか」
「太政大臣(おおまえつぎみ)(=藤原良房)は問題だと言っている。だから、自らの手で自らの身を守るように勧めている。『税を安くするから、その代わりにお上に頼らず自らの力で生きよ』というのが太政大臣の考えだ」
「それは無責任すぎないか」
「太政大臣はたしかに無責任だろう。だが、律令に逆らってはいない。律令の批判はしているがな。無責任というなら、無責任なのはむしろ律令のほうだ。バラ色の暮らしを約束し、その一つ一つを実行した結果が、山城国ですら三〇名しか雇えないという惨状だ。全て、予算がないという問題が原因の」
「予算がないからと言って命を危険にさらしていいわけはないだろう」
「太政大臣に対して言いたいことはいろいろあるだろうが、太政大臣は民衆の声に応えただけだ」
「こんな暮らしを民衆が望んだというのか? 兵士もいない、コメもない、こんな生活をしたいと誰か言ったのか?」
「民衆が言ったのは負担を軽くすることだ。命のためであろうと、負担を引き受けたがらないのが人間というものだ」
後世、良房の後継者である藤原基経の右腕として辣腕を振るうこととなる能有の素養は既にできあがりつつあった。
「俺達、何のために大学生になるんだ? 学問のためか? 違うだろう。貴族となって立身出世することが目的じゃないのか?」
「それは身も蓋もない言い方だな」
「それじゃ、道真は学問のためだけに大学生になって、一生出世とは無縁の学者になるつもりなのか?」
「そのつもりはないさ」
「じゃあ、具体的には何だ? 俺は立身出世が目的だ。言っちゃぁなんだが、無茶苦茶な理由だと自覚している。私利私欲のためと思われたって構わない。それでも、権力を手にしたら何をすべきかぐらいはわかってる」
「何だ?」
「日本に住む誰もが前より良い暮らしをできるようにすることだ」
能有の言葉を聞いて、道真は、親友が遠い世界に行ってしまったような気がした。それは、大人と子供という違いだとも感じたし、人としての優劣だとも感じた。
弓でも、漢詩でも、道真はこれまで能有に負けたと感じたことはなかった。強いて挙げれば血筋があるが、それも特に気にすることのものではなかった。
それが今や、能有のほうが自分の上に立っているのだ。
考えてみれば、大学生になるという明確な目標を立ててはいるが、何のために大学生になるのかという一点を欠いている。
大学に入り、文章博士になり、貴族入りすることが自分の将来の姿だと考えていたが、それを果たしてからどうするのかと問われると、道真は何も答えられない。
能有はその全てに答えられる。
「ここでは何名ぐらいの方が工事に携わっておられるのですか?」
武器庫を出るなり、能有は案内してくれている役人に尋ねた。
「今日は三九名です。いちばん多いときは一五〇名になりましたが、ここまで完成しますとそれまでの人はいらなくなります」
「いらなくなった人はどうしたのですか」
能有の言葉は「いらない」という言葉に反応して、語気を強めるものとなっていた。一〇〇名以上の人が失業させられたと考えたのである。
「これまでのように工事に携わるのを希望する方々には次の仕事を斡旋しましたが、何せ、一〇〇名以上もの人ですからそれぞれですね。斡旋したところよりいい待遇のところもありましたから、それぞれに散っていったようです。何しろ山城はどこも人手不足ですから」
「そうですか」
能有はそれを聞いて安心したようだが、今度は道真が不可解に感じた。
「人手が足りないわけないでしょう。都には人が溢れていますよ」
道真の脳裏にあったのは、平安京の道ばたにあふれる失業者たちだった。彼らを雇えばいいのではないかと考えた道真にとって、人手とは、余っているものであって足りないものではなかった。
「山城国で探しているのは働く人です。働かない人を集めても意味がありません」
役人は慣れた感じでこう言った。
「私たちは都で人を集めたのです。特別なことはいらない。まじめに働けば給金も出すし、食べ物も、着る物も、住むところだって用意する、と。でも、それに応えない人がたくさんいました」
「そのような話は聞いたことありません」
道真は断言した。
「割と有名だぞ。まあ、先の帝(=文徳天皇。能有の父)の在位の頃だが」
「いや、俺は聞いたことない」
「道真はその頃、あまり市に行ってなかったろ。その当時、市で大々的に募集したんだ。働き口があるぞ、ってな。でも、働きたくないって考えたのが多いんだよな」
「働きたくない、ね。まあ、その気持ちわからなくはないな」
「冗談言うなよ。働かないでどうやって生きていくのさ。誰かのお恵みで生きていくのか?」
「そうは言わないよ。そうは言わないけど、気持ちはわかると言ったんだ」
「誰もがそんな気持ちでいたら、この日本は滅びるぞ。自分は働きたくない。だけど生きたい。全員が全員これをやったらどうなる。コメ一粒、サカナ一匹とれないだろ。そんな考えは理解しちゃいけない」
「完成はいつぐらいになりますか?」
「予定では来年です」
「もうほとんど完成しているじゃないですか」
「建物をつくっても、中で働く人がいなければ無駄に終わります。今の国府で働いている全員がこちらに移り終わらなければ完成ではありません」
「もう移ってきている方はおられるのですか?」
「女官の方が何名かいらっしゃいますね」
役人の視線に向かって後ろを振り向くと、工事中の役所の中をうろつく女性の集団がいた。
一見すると地元の女性たちに見えるが、その中に一人、明らかに庶民ではない格好をしている人がいた。
「小町さん!」
能有はその一人を素早く見つけた。
道真が京都の女性を騒がせているように、この時代の京都の男性を騒がせていたのが小野小町である。このとき二一歳で、能有や道真とは四歳上になる。
道真は小町に対して特にこれといった反応を示してはいなかったが、能有は小町に憧れる男の一人であった。道真がカヤへの想いを募らせているのと同じように、能有も小町への想いを募らせていたが、向こうからすればこっちは頼りない歳下の子どもで、能有も、恋人にしたい人というよりもむしろ憧れのお姉さんといった感じに終始していた。
能有は道真の協力のおかげで小町と宮中で何度か話をしたことがあるが、そのときも動揺と緊張を隠せなかったし、いつもの冷静沈着さを保てなかった。
宮中での小町はそんな能有を暖かく見ていた。
貴族社会の一員に列せられてはいても、母親の身分の低さから公的な地位を掴めずにいたのが小町である。恋愛対象とするには最高の女性なのだろうが、貴族に列せられる者が妻とするには引っかかるところがある。
だからなのか、周囲の誰もが一線を画して小町と接していた。
しかし、能有は違った。歳下ゆえの頼りげのなさはどうしようもないが、一線を画すことなく一人の女性として小町を見つめていることは理解できた。
道真が山崎の踊り娘に熱をあげていると知っているもう一人は、この小町である。
「やっぱりここにいたのね。二人とも」
小町の柔らかげな物言いを耳にした道真は、能有が熱をあげるのを理解できる感じがした。
二人は女性の集団に駆け寄った。
小町の周囲を囲んでいた女性たちは自然と離れ、三人きりの空間となった。
「あなたたち、家出したんですって?」
「人聞きの悪いこと言わないでください。僕たちは遠足です」
