F.CHOPIN、ノアンから出版の交渉はサンドの恋人グシマーワへ
思い返せば、1841年の秋にショパンがノアンからパリへ戻ったのが11月8日だった。
「夜想曲作品48を2曲送ったよ。他は水曜日に送るよ。僕のノアン出発は遅れて、6日にパリに着かないだろう、恐らく8日になるよ。冬が近づいているから、写譜を続けるように頼むよ。残りの曲は数日以内にパリに届くよ…まだ、シャープとフラットが抜けている個所があるから見直してくれ」と、フォンタナに校訂をショパンは指示し、フォンタナに校訂の仕事を任せたのがこの時が最後だった。
ショパンは1841年の秋にパリに戻る前に、その年の新曲の校訂と交渉をノアン滞在中はパリのフォンタナに任せたいた。しかし、フォンタナにショパンは給料としてお金を支払っていなかったのだ。
ショパンは1841年の秋にフォンタナに言っていた。「いつか借金を君に返すよ。僕は君が必要とする時に君に僕の借金を払うつもりだよ。」この言葉と、「君と僕の友情の同盟の証」
ショパンがこの約束を守って、この年、出版で得た収入の何割かを、フォンタナがアメリカへ行くときにショパンがフォンタナにお金を渡したかは不明である。
(1841年は幻想曲作品49、タランテラ作品43、ポロネーズ作品44、前奏曲作品45、演奏会用アレグロ、が出版された。)フォンタナの協力を得て、これだけの曲を出版できたショパンだったが、ショパンは銀行家のレオ、ピアノ製造のプレイエル、友人のマッシンスキ、両親、に借金をしていた。その、ショパンがフォンタナに今までの借りをお金で返すことは困難であったことは間違えない。
フォンタナは作曲以外の仕事を持っていた。法律家・著述家・起業家などで収入を得ていた。フォンタナの声は残っておらず、推測だが、ショパンは以前からアメリカへ渡ろうとしていたが、ブラックリストのショパンはそれが叶わなかった。そのことをフォンタナと話し合ったことがあったかもしれない。ショパンはぞの意思をフォンタナに託したのかもしれない。そのため、ショパンがフォンタナと出版の交渉のことで行き違いがあり仲たがいしたとは考えづらいのだ。
フォンタナはアメリカへ行き弟子のゴットシャルクの曲でデビューした。しかし、その後は、アメリカでショパンの曲を演奏していたフォンタナだった。
1842年のノアンはまだ5月だった。ショパンはサンドとパリのピガール街のサンドの借家で苦しみながら亡くなったマッシンスキを4月に看取ったことのショックから逃れるかのように、いつもなら8月の夏に来るはずのノアンに5月にやって来ていた。実は、それはサンドがショパンが騒ぎ出す前にパリを離れようというサンドの考えだったのである。
そして、パリにもうフォンタナもいないため、サンドが旦那様と呼んでいる、サンドの恋人グシマーワにショパンはノアンから一筆書いて送ることになる。
「君は、僕のこの手紙を読んで、僕が以前と比べて健康状態が良好であることがわかるであろう。」親友を亡くしたばかりの言葉とは思えないショパンの言葉である。
ショパンは、前の年のノアンのとき9月にパリとノアンを行ったり来たりした頃から
「疲れなくなった」と、ショパンはサンドに言うようになっていた。
そして、グシマーワへショパンは書いた。
「ノアンでの僕の健康はまあまあです。 いい天気です。 明日または翌日、
僕たちの親友ドラクロワが来ることを僕は期待しています。あなたがいつも泊っている部屋にドラクロアが泊まることになるけれど 許してください。」
グシマーワがいつも泊まるときに使っている部屋とベットをドラクロアが来るからその部屋を貸すことを頼んだショパン。グシマーワはサンドの本命の恋人であるため気を遣うショパンなのだ。
それから、本題に入り、「ウィーンの出版社に僕の手紙を再度送るようにあなたにもう一度お願いします。出版社メフェッティへです。しかし、オーストリアへは郵便料金は前払いです。 ブルス広場の郵便局で確かめてください。」
ショパンは必ず手紙はブルス広場から出すように、フォンタナのときも指定していた。
グシマーワが同じように動いてくれたかはわからないのだ。
「小包は私の痛みが伴った完成した原稿の写し≪3つのマズルカ 作品 50≫です。
これを紛失したり、あらゆるリスクにさらすことを僕はしたくないから僕は君のご好意に頼るしかないのです。 僕があなたを悩ますのはこれが最後です。
私はあなたがこのような頼まれごとが好きではないことを知っています。 よろしくお願いします。あなたの無事を祈る。
あなたの昔の友人より。ショパン」
パリのグシマーワに大事な出版のことを頼むとはショパンらしくないことなのだ。
「君のご好意」つまりは、グシマーワはショパンに「フォンタナがアメリカへ行ってしまい、マッシンスキもいない君は困っているであろうから、郵便のことは遠慮なく私に言いなさい」
とショパンに言った可能性があるのだ。
ショパンはフォンタナがいなくなり、よほど困っていたに違いないのだ。
ショパンの元気だという言葉も、グシマーワやサンドには弱みを見せないようにしていたのかもしれない。
グシマーワは1828 - 9年にポーランドの愛国協会に加入したことが原因でロシアのサンクトペテルブルクの牢獄に投獄されたことがあるのだ。しかも、
1830年11月蜂起ではパリで兵器の供給交渉に国家ロシア側として従事していたグシマーワは、1830年11月の暴動の後はポーランド銀行の取締役に任命され、国外の反政府勢力との交渉と財政的支援の交渉ために、ベルリン、ロンドン、パリへの外交使節団のために国家政府から命令されていたのだ。
ショパンはこのグシマーワの置かれた立場をこの時、どの程度気が付いていたのであろうか、
ショパンは「僕は革命家だ」という気持ちは変わっていないのだ。
グシマーワとサンドにマヨルカ島に行かされたときのことをショパンはどう思っていたのか…。ショパン追い詰められている...。
ヴォイチェフ・アルバート・グシマーワ(1793年4月 23 日 ポーランド- 1871年12月 16 日)
Grzymałaで生まれた。現在のDunaivtsi、ウクライナ
ポーランドの 兵士、政治家、銀行家。
1807年高校卒業後1807年にナポレオンによって作成されたワルシャワ公国の時代に軍事訓練を受けた。グシマーワはボロジノの戦い(1812年)のロシア軍に参加し勲章を受けた。
1820年代の間にポーランドの政治やフリーメーソン積極的に関った、彼はスタニスワフ・Staszicの葬儀で主となり雄弁に語った。1828 - 9年に彼はポーランドの(愛国協会)に加入したために サンクトペテルブルクの牢獄に投獄された。
1830年11月蜂起ではパリで兵器の供給交渉に国家ロシア側として従事した
1830年11月の暴動の発生後、彼はポーランド銀行の取締役に任命された。その後、彼は国外
の反政府勢力との交渉と財政的支援の交渉ために、ベルリン、ロンドン、パリへの外交使節団のために国家政府から命令された。
フレデリック・ショパンとはショパンのワルシャワ時代の1830年から既に知り合いで、ショ
パンの演奏会の評論を幾度か書いて公表している。パリに亡命したグシマーワはショパンと
親交を持った。そのほか、ドラクロワやジョルジュ・サンドの仲間である芸術家とも親交を深めた。
1871年にジュネーブのニヨンで破産し死亡した。