五島高資 『蓬莱紀行』
拙著『蓬莱紀行』出版に際して磯貝碧蹄館先生から賜った祝句
水に落つ朱欒を抱ふ海蛇神 磯貝碧蹄館
蓬莱や五體五島の舟繋ぎ 磯貝碧蹄館
蓬莱(ほうらい)とは、古代中国で東の海上(海中)にある仙人が住むといわれていた仙境の1つ。 道教の流れを汲む神仙思想のなかで説かれるものである。
蓬莱 - Wikipedia
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7035795 蓬莱伝説・不老長寿の是非
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7353615 神仙思想
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7106722 蓬莱(火)・弁財天を祀る方丈(水)はセット(死と再生はセット・同空間)
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/7280838 黒曜石・火山が生み出した天然ガラス
【句の紹介記事】
http://sendan.kaisya.co.jp/kensaku/ikku060108.html より
椿咲く銀河のなかに銀河あり (季語/椿) 五島高資
地上に椿、その上に深い銀河が流れている。実にきれいな句だ。しかも自然がとても大きく生き生きととらえられている。「銀河のなかに銀河あり」という表現と、「椿咲く」が組み合わされたとき、自然の大きさや深さに届いたのだ。
この句、作者の新句集『蓬莱紀行』(富士見書房)から引いた。この句集には長い自序「蓬莱紀行」があり、五島列島で育った作者の蓬莱(ユートピア)を求める熱い思いが述べられている。その思いには郷土への愛も重なっている。この序の熱さがそのまま句に結晶した一例が掲出句であろう。
1968年生まれの高資は、今日のもっとも若い俳人のひとりだ。今はまだ思いばかりが先走っている気がするが、やがて彼の思いは俳句形式と大きく共鳴するだろう。
蛤蜊のすがたも見えず稲雀 李由 「韻塞」
からすきの星も雀も蛤に 五島高資 「蓬莱紀行」
心太沈んで天を窺えり 五島高資 「蓬莱紀行」
http://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060111&tit=%8C%DC%93%87%8D%82%8E%91&tit2=%8C%DC%93%87%8D%82%8E%91%82%CC 【五島高資の句】 より
観覧車雪のかたちに消えにけり 五島高資
雪が降っている。それでも動いている「観覧車」を、作者は離れた場所から見上げているのだろう。こんな日に、乗ってる人がいるのだろうか。そのうちにだんだん降りが激しくなってきて、とうとう見えなくなってしまった。その様子を、迷うことなく「雪のかたちに」消えたと詠んだところに、作者のリリシズムが光っている。消えたとはいっても、遠くのほうでまだぼおっと霞んでいて、観覧車のかたちは残っているのだ。つまり、あくまでも観覧車はおのれの「かたち」を保っているわけだが、時間が経つにつれて降る雪と混然となっていく様子を指して、作者は「雪のかたちに消えにけり」と情景に決着をつけたのである。「雪」に「かたち」はない。しかし、このように「ある」のだ。そう言い切っているところに、句としての鮮やかさを感じた。