「遠足で山崎ですか?」
遠足は、現在でこそ学校行事の一環である子供向けのイベントだが、この当時は、何人かで連れだって、日帰り、もしくは一泊から数泊の小旅行をするという貴族限定のレジャーであった。
『遠い足』と書くぐらいだから、このレジャーが始まった当時は徒歩での移動が原則であり、また、その参加者も圧倒的大多数が男性であったが、次第に乗り物を利用するようになり、この時代は牛車や船の利用も当たり前になって、最近は女性の参加者のみならず、女性だけのグループや、元服を迎えていない子供だけの遠足すらある。
だから、能有や道真が遠足に出かけることはおかしなことではない。
ただ、遠足の目的地が山崎だというのはほとんど聞いたことがない。普通はご加護のありそうな寺院や神社、あるいは崇められている山や川や海といったパワースポットが目的地であり、交通の要衝ではあるがオカルティックな要素の感じられない山崎に来るというのがどうしても解せなかった。
「いいでしょう。あなたたちは遠足で山崎に来た。そういうことなのですね?」
「はい」
「それより、小町さんがなぜ山崎にいるのですか?」
「私はこれでも宮中に仕える身ですからね。主上(=清和天皇)の命令があれば出かけますよ」
「山崎に行けと主上が命じたのですか?」
道真は、小町がどんな命令を持って山崎まで来たのか想像がつかなかった。
「慰安です。琴を弾きながら歌うためにきました」
「?」
「山崎の国府建設にあたっている方をもてなすようにというのが主上からの命令です。まあ、正確には太政大臣の命令ですね。何しろ、ここは男ばかりです。飲んで騒いでというところに女がいるというだけでも違うものですよ」
小町は、現在の感覚でいくと、キーボードの弾き語りをするシンガーソングライターである。歌もうまいし、琴もうまいし、作る曲もすばらしい。その上、美人ときているのだから、これで人気がでないわけがない。
楽譜のない時代だから小町の作った曲のメロディーはわからない。だが、小町の作った歌詞なら残っている。百人一首や古今和歌集といった作品に残る小町の和歌は、現在は優れた和歌という位置づけだが、この時代は大ヒットソングの歌詞なのである。
この時代は当然のことながら、音楽のダウンロードはおろか、CDもレコードもない。つまり、音楽を聴くためには誰かが演奏するのを聴くしかない。
小町を山崎に派遣するというのは、女官の一人を派遣するというだけではなく、この時代のトップアイドルを派遣するということでもある。
「昨晩はこちらの国府で奏でさせていただきました。今晩は港に戻りまして奏でさせていただく予定です」
「小町さんの琴の奏でですか。ぜひ聴いてみたいですね」
「ならば港にいらっしゃい。私から業平様に頼んでみますから」
「え?」
考えてみれば、なぜ小町が自分たちの家出を知っているのだろうかという疑問が生じる。
だが、業平が一枚噛んでいるとなると話は別。小町が業平から自分たちのことを聞いたならば、何らおかしな話ではない。
「それは、業平さん主催の宴ですか?」
「おそらくそうだと思われる、としか言えませぬね。私も詳しくはわかりませぬが、業平様が音頭をとっているようです」
「業平さんの酒宴で、それに小町さんも出られる、と……。どうする? 港に戻るか?」
道真は少し考えてから能有に言った。
港に戻るということは業平と会わなければならないということだが、ここまで来たら業平云々はどうでもよくなってきた。それよりもいまは小町だと判断した。
たしかにカヤにまだ逢えていないという問題はある。だが、能有が小町に逢え、このあとどうすれば小町ともう一度逢えるのかを知った以上、ここは港に戻るべきで、カヤと逢うのは後回しとすべきというのが、このときの道真の思いだった。
「ちょっと待てよ。道真はまだ逢ってないだろ。カヤさんはどうするんだ」
「カヤさんって、道真くんの想い人のことですね」
「ええ」
「それならば、なおさら港に出向くべきです。業平様のことですから踊り娘をたくさん呼びますでしょう。であれば、ここで散策するより出会える可能性が高いですよ」
「そうですか、踊り娘……、ん? 小町さんがいて、踊り娘がたくさんいるってところに業平さん……、!」
能有も道真も少し考え、そして同じ結論を出した。
「どうしたのですか?」
「小町さん、いや、小町さんだけじゃない。宴に出る全ての女性の問題です」
「どういうことかしら?」
「貞操の危機です」
「はい?」
「小町さん、僕たちも宴に出ます。それで、小町さんたちを守ります。道真! 急ぐぞ!」
「おう」
二人とも同じ結論にいたり、同じ行動を起こした。
「どうしたのかしら?」
一人置いてけぼりを食った小町は事情が掴めずにいた。
一般に平安時代の貴族というと、ゆったりとした動きの日々のために運動神経とは無縁のように思われるが、貴族の間では結構スポーツが盛んで体を鍛えている者も多かった。特に相撲、弓道、狩猟といったスポーツは愛好者も多く、貴族の子弟たる者、何か一つはスポーツをこなすべしという風潮があった。
それは道真や能有とて例外ではなく、今の二人は普段から鍛えているのに加え、ゆったりとした貴族の子弟の服ではなく、庶民と同じ動きやすい服を着ているため、息一つ切らさぬというわけではないが、国府から港まで走り続けても平気な状態にはあった。
状態にはあったが、二人とも取り組み後の力士のように息を切らしている。
「つ、着いた……」
「で、着いたはいいが……、ここからどこに行けばいいんだ……」
「そりゃあ、酒場だろ」
当時の酒場に民営はない、ことになっている。酒を売ったり飲ませたりできる店は公営でしか認められず、民間人が勝手に酒屋や酒場の経営をすると罰せられる、ことになっている。無論、闇でアルコールを扱っている者もいて公然の秘密となってはいたが、名目上、酒を飲みたければ公営の酒場に出向かなければならない、ことになっている。
これは奈良時代には既にできあがっていた制度で、桓武天皇は、平安遷都後、平城京で適用されていた公営酒場の制度を、闇の黙認も含めてそのまま継承している。意図的に風俗街を平安京内部に作らせなかった桓武天皇ではあるが、酒を飲むことまで禁じてはいなかった。要は度を過ぎた飲酒をしなければ酒を飲んで良いということである。
公営の酒場は、出される酒の分量が制限される。法に則って公営の酒場に出向くと軽く酔う程度の量の酒しか出ないため、ほろ酔いに留まって前後不覚に陥ることはまずない。
だが、もっと自由に酒を飲みたいという者もいる。何せ、宴会一つするだけなのに役所に行って手続きを踏まなければならないのだからこれは窮屈とするしかないし、出される酒の量も限られているときている。
そこで、自由を求めると黙認されている闇商売に向かうこととなる。だが、闇だから値段はあってないようなもの。制限なしに飲み食いできるが、それも予算あってのことで、間違えてもロクな稼ぎもないのに酒場に入り浸ってアルコールを摂り続けることなど起きようがない。
この時代と現在のホームレスの違いの最たるものは、現在と違い、この時代のホームレスは酒とタバコを手にできなかったことである。
では、この酒場の経営は誰が取り仕切っていたのか?
