F.CHOPIN、ノアンとパリ、そしてドラクロアとの友情
6月のノアン「ここは楽しい場所です。」
ノアンの館はまるでカジノの様だった。ドラクロアはノアンに来てから1週間も経っていた。
ノアンで繰り広げられる娯楽は、ビリーヤードの賭博、酒と薬と女…
「この家の主人がすべてを人生を快適にしてしまいます。」ドラクロアはパリの友人ピエールにそう語った。
サンドは「この家の主人は私です。誰を招くかは私が決めることです」とショパンに言っていた。ノアンでは、サンド以外はすべてが客人である。
この家の主人はサンド、ノアンの館はサンドが思うように経営しているのだ。客にノアンでは毎日快楽に溺れてもらうことがサンドの売りである…。
パリのサンドの部屋にもビリーヤードがあった、ノアンの館にもショパンはサンドにビリーヤードを買わされたのだ。ショパンはポーランドの母ユスティナにお金を送っている形跡はない。母はワルシャワで泣いているというのに。。。
ノアンで客人が集まると賭け事が始まるのだ、勿論サンドの趣味であろう。ショパンは1年前も賭けで負けて肉を宿泊者に振舞う羽目になったことがあった。
「夕食に昼食、ビリヤード、散歩、自分の部屋で本を読む、または自分の部屋の
ソファーで寛ぐ。私は自分の部屋で本を読んだり、自分の部屋に寝そべったりできる。
庭にむかって開かれた窓から、時々、激しいピアノの音の一撃がある。部屋で仕事をしているショパンの音楽の息づかい聞こえてくる。
ナイチンゲールの小鳥のさえずりとバラとの香りが入交り漂ってくる。
これを聞いて、あなたは、私がそれほど罪でないことがお判りでしょう。」
ドラクロアは、ノアンでショパンの様子を見て、ショパンが哀れだというのだ。自分はそのようなひどい人間ではないとドラクロアは言いたいのだ。
ドラクロアのノアン滞在は長かった。2週間が過ぎた。ノアンの平穏そうに見える毎日も、ドラクロアには異常に見える日もあるのである。それをパリにいる友人に報告をするドラクロアだった。
「それは修道院に住んでいるようなものです。何もない平穏な日かと思えば、
次の日には通常のように事が進みません。」
ドラクロアに続いてノアンへ来る客はバルザックだった。彼もまたサンドのお眼鏡にかなっ
サンドの客人なのだ。しかし、バルザックが来るとあれこれお喋りが始り、ドラクロアがゆっくりとした時間を楽しんでいることがぶち壊されてしまうから、ドラクロアはバルザックが嫌いなのだ。
しかも、彼は大食いで有名なのだ。ドラクロアが言うようにおしゃべりで大食いは嫌われるのである。
それに比べて、育ちの良いショパンとの優雅な会話はドラクロアの感性にマッチしていたようだ。ドラクロアはショパンと会話を楽しむ穏やかな時間が好きだった。
「僕はショパンと無限の会話をしています。僕はショパンが非常に好きだ。
僕が今まで出会ったことのある芸術家の中で、ショパンは他に類のない傑出した人です。」
ドラクロアはショパンの事が気に入っていたようだ。
ショパンとサンドは、この後、7月に入ると、パリのピカール16番地のサンドの家で友人のマッシンスキが亡くなったことを忘れたいかのように、ふたりは新たなパリでの住居を探しにノアンからパリへ赴いた。
ショパンはサンドと同住所であるが別棟に住んでいるにもかかわらず、サンドと一緒に住んでいるかのように思われるのは、これ以上妙な噂が立つのは嫌だと思っていた。
そして、郵便物が住所が同じであることがショパンにとっては不便であることと、サンドの監視から逃れたいと密かに思っていたショパンなのだ。
けれど、部屋が手狭になったという理由で、サンドと意見を同じということにしたショパンは、サンラザール通りの広い中庭を囲む別々の住所に引っ越すことになった。
1842年8月5日にショパンとサンドは5番地がサンド、9番地がショパンの契約を済ませたふたりだった。
ドラクロワは、ショパンとサンドがパリへ行っている間、ノアンで自分の創作活動に専念していた。それは、ダンテとして描いたショパンの姿のスケッチだった。
ドラクロはショパンに敬意を示し、スケッチに「親愛なるショパン」と書き記した。
その絵は、後にパリのリュクサンブール宮殿華族の間の天井画となって現れるのであった。
ショパン肖像画スケッチより ドラクロア
リュクサンブール宮殿の上院図書館の丸天井壁画
"Les Limbes"辺獄
原罪のうちに(すなわち洗礼の恵みを受けないまま)死んだが、永遠の地獄に定められてはいない人間が、死後に行き着く」と伝統的に考えられてきた場所。1841に計画され1847年に完成した。 ドラクロワは完成時ショパンとサンドを招いた。