観覧車といえば、高所恐怖症にもかかわらず、私が一度乗ってみたいのは映画『第三の男』に出てきたウイーンの大観覧車だ。オーソン・ウェルズとジョセフ・コットンが、これに乗って話し合う有名な場面がある。だから乗らないまでも見てはおきたいと長年思っていたのだが、実は十数年前に一度、スケジュール的に少し無理をすればチャンスはあったのである。所用でせっかくウイーンの駅で降りたのに、しかし疲れていたこともあって、またの機会にと断念してしまった。でも私には、もはやまたの機会はないだろう。あのときに行っておけばよかったと、何度くやんだことか。だいたいが私は「またの機会に」と思うことが多い人間で、大観覧車にかぎらず、けっこう見るべきものを見ないままに今日まで来てしまっている。要するに、勤勉でない性格なのである。『蓬莱紀行』(2005)所収。(清水哲男)
『蓬莱紀行』 五島高資
宝貝
三日月にまた塔つくる涅槃西風 日と月と紫雲丹の上に逢う
樟の葉の光に泊つる五島かな ぜんまいのそばに集まる空気かな
勾玉の萌えるおおたにわたりかな 入口にして出口なり白椿
島の道すべてつながる春の雨 春雨の音のあわいの珊瑚かな
わたつみの道へと玉の浦咲けり 春雨にぬれるこころとこころかな
椿咲く銀河のなかに銀河あり 風さそう水の春をば見てしまう
落椿たどって水をむすびけり 海彼など椿の葉巻燻らせて
水平線父の背を越えおぼろなる 逆光のなかに虚子の忌ありにけり
菜の花を見つめればけむり立つかも 陽炎となりゆく千本素振りかな
ゆるやかに面舵いっぱい竹の秋 竹林に人を沈める時正かな
わけもなく磯巾着の潰される 海松を食う無人島から街見えて
貝殻の奥より午砲ひびくなり 海市にはスクワレンとか書いてある
宝貝ならべて東シナ海とする 崑崙へころも波打つ空海忌
竜天に登り波間に星残す 竜天に登り浮島ただよえる
燃えつきてなお水晶や風光る 星屑のいわおとなりて桜咲く
かわたれの天に沖する桜かな
螢火
雨をゆく人を見送る雨のなか 幾たびも枝分かれして沙羅咲けり
蓬莱や海のあなたに虹翔る 曼荼羅をめぐりて燃える牡丹かな
母の日の島から父へ電話せり 樟に降る光も青葉まつりかな
棕櫚の花かなとこ雲にこぼれたり 海の日の畳の上に寝てしまう
おろち棲む島根に茂る珊瑚かな 覚めやらぬ午睡に軍艦島浮かぶ
飛魚の目に余りあるこの世かな 心太沈んで天を窺えり
滝口や高天原へ道別き入る 滝壺を涙のようにあふれ出る
滝壺に気を取り戻す流れかな 滝壺を出てただ空があるばかり
滝つ瀬の時を割きたる巌かな トンネルを出てしろがねの蝉時雨
ここからは泳ぐほかない青芒 四五人が消えて始まる海開き
陸沈や両性界面活性剤 雲海に墨を点じて鎮まれり
滴らす五十六億余年かな 西海へ散る滝思い邪なし
人波を離れて雨後のヘゴ光る ガジュマルに薬缶吊して泳ぐなり
海境や高胸坂に雷走る はらからや蟹の目に風が見え出す
かみなりへ走る帰宅となりにけり 空蝉の琥珀を抜けし翡翠かな
上空が渦巻いており麦の秋 噴水の砕けて星に届かざる
クリプトンランプへ急ぐなめくじら 目に見えるものを清める夕立かな
みずからの影にひまわり戦けり 夕立のあとものすごい夕日かな
夕焼けて磐船のゆくごとくなり 不時着のサン・テグジュペリと珊瑚かな
ペーロンの舳先に夕日巴なる 秋目浦にて鑑真和上に捧ぐ
血汐いま衣に凪いで御座しけり 約束に少し間のあり誘蛾燈
背泳ぎの銀河へ滾り落つるかも 不時着の椰子の実はるか火星炎ゆ