京都市内では、京都市中を守る衛士や、官庁に勤める下級役人個人の経営となることが多かった。
彼らは国から許可を貰って、副業として経営していた。班田があった頃の役人の副業は農業以外認められていなかったが、班田の崩壊で農地を持たない役人が続出した。しかし、役人の給与は班田からの収穫を加味して計算されているため、給与だけでは満足いく暮らしができない。
そこで、酒を扱う商売が認められるようになった。賄賂だの、怠慢だの、そうした役人の腐敗に比べれば、副業での酒場の経営はよほど健全だった。何しろ、安定した商売ではない。経営者としての努力を見せないと売り上げに直結せず、ひいては自分の生活にも影響するのである。賄賂や怠慢に走るのは自由だが、その代わり、責任もつきまとうのだ。
一方、平安京を離れると、役所がそのまま経営するようになるのが普通。
これは、この時代の経済に関係する。
酒を運ばせるにしろ、酒の原料を運ばせて自前で酒を醸すにしろ、自分で飲む分の酒を手に入れるならともかく、商売にできるほどの酒を用意するのは、京都や難波、太宰府といった流通の整った大都市でなければできない話である。
また、仮に酒を用意できたとしても、それを買ってくれるだけの市場規模がないと商売は成立しない。なにしろ、役人や衛士が酒場を経営しても良いという許可がでるだけで、酒場に対する公的な補助などない。
山崎は確かに交通の要衝だし、流通も他の地域よりは整っている。だが、商売できるだけの酒を個人で用意できるほどの流通ではなかった。それに、仮に用意できたとしても、それに応えるだけ市場規模がなかった。
山崎は旅人が立ち寄る場所であり、一泊するときに酒を求める者は多い。だが、それしか需要がないのでは、一個人が酒で商売できるには至らない。
需要はある。それも、貴族の需要がある。
こうなると、商売を無視して、収支が赤字になるのを覚悟で供給するしかない。
その答えが役所自身の経営する酒場だった。
港に付随する建物の一角が、需要のあるときだけ酒場に変わる。
正式な名前はあるらしいのだが、山崎に住む者や山崎を訪れた者は、誰もが、この一角を単に「酒場」とか「港の酒場」という。それで通じるから。
「本日は、山崎の者の慰安のための貸し切りとなっております。差し支えなければ明日おいでいただけませんでしょうか」
酒場の店主、といっても彼もまた役人だが、彼の役人らしからぬ丁寧な応対は拍子抜けする観があった。ただし、原理原則に徹する一点においてはやはり役人であり、融通が利かない。
もっとも、役人の立場に立てばわからぬ話ではない。今宵の宴は山崎で日々働く者に一夜限りの娯楽を提供するために計画されたイベントであり、部外者が横から割り込んできて参加したいと申し出ても、日々額に汗して働く正式な参加者が良い気がするわけがない。
明日は通常の酒場としての営業をするのだから、そちらにしてもらいたいというのは、対応としては間違っていないだろう。
「在原業平さまが本日お見えになると聞きました。ぜひお目通しを願います」
「確かに業平殿は本日参るとは伺っておりますが、まだおいでになられておりません」
この役人は二人の正体を知っている。そして、彼らと業平の関係も知っている。だから、業平に会いたいという二人の言葉には何ら不信感を抱いていない。
「参りましたね」
「いかがなされました?」
「本日、こちらに小野小町さまがおいでになるとのことで……」
「ああ! 小町さまですか」
役人は能有が小町の名を出した瞬間、この二人は小町のファンで、小町に会えると考えて港の酒場に来たのだと考えた。
これは珍しくもないことだった。窮屈と考えられる官製の宴にも関わらず参加希望者が通常ではない数に及んでいるのも、参加資格もないのに酒場にやってくる者がいるのも、全ては小町会いたさ。
現在の感覚で行くと、小町が出る宴というのは、トップミュージシャンが開催するコンサートのようなもののわけで、ただ男が集まってダベっているだけの宴とはわけが違う。
「いかがですか。この小部屋であれば大広間にお通しすることも可能で御座います」
「小部屋?」
道真はそれの意味するところがわからなかった。
わかったのは実際に小部屋に案内されたとき。
四人も座れば窮屈なこの部屋は、少人数での旅をする人のうち、港の酒場に寄って踊り娘を一人か二人ぐらいは呼べるぐらいの余裕がある人のための部屋だった。
つまり、踊り娘と一対一、多くても二対二ぐらいの酒の席のための部屋であり、こうなると、酒がメインでも踊りがメインでもなくなることも珍しくなくなる。
役所がそういう部屋を用意するのはどうかと考えるのは現代人の感覚。当時はそれが当たり前であった。
「こちらの部屋が空いております」
部屋を見た能有は躊躇した。
「これはシャレにならんかも知れんぞ。俺たちがこの部屋に入ったことは業平さんも知ったわけだからな」
「別におかしなことではなかろう。山崎に来て踊り娘を呼ぶぐらい誰でもするだろ。すいません。踊り娘を呼んでください」
道真は躊躇しなかった。
「ただし、呼んでいただきたい踊り娘は一人です。河陽離宮の側に住む、カヤさん」
「カヤ……、はて、そのような方がおりましたでしょうか? ……、わかりました。確証はできませぬが最善は尽くします」
「カヤさんでなければ誰も呼ばなくても構いません」
「ちょっと待て。そうすると俺たちは二人でこの小部屋で飯食って寝るってことになるぞ」
「構わないだろう。俺はカヤさんに会う、能有は小町さんに会う。そして女性たちの貞操を守る。今はそれまでの間の休息だ」
「その前に、だ。いいか、この小部屋は男二人でいるような場所じゃないぞ」
「そういうものなのか?」
「女なしで小部屋に籠もったら衆道(男性の同性愛)を疑われるっての。ただでさえ俺たちは世間の風当たりを食らってるってのに、ここで悪評を増やしてどうする」
日本における男同士の同性愛がいつ頃に始まったのかはわからない。とりあえず、日本書紀に同性愛を思わせる記録があることと、血縁関係が確認できない二人の男性が同じ墓に埋葬されている例があることから、紀元前には既に男性同性愛者が存在していたと考えられている。
ただし、それは公表できるものではなかった。
平安時代も中期を迎えると貴族たちの間で少年愛が流行するようになったが、この時代は同性愛を疑われることが公人としての地位を失うに等しい大スキャンダルである。実際、同性愛趣味が露見したことで公職追放となった者もいた。
そのため、倫理に疑問を感じようと、外泊する際に女性を招くことは、スキャンダルから身を守るために有益であり、それをしないことのほうが不自然だった。
例外は僧侶で、女人禁制が前提である寺院では雑務を引き受けさせるために出家しない未成年者を雇うことがあったが、その中に、少年を女装させて性の対象に利用させることがあり、これだけは黙認されていた。そのため、僧侶がともに旅をする少年と二人きりで泊まったとしても、黙認はされても問題視はされなかった。
「最良はカヤさんに来てもらうことだが、今回はカヤさんじゃなくても受け入れないとまずいだろう」
「とは言うが、要は小町さんの琴の奏での場に行けばいいのだろう」
「だから、それまでの間ここにいることが問題なんだっての」
「それじゃどうする? 俺はここに残るぞ。カヤさんが来るかも知れないからな」
「……、その手があるか。じゃ、俺はいったん外に出てるか。小部屋に二人きりなのが問題なのであって、道真一人だけなら何も言われんからな」
能有は小部屋を出て港の酒場の建物の外に向かっていった。
小部屋に一人きりとなった道真は所在なく座って時間を経過させた。
主目的は忘れていない。この場に来る女性たちの貞操を守ること、特に業平の魔の手から守ること。とは言え、その具体的な方策は思いついていない。
小部屋には窓があって外の様子が見える。やることのない道真は窓の外の光景を眺めていた。
窓の先は港の裏路地で、人が何人か通りかかることがあるが人数はさほど多くない。
窓の外を通りかかる人が道真のいる小部屋に目を向けることは、一人を除いて、ない。その除かれる一人というのは能有のことで、建物の外に出て行った能有がこの窓の向こうを通り過ぎたとき、道真に気づいて窓のほうに目をやった。
少しして、女性たちの集団がこの建物にやってくるのが見えた。その集団の中には小町がいて、能有がその女性達に近寄っていった。
何を話しているのか道真にはわらなかったが、窓から見る限り、雰囲気は終始和気合いとしている。
女性達の輪に能有が加わってからしばらくして、集団は窓枠の外へとフレームアウトした。
さらにしばらくしてから建物の中身がにぎやかになった。特に男達のどよめきの声が大きく聞こえた。
「(小町さんが着いたんだな。俺も行くか)」
そう考えて立ち上がった道真は戸に向かい、戸を開けようとしたが、道真が戸を開く前に戸のほうが勝手に開いた。
「ん?」
戸の向こうに一人の女性が立っていた。
腰まで伸びた髪を丈長(たけなが・現在のリボンのような髪留め)で結び、単衣(ひとえ)の上に袿(うちき)を着た、典型的な踊り娘。
「私を呼んだのは貴様か。私は二人と聞いていたのだが、一人だけか」
「連れは外に出ました」
女性は中に入って戸を閉めて袿を脱いだ。
袿を脱いで単衣だけになった姿というのは、現在の感覚でいくとブラジャーとパンツだけの姿で部屋にいるに等しい。単衣は手首から足首まで覆う着物だから肌の露出はほとんどないが、薄手の布地なので身体のラインが確認できてしまい、それだけでもこの時代の男にとっては充分に性的な格好に映る。
単衣だけの姿になった彼女は、道真が被っていた烏帽子を奪うように脱がせた。
この時代の男性にとって、烏帽子を被らないというのはパンツ一丁にされると同じくらい恥ずかしい格好であった。烏帽子は被れるが首から下は全裸で出歩くのと、服は着ていいが烏帽子なしで出歩くのと選ばなければならないとすれば、烏帽子ありの全裸を例外なく選ぶというぐらいの姿である。何せ、刑罰の一つとして烏帽子を被らずに外を歩かせるというのがあったぐらいである。密室で女性と二人きりになったとすれば烏帽子を外すのは考えられなくもないが、間違えてもそのままで部屋の外に出るのはありえない。
下着姿に等しいというなら女性の単衣だけの姿だって同じではないかとなるが、理屈の上ではそうでも、現実問題として、単衣だけで出歩く女性は珍しくはない。つまり、この部屋の様子が外から見えた場合、女性のほうは恥じらいがあっても普段の暮らしの中では割と普通に観られる格好であるのに対し、道真の今の格好は暮らしの中で観ることなどできない恥の格好である。
つまり、今ここでもめ事があったとしたら女性のほうが圧倒的に有利なのである。何かあったら烏帽子を持ったまま外に逃げればいいのだから。
「返してくれませんか」
「いやだね」
道真は脱がされた烏帽子を取り返そうとしたが、女性は烏帽子を強く握ったまま離さなかった。
「悪いね。私は踊り娘なんで、男と二人きりだなんてなったら、こうしないと身を守れないのさ」
そう言うと彼女は胸元に烏帽子をしまいこんだ。
いったい何が起こったのかと考えた道真であったが、少しして、彼女こそがカヤなのだと気づいた。
彼女は間違いなく二年間思い続けていたカヤだった。
だが、お互い二年の年月を経ている。それも少女から大人の女に変わるという二年を経ている。雰囲気が大きく様変わりしてしまっていたということか、それとも、この二年間の想いがカヤに対する想いを現実より美化させていたからのか、想い焦がれていた人という感じがあまり受けなかった。
「しかし、私を指定するなんて、貴様もよほど物好きな男だな」
「そ、それはもちろん、カヤさんに会いたく……」
「それはありがとうよ」
カヤはぶっきらぼうに言い放った。
このとき道真は戸惑っていた。
あれだけ会いたいと考えていたカヤと、今実際目の前にいるカヤと、理屈では同一人物とわかっているのだが、どうしても同じ人物に思えなかった。
「あの、僕……」
「知ってるよ、文章博士の息子だろ」
カヤは道真のことを覚えていた。ただし、一個人としてではなく、文章博士の子として。
「僕のこと覚えてくれていたんですか」
「もう二年になるか。私が踊り娘になって、はじめて都に行ったのが君の元服の儀だからな。あのときは子供にしか見えなかったが、なかなかどうして、いい男に育ったじゃないか」
「ありがとうございます」
「謙遜しろよ。お世辞だぞ」
道真はカヤとの会話がうまく噛み合わないことに苦慮した。