銀河へとゆく道あまた烏賊釣火 遠花火闇より生れて海へ散る
水晶にけむり昇るや夏の月 夕顔咲く静かの海のほとりかな
螢追うわたしのなかの螢かな 螢火を追って彼岸へ渡らざる
時と時むすんで螢消えにけり 螢火のときおりわれにかえりたる
あまたなる螢見て来てひとり寝る 螢死んで牛乳びんとなりにけり
玉の緒となりて滴る桂かな 滴りて月の音色となりにけり
火星までけむる渦巻き蚊遣かな 帚木を抱えて月に近づきぬ
麦秋や星を見ながら星に寝る
屋久島十句
黒潮を分ける島根や雲の峰 雲海を抜け屋久島へ降り立ちぬ
石を登り水を渉るや樟若葉 よじ登る苔の林に星満ちて
赤錆の鉄路や秋(とき)を遡る カノープスかすかに杉の落葉かな
ひさかたの白雨にリュウビンタイ躍る 雲分けて銀の虹へと発ちにけり
天仙果ならその裏にあまたある 磐船の艫綱垂れて蘇鉄咲く
珊瑚
有明の海へ血走る七面草 ただ今は朝顔に遊ぶ水なり
顔洗う手に目玉あり原爆忌 首上げて水光天に長崎忌
あらわれる軍艦島や風の色 撥ねられて空に咲きたる葛の花
葉脈に台風生れる気配あり 台風の眼やアメジスト透きとおる
コスモスの咲くは溺れていたりけり 蜻蛉やシナ海という最期あり
曼珠沙華あらやしきまで飛び火する 石を打ち終えて色なき風にあり
敷島の道きわまって栗笑う 黒潮や沈む陸へといなびかり
海中につらなる尾根や椿の実 大陸の沈むけしきや竹の春
空になお色を留める苹果かな 洞窟を出るより西日昇るなり
流燈やまず掌を沈めたる 秋燈す牧野植物大圖鑑
月からの流木その他ありにけり 地に刺さる鯨の骨や月祀る
手を洗う闇から闇へ秋の水 右腕を枕に暮れる萩の聲
子規没後百年にして蚯蚓鳴く 蚯蚓鳴くゆえに我あり蚯蚓鳴く
猿酒に響く汽笛と思いけり ほんとうの水に浮かべる林檎かな
三日月に開く扉のありにけり りんどうを零しシリウス瞬けり
闇に根を垂らす榕樹(あこう)や天の川 金星をかくすくすのき滴れり
滝壺に涙あふれる月夜かな なげうつに及ばぬ夜のネクタリン
六畳に掃く汐騒や月あかり 不知火にムー大陸の横たわる
月夜間(つきよま)の二階から爪飛びにけり 月光に捕らえられたる漁師かな
望月へ道は港を曲がりけり 十五夜の風呂場に三つ穴があり
十六夜の鏡のうらの珊瑚かな 有明の苔の林を帰りけり
ハングルも星もただよう渚かな からすきの星も雀も蛤に
屋上に寝て漂える銀河かな カノープス沈めるあたり竹を伐る
星空のうらはひねもす凪いでおり
鯨海
旧知の故ジャック・モイヤー博士を悼み
むらさきの雲路かよえる三宅かな 朽ちて咲く枇杷の花とはなりにけり
花枇杷や書類の山に蟠る 訳もなく空母出てゆく枇杷の花
水平に運ばれてゆく炭火かな からすみの昼を灯しておりにけり
汐満ちてうからやからの朱欒かな 冬の波はるか二人は一人なり
鷹来る島は扶桑と燿けり 冬日吸う黒曜石の矢尻かな
たいらぎは邪馬台国より旧りにけり 火を焚いて元気に返す言葉かな
島々を統べて一番星冴える 竹のまた竹の上なる冬銀河
空の海うねりは石炭袋から ひさしぶり星を見ている鯨かな
びんろうもびろうもやがて冬の星 蹼のあとを辿れば冬銀河
銀河へと目地をよぎれる翁の忌 崑崙の星の夜を知る海鼠かな
吐き下し裏返るかに年ゆけり 年の瀬を過ぎて六角井戸に出る
若水も星も頭の上に運ぶ 陸続と六角形来る初日かな
まだ島は浮かんでいたり初寝覚 初夢を零れ落ちたる泪かな
松葉蘭ゆらす淑気となりにけり 五十瀬渡る幸木に浮かぶ投馬国
蓬莱をかんころ餅として頂く 島々のついに走れる初御空