「うれしいです。僕のために来てくれて」
「勘違いするなよ。私は元々小町さんの琴の宴で呼ばれてきたんだ。で、貴様が私を指名したから、私は一人外されてここに連れてこられた。それだけだ」
「でも、今は僕のためですよね」
「それが仕事だからな」
道真のカヤへの戸惑いはさらに強くなった。だが、カヤと一緒にいるというこの時間を手放す気には全くなれなかった。
「仕事、ですか……」
「ああ、仕事だ。そうじゃなきゃなんでわざわざ貴様のためなんかに時間を割くか」
「それじゃ、僕が呼ばなかったらどうなっていたんですか?」
「小町さんの宴を彩る仕事だ。琴の音にあわせて踊って、酒を注ぎ回って、気に入った男がいれば小部屋にしけ込むってところだな。ま、小部屋を貴様が独り占めしているおかげで今日はそれができなくなったが」
カヤはあくまでもビジネスライクだった。
少ししてから、戸の外から男たちのワイワイガヤガヤした声が聞こえてきた。開場となって男たちが大広間に入ってきたのだろう。
「貴様はあっちに興味はないのか?」
「僕はカヤさんと二人きりでいられるほうがいいです」
「珍しいな。山崎の男は小町さんの歌が聴けるってんでソワソワしてるが、貴様にはそれがないのか」
「惚れた女を捨てて騒ぎの場に行くような愚か者じゃありませんよ」
「ん?」
カヤは一瞬言葉を詰まらせた。
「カヤさん。僕は二年間、ずっとあなたのことを想い続けてきました」
道真はカヤの手をとった。
「こ、こらこら」
「僕と一緒に、都に来てください」
「ちょ、ちょっと待った」
カヤは道真の手をふりほどいた。
「何を考えているか、貴様」
「カヤさんのことです」
「お世辞にお世辞で返すのはわかるが、手を握るとはどういうことか」
「いけませんか」
「考えろ。私は踊り娘だ」
「踊り娘だからと言って何かあるのですか?」
「貴様は貴族の倅、私は踊り娘。触れあっていい間柄ではない」
「それ、どういうことですか」
「考えてみよ。いま貴様がここに私と二人きりでいることを誰が称賛するか。山崎まで出かけ、踊り娘と二人きりで小さな部屋に籠もって何をするか。それがたとえ何もなかったとしても誰がそう考えようか」
カヤはそう言ったが、実際のところ、踊り娘と一晩を過ごしたとしても、確かに賞賛はされないが貶されるほどのことではなく、男であれば当然のことだと考えられていた。
もっとも、烏帽子を奪われているというのは現代人の想像以上にみっともない姿であり、それが知られたならば間違いなく貶される。
「そんな古くさい考えに縛られてどうするんですか。時代は変わっているんですよ」
道真はカヤの言葉に反発した。カヤ自身が踊り娘であることを恥じていることに。
「いつ変わった? 変わったと考えているのは貴様一人で世の中は全く変わっていないではないか」
道真も若者の常として、それまでは間違っていても常識の一言で片づけられたことが、若者の感覚では正しいことへと変わると考えている。
ただ、カヤの言うように、世の中が道真の考えにあわせて実際に変わっているわけではない。
カヤと二人きりでいる間、カヤが踊り娘だということはどうでも良いことだと思っている道真も、一歩この小部屋を出たら、貴族の家の者と踊り娘という身分の差が生じると考えていることは否定しない。
だけど、納得はできない。
「世の中を変えようと考えるのは貴様の自由だ。だが、世の中が貴様の考えに従うとは限らない。よく考えよ。貴様は何者か」
カヤにそう言われて、道真は黙り込むしかできなかった。
せめて大学生になっていれば立場を手にできるが、自分にはそれがない。親が文章博士だという家の子供という以外、道真を特別なものとさせるものが何もない。
弓とか、漢詩とか、こうした得意分野で何かしらを誇ろうと、それは所詮アマチュアの横好きで、それが自分自身の存在の証となるほどのものでもない。
「文章博士の倅が大学生になれなかったという話は山崎にも届いている。本人がどう考えているかは知らんが、山崎での貴様は働かないで遊びほうけている者だということになっている。まあ、私は他の者みたいにそれについてどうこう言うつもりはない。貴様は人生を掛けた挑戦をして敗れ去った。それは立派なことだ。だが、そのすぐあとで私のところに来るのはどう言うことだ?」
「それはカヤさんに会いたいから……」
「会ってどうする。私に会えば大学生になれるとでも考えたのか?」
「そうじゃありません。でも、会えないまま時間を過ごすのには耐えられないのです」
「私は女だし身分も低いからわからんが、貴様は、大学生になれるかどうかと同じくらい、私と会うのがとても大切だということだな」
「はい」
道真は少しも躊躇することなく答えた。
「そうか。ならば、会いに来るぐらいは構わん。こちらも仕事だ。だが、そこから先に進んだら貴様の人生は破滅だ。それは心に留めておけ」
「どうして破滅になるのですか」
「貴様は貴族。私は踊り娘。酒の席に呼ばれ、男に酒を注いで踊るための女だ。雲の上にいる人間と地の底に這う私とでは住む世界が違いすぎる。私と貴様が一つになれるとすれば、貴様が私と同じところまで降りてこなければならないのだよ」
「それぐらい覚悟します」
「気軽に言うな!」
カヤは一喝した。
「貴様から貴族の暮らしをとったら何が残る。貴様が貴族でなくなったら、待っているのは飢え死にだ」
「そんなことありません」
「じゃあ、どうやって生きていく。貴様に田畑を耕す力はあるか? 船を操り海に出る覚悟があるか? 市場で売るものがあるか? 貴様には何もないではないか。いったい誰が、海のモノとも山のモノともつかない、何の仕事もできない若造を一丁前に扱うというのか。貴様から文章博士の倅ということを取り除いたら、貴様は何も残らんだろうが」
「僕には……、そう、詩があります」
「詩が何だというのだ。聞いてもわからない言葉を呟いたり、何やらわけのわからない文字を並べたりすれば飯が食えるというのか。一部の人しか理解できない言葉を操るのにいったい何の価値があるか」
カヤに言われて道真は何も言い返せなかった。
漢文を操ることができるのは一部の者だけだというのはカヤもわかっている。だが、カヤに言わせれば、その一部というのは何も価値を持たないのだという。
それは道真にとって大きな衝撃だった。
漢文を操るが故に自らの知性を誇っていたのがそれまでの道真であるのに、カヤはその誇りを全否定したのだ。
道真はしばらく何も言えず、カヤは黙り込んでいる道真を見つめ続けた。
戸の外から、小町の奏でる琴の音と小町の歌が聞こえてきた。
それまで激しく聞こえていた男たちの話し声は静まりかえった。
『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを』
小町の歌は悲しく、奏でる琴の調べと合わさって涙を誘う。
カヤもその中の一人で、小町の歌に聴き惚れている一人だった。
「いい歌だよな。小町さん」
「ええ」
「これが漢詩じゃこうはいかんな。素晴らしいと言われようと、私には何言っているかわからない」
このカヤの言葉は説得力のある言葉だった。
道真も教養として和歌を詠む。ただし、和歌は漢詩と比べて一段下と考えられているため、貴族がまずたしなむのは漢詩であって和歌ではない。子供の頃から英才教育を受けさせられてきた道真が親を感心させたのも、何よりもまず漢詩を作ったからである。漢詩と平行して和歌を詠んでもいたのだが、そちらは何の関心も持たれていない。和歌を詠むなど、この時代の人には当たり前のことだったからである。
和歌と漢詩の最大の違いは、漢詩がごく一部の限られた『教養人』だけのものなのに対し、和歌は日本語を話せる者なら誰もが理解できるものだということ。それこそ、上は天皇から下は奴婢まで、和歌の前には身分の差も関係ない。
ゆえに、この当時までは漢詩のほうが高い価値を持ち、和歌のほうが一段下に見られていた。
ところが、和歌と漢詩との争いで最後の勝者となり、比べ物にならない高い価値を持つようになったのは和歌のほうである。
この時代から一〇〇〇年以上を経た現在、和歌を詠みたいと宮内庁に申し出て選ばれれば、新年の歌会始の儀に皇居に赴いて和歌を詠み、皇室に献じることができる。この特権は和歌だけにしかない。
無論、漢詩にはそれがない。漢詩は一部の趣味人だけのたしなみであり、漢詩を作るのも漢詩を詠むのも自由だが、そこに国から与えられる庇護はない。
この差を生んだ最たる理由は、皮肉にも、道真の時代までは漢詩を優位にさせていた理由、すなわち、使われる言葉の違いにあった。
漢詩に出てくる単語は音読みであることが多く、漢字を自由自在に読み書きできる者でなければ詩の言葉を理解できないのに対し、和歌に出てくる漢字は訓読みばかりなので、漢字に対する知識もいらず、耳で聞いただけで理解できる。
いや、そもそも音読みだの訓読みだのという考えが和歌にはない。漢字が日本に伝わる前から日本に存在した言葉だけを使うのが和歌の鉄則であり、例外的に漢字が日本に伝わって以降に日本国内で使われるようになった単語が出てくることがあっても、和歌を詠んだ人、そして、和歌を聞いた人にも、それが古来からある日本語の単語であると感じられる単語、例えば「菊」などの単語しか許されない。
そのせいか、この時代に生まれつつあったひらがなはまず、和歌を書き記すのに利用された。書いてある通りに声に出せば聞いただけで理解できる和歌に漢字はいらない。
「貴様は文字を書けるのだよな」
「もちろんです」
「だったら書いてみてくれ。小町さんの歌っている歌だ」
道真はカヤのリクエストに応えた。
応えたが、満足のいく結果を得られなかった。
「なんだか、ミミズのはいつくばったような線だな。こりゃ」
小町の歌う歌をひらがなで書き留めてカヤに見せた道真であるが、二つの障害があった。
一点目は紙に書くわけではなかったこと。眉を描く必要があるので墨を持ってはいたが、道真は紙を持ち歩いているわけではない。
そもそも、この時代の紙は恐ろしく高価である。
市場に行けば、一応、紙が売ってはいるし身分を気にすることなく誰でも自由に買えるのだが、小遣い程度で気軽に買える額ではなく、現在で言うと、新しいノートパソコンを買うぐらいの覚悟と出費が必要。
そのため、朝廷に仕える者が書類を書き記すために使うのという局面であっても、通常であれば安値で手に入る木簡で、紙を使えるのはよほどの重要な書類に限定される。
これは寺院でも同じで、経典を書き記すときに使うのは木簡であることがほとんど。紙に経典を書けるのは国の命令での写経で、かつ、紙を国が支給したときに限られる。
こんな時代だから小部屋の中に紙があるわけがなく、道真が選んだ媒体は欠けた器である。欠けてしまったために捨てるしかない器に何かを書くことは珍しくなく、当時の人が欠けた器に墨で書いたメモや落書きが発掘されてもいる。
ただし、もとは食べ物を入れるために作ってあるものなので、何かを書くのに向いてるわけではない。ゆえに、文字が下手くそになる。
もう一つの障害。それはひらがなそのものの特性にある。
道真のこれまでの人生においての「文字を書く」という行動は、大学生になるための学習と、漢詩を作る訓練に限定されていた。
漢詩については多少の字の下手さも許容範囲とされていたが、丁寧な楷書で読みやすければ、そのほうが賞賛されやすかった。
一方、省試、つまり大学の入学試験では、まるで活字であるかのような丁寧な楷書で答案を書かないと話にならなかった。いかに優れた文章を答案に記そうと、書いてある文字が下手くそならば最初から答案を読んでくれず、不合格を突きつけられてしまうのである。
となると、丁寧な楷書以外の文字を覚えさせることも覚えることも、道真にとっては不要な練習となる。
ましてや、どんな文章を書けるかよりも、どれだけ丁寧な文字を書けるかというほうが大切にされる風潮があり、これがさらに発展した結果、書いた文章の中身などどうでも良く、いかに上手な文字を書くかということが評価の対象となる時代になってもいた。
この時代は、嵯峨天皇、橘逸勢、空海の三人が能筆家として名を馳せ、彼らの残した文は、その中身よりもまず、筆跡の美しさで賞賛され、文化人として国外にも名を轟かせていた。
一方、道真が能筆家であったという記録はない。生涯に数多くの文を書いたのだが、文をほめる記録はあっても筆跡をほめる記録がない。ということは、道真の筆跡が取り立ててほめるほどの代物ではなかったということになる。