肘曲げて初東雲に枕せり 加速するものこそ光れ初御空
初出 : 『蓬萊紀行』富士見書房 2005.12.3
私は、幼い頃、長崎・五島航路のフェリーからよく軍艦島を見かけていた
波を切る軍艦島の片かげり 高資
人間の逞しさに驚くと同時に諸行無常の響きを波音に聞く思いがしました。貯水タンクよりも低いところとはいえ、その近くにある神社の境内に建つ立派な祠が特に印象的でした。
ひさかたの高天(たかま)や島の水烟る 高資
流れゆく川面に秋の夕焼かな 高資
秋の燈の眼鏡橋より零れけり 高資
眼鏡橋・中島川ー 場所: 長崎県 長崎市
沈む日へ光る道あり秋の海 高資
有福島・日ノ島ー 場所: 五島列島 上五島
日本遺産第1号「国境の島 壱岐・対馬・五島~古代からの架け橋」
https://www.tsushima-net.org/feature/nihonisan.php より
ストーリーの概要 (文化庁報道発表より引用・抜粋)
「国境の島 壱岐・対馬・五島 ~古代からの架け橋~」(対馬・壱岐・五島・新上五島)が日本本土と大陸の中間に位置することから、長崎県の島は、古代よりこれらを結ぶ海上交通の要衝であり、交易・交流の拠点であった。
特に朝鮮との関わりは深く、壱岐は弥生時代、海上交易で王都を築き、対馬は中世以降、朝鮮との貿易と外交実務を独占し、中継貿易の拠点や迎賓地として栄えた。
その後、中継地の役割は希薄になったが、古代住居跡や城跡、庭園等は当時の興隆を物語り、焼酎や麺類等の特産品、民俗行事等にも交流の痕跡が窺える。
国境の島ならではの融和と衝突を繰り返しながらも、連綿と交流が続くこれらの島は、国と国民と民の深い絆が感じられる稀有な地域である。
対馬の構成文化財(対馬11点)
金田城跡(かねだじょうあと) 国指定特別史跡
対馬の亀卜習俗(きぼくしゅうぞく) 国選択無形民俗文化財
豆酘の赤米行事(つつのあかごめぎょうじ) 国選択無形民俗文化財
対馬藩主宗家墓所(そうけぼしょ) 国指定史跡
万松院の三具足(ばんしょういんのみつぐそく) 市指定有形文化財
銅造如来坐像(どうぞうにょらいざぞう。黒瀬観音堂) 国指定重要文化財
清水山城跡(しみずやまじょうあと) 国指定史跡
金石城跡(かねいしじょうあと) 国指定史跡
旧金石城庭園(きゅうかねいしじょうていえん) 国指定名勝天然記念物
朝鮮国信使絵巻(ちょうせんこくしんしえまき) 県指定有形文化財
対馬藩お船江跡(おふなえあと) 県指定史跡
五島列島・中通島にある山王山は本来、三王山であり、「三」は「事解之男」、「王」は「大事忍男」であり、これを合わせた「三王山」が別名「雄岳」であるのは伊邪那岐命を表し、その東方にある「雌岳」は伊邪那美命を示しています。
国産み後において「三」は離縁の大事、「王」は王事すなわち日本国創生の大事であると、『日本国家の起源・五島列島に実在した高天原』(丸善) で松野尾辰五郎翁は指摘しています。二年前に「五島・高天原説」の研究のため参詣した懐かしいところです。当時は車も通れない峻嶮でしたが、今回、日本遺産に指定されているのを知り驚きました。
全景です
久しくも五島を観んと思ひゐしがつひにけふわたる波光る灘を 昭和天皇
昭和44年に五島を行幸された昭和天皇の御製です。なお、今上天皇も平成14年に五島をご訪問されました。ー 場所: 石田城
矢堅目· 長崎県 南松浦郡 · ·
鵄の舞ふ雲より秋の夕陽かな 高資
鳳や秋の夕焼雲となる 高資