もともとの文字が上手ではない上、訓練を積んだことのないひらがなを書いたのだから、その文字は想像以下の出来になるのもやむを得ない。
「これで『おもひつつ』と読むのです」
「う~ん。これが文字というものなのだとは理解したが、私には向かないな。文字を覚えるのは来世に生まれ変わってからにするよ」
踊り娘であれ、キャバクラであれ、男を接待する女性は全くの無学ではつとまらない。なぜなら、そうした場所に足を運ぶ男というのは、ひとときの安らぎを求めて足を運ぶものだから。
男というものは、自分が学のあることを誉め称えてもらうことで満足することが多い。知らないことを知っている、知的とされる会話ができる、こうした知に関することを女性に誉めてもらうことで満足を得るのが男というものだが、そのためには、相手をする女の方もある程度の学がないと話しにならない。
男というのは、自分の知性と全くあわないと感じる女とセックスならばできても、恋愛はできない。そして、恋愛をできると感じられるだけの知性を持った女性よりも自分の知性のほうが優れているので誉め称えられると感じたとき、強い悦びを感じる。
道真がカヤに心惹かれたのも、カヤに知性を感じたからに他ならない。道真の知の誇りを平然と踏みにじるし、読み書きだってできないのだから、これは男をもてなす女としては失格となる行動なのだが、それでもそこにはカヤの知性を感じることもできる。
ちなみに、平安時代の庶民の識字率は六パーセントから七パーセントほど。この時代の農民が起こした訴状などを見る限り、少なくともどんな村にも一人や二人は文字を読み書きできる者がいたと推測されるし、村によってはまるで現在の小学校を思わせる学校を設けているところや、寺院が周囲の子供たちの教育にあたることを制度化するところもあったので、識字率はこの時代の世界平均からすると意外と高い。
そして、踊り娘に限ると識字率はさらに高く跳ね上がり、およそ半分以上の踊り娘は、ひらがなだけに限ったとしても文字を読んで書くことができるのが普通。これは、もともと男と会話をするために自分の学力を向上させなければ商売にならなかったことに加え、手紙のやりとりをすることで馴染みの男を客としてつなぎ止めておくのは有効な手段でもあったから。
この意味で、文字を諦めているカヤは踊り娘としては少数派に属する。
戸の外から聴こえてくる音楽が、それまでも落ち着いた音楽からにぎやかな音楽へと様変わりした。
と同時に、男たちの大騒ぎの声が届いてくるようになった。
道真はここで、酒場に来た本来の目的を思い出した。業平の魔の手から女性たちを助けることである。
とは言え、今の自分に何ができるのか。この部屋で二人きりでいるのなら、少なくともカヤを守るのはできる。
「向こうが気になるのか?」
戸のほうを眺める道真を見て、カヤは言った。
「騒がしくなりましたからね」
「やっぱり、あっちに行ったほうが良かったんじゃないか?」
「あっちは酒呑んでバカ騒ぎするだけじゃ済まないですよ。男が集団で暴れたら、小町さんも、踊り娘のみなさんも危険です」
「小町さんはともかく、踊り娘ってのはそういうものだ。酒呑んで騒ぐ男の相手をして、気に入った男がいたら小部屋にしけ込んでハダカになって、あとは想像に任せる」
「それはカヤさんもですか?」
「わかりきったことを訊ねるな」
道真は、カヤが他の男に抱かれているということを、理屈では理解しているつもりでいた。感情では理解できなくても、理屈ではそれが踊り娘というものだと自分で自分に言い聞かせていた。
だが、あまりにも軽い感じで見知らぬ男にカヤが抱かれているというのを聞いて、道真は動揺した。
「貴様は踊り娘を甘く考えてはいないか? だいいち、男と一緒に食べて呑んで、歌って踊って、それだけで飯が食えるわけ無かろう。私は貴様と違って、何もしないで飯が食える身分じゃないんだ」
「それで、そんな理由で、カヤさんは男に抱かれるんですか」
「充分な理由じゃないか。それとも、貴様は私に飢え死にしろと言うのか?」
「カヤさんを食べさせるぐらい、僕にだってできます!」
「犬や猫と一緒にするな!」
カヤの恫喝に道真はすくんだ。
「踊り娘をやめるということは、私のことを君が買うということだ。モノだぞ、モノ。踊り娘ってのは、売り買いするモノなんだよ。雇い主から私を買って都に連れて行ってどうするつもりだ。家に閉じこめるのか、こき使うのか、どうなんだ」
「人をモノ扱いするなんて僕にはできません」
「だが、モノとしか私は扱えないんだ。物心ついたときから踊り娘にさせられて、あちこち売られて山崎に落ち着いた。そんな私が生きていくためにはモノ扱いされるしかないんだ。貴様だって私を買ったじゃないか。モノ扱いしたんだろうが」
「そうじゃありません。僕は、カヤさんと、一緒になりたい」
「なれるわけないだろうが。踊り娘なんだよ、私は……」
カヤの言葉の最後のほうは涙声になっていた。
「貴様は何も知らなすぎる。男ってのはな、踊り娘を抱いてもいいけど、踊り娘に惚れてはいけないんだ。そんな甘っちょろいこと言うなら、これ持ってさっさと帰れ」
カヤは道真の烏帽子を投げつけた。
「このまま別れたほうが幸せなんだよ、お互いにさ。私のことは夢だとでも思って忘れてくれよ。私は貴様とは暮らせない女なんだから」
カヤはそう言うと、立ち上がって部屋を出ていこうとした。
「待って!」
道真はカヤの手をとって、出て行こうとするカヤを引き留めた。
手を引かれたカヤは道真のほうを振り向いた。
「引き留めてどうするのさ。貴様も貴族なら、引き留めるんじゃなくて、踊り娘と暮らせる時代を作ってみせろよ。もう、私みたいな売り買いされるのを作らないでくれ……」
「……、やる! やってみせる!」
それを聞いたカヤの顔が、はじめて微笑みを見せた。
「ありがとうな」
道真に引き寄せられたカヤは、力なく道真に身を寄せた。
目覚めたとき、カヤはもういなかった。
小部屋から出てきた道真の何か悟りを開いたかのような顔を見ても、能有は昨日ここで何があったのか何も言わない。
「能有、都に帰るぞ」
「そうか」
自分たちがいた小部屋の隣の小部屋に能有はいたらしいこと、そして、その小部屋の中に小町がいることについて、道真は何も言わない。
「都に帰ってどうするつもりだ」
「まずは貴族になる」
「大学に再挑戦か」
「そうしなければどうにもならないからな。俺、決めたんだ。この世から人の売り買いをなくしてみせる。カヤさんみたいな人をこれ以上増やさせないって」
「ずいぶんと大それたことを言うな。言っていることは理解できるが、それが実現したらこの国の根幹がひっくり返ることになるぞ」
「人の命を売り買いするのを放っておくような国などひっくり返ってもかまわん」
「それは本気で言っているのか?」
「もちろんだ」
「この国の多くを敵に回すことになるが、その覚悟はあるのだな」
「覚悟などいらない。彼女たちに哀しみを背負わせている人間に責任を取らせるだけのことだ。それで誰かが困るわけではない」
「言うようになったな、道真」
「何か文句でもあるか」
「いや、むしろ面白い話だ。今の道真の言葉は俺たちの貴族としての寄って立つところにもなるだろうし、俺は賛成する。その代わり一つだけ言っておく。俺も協力するが、そのためには、俺は道真と一緒に大学生になることはできなくなる。それだけは理解してくれ」
「わかった」
道真は能有の言いたいことを理解した。
大それたことをする大学生は国家反逆者とされるのみ。だが、能有が天皇の兄であることを前面に押し出せば、貴族とまでは行かなくても、間違いなくそれなりの血のある役職を手にできる。それに、能有ら源氏は菅原氏と違い、権勢をほこる藤原氏と密接につながっている。これはいざとなれば藤原家の権勢を利用できるということ。
山崎から戻ってきた二人は何か覚悟を決めたようだった。
親に逆らう態度は変わらないが、市に出向くことも、弓を手に取ることも、漢詩を作ることすらなくなり、試験対策に没頭した。
ただひとつ、道真からひらがなで書かれた手紙が山崎に送られるケースが出てきた。中には和歌が書かれているだけ。手紙はしばらくすると開封されて戻ってくる。はじめての返信のときは中には返事の代わりに、『おもひつつ』の五文字が書き加えられていた。
文字を懸命に練習したのだろう、回を重ねるに連れて上手くなっていき、書ける文字の種類が増えていった。
不慣れな文字の羅列であったのが、次第にちゃんとした和歌になり、年が変わる頃には想いの全てを文章にまとめることができるまでになっていた。
この状態で半年が経過した。
貞観四(八六二)年の省試。合格者は前年と同じく二名。
うち一人に道真が選ばれた。一方、能有は選ばれていない。
選ばれていないのは当然で、能有は受験資格を失っていたから。
「源朝臣能有。従四位上に叙する」
能有は無位無冠の若者から、貴族に就いたことで、それも従四位上という例外的に高い地位に就いたことで、受験する資格はおろか、若者の一員としてカウントされる資格すら失っていた。
待っているのは、自分を抜擢した藤原氏の側近の一員であり続けるという運命のみ。
悔しくないのかと勘ぐる者は多かったが、今の道真にそうした考えはない。自分たちは何のために貴族になるのかを考えればそんな考えなど一掃する以外ない。
「太政大臣への上奏はどうだった」
「受け付けてはくれたがあまりいい顔はしなかった。その代わりと言っては何だが、基経さんが賛成してくれた」
「それはありがたい」
太政大臣藤原良房の後継者である藤原基経は二人よりも九歳上。現役の太政大臣の後継者で既に二七歳にもなっているのだから、既にある程度の地位にあると考えるのが普通だが、基経はこのとき従四位下。つまり、能有より格下になる。
ただし、官位はあるが役職のない能有と違い、蔵人頭と左近衛少将を兼ねるという、貴族の出世としては順当な道のりとなっている。
「あの人も問題だってことを前から理解していたってことだ」
ゆえに、能有も道真も敬語で接する。
だが、敬語で接する理由はもう一つある。
普通であれば無名の若造の戯言としか考えないであろうことに全面的に賛成したことで、基経は頼れる人だと考えたのである。
貞観五(八六三)年九月、左近衛少将藤原基経の名で一つの法案が宮中で読み上げられた。
奴隷の売買には、奴隷の両親がともに奴隷である証拠を添付することを義務づけ、これがない奴隷の売買は無効となるだけでなく、売買に関わった者が処罰され、奴隷は奴隷身分から解放されるとする法案である。
反発は当然強かった。奴隷を売り買いすることで生活を成り立たせていた者は多かったし、少なくない貴族がこの商売に手を出して利益を上げている。その中には、基経にとって叔父にあたる右大臣藤原良相までいる。
このような法案を出すとかなりの確率で宮中の中で孤立する。だが、真っ先に賛成を示した貴族が一人いた。無官ではあるが位としては自分よりも上である源能有である。いくら無名の若者でも天皇の兄が賛成に回った以上、これは簡単に反対を貫くなどできない。
その上、宮中でこのような法案が検討されているということが一般公開されたことで宮中は騒然となっていた。
道真を中心とする大学生達が京都市中やその周辺に出回ってこのたびの奴隷制の制限に関する法案を触れ回ったことで、奴隷制度を問題であると考えた数多くの民衆が宮中に参集し、大規模なデモを展開したからである。
紙の貴重な当時、マスメディア的に情報伝達するのに用い垂れたのは板である。板に文字を書いて各地に立てかけ、朝廷からの連絡を広範囲に連絡する。これを高札(こうさつ)という。高札の起源は延暦元(七八二)年にまで遡ることができ、この時代ではごくありふれた連絡手段になっていた。
国の公文書でもあるため一般的には漢文であるところなのだが、庶民向けの布告にはひらがなを使用することもある。また、漢文だけの高札とひらがなの高札とを並べることもある。
特に、山崎に掲げられた高札は、カヤでも読める文になっている。
「これが貴様の答えか」
高札を守る道真の元にやってきたのは、あれから二年を経たカヤだった。
「これで、カヤさんを自由にできます」
「ったく、貴様もいい加減強引な奴だな」
「惚れた女のためなら何でもしますよ、僕は。それに、待っていてくれたのが僕には嬉しいのです」
「そうかい。もういい、負けたよ。どうにでもしてくれ」
「それじゃ、一緒に都に来てください」
「ああ」
貞観五(八六三)年九月二五日、人身売買の事実上の禁止が布告された。
この瞬間、カヤは自由を手にした。
- 山崎の踊り娘 完 -