「ヴェネツィア ″Una città unica al mondo″」8 誕生と発展②
ローマ帝国は395年に東西に分裂し、西ローマ帝国は476年に滅亡したが、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は1453年まで続く。建国当初のヴェネツィアは、ラヴェンナに拠点を置いてイタリアを支配した(540年~751年)ビザンツ帝国の形式的な属国になって過ごす。それでも当時のヴェネツィアが実質上の独立を護れたのは、物資の輸送を任されてもよいだけの船と船乗りを所有していたからだ。そして、魚・塩と生活必需品の交換から始まった彼らの交易は徐々に拡大し、イタリア内部の河川貿易に重要な位置を占めるようになる。数度に及んだ本土からの移住で、人口も増大。それまで司祭を中心に、教区ごとにかたまって住んでいた人々も、それらをまとめた共同体を、そしてそれを率いる長を必要とするようになる。こうして697年、ヴェネツィア人は、はじめて住民投票によって元首(ドージェ)を選出した。
このように、難民によって成立した小さな国ヴェネツィアが、少しずつ、国家としての形をととのえはじめていた頃、西ヨーロッパでは大きな変化が生まれていた。現在のフランス北西部に入ったゲルマン人の一派のフランク人をはじめて統一し、481年にフランク王国を築いたのはクローヴィスだが、彼は496年カトリック(アタナシウス派)に改宗。新たなローマ教皇の保護者となる。そしてフランク王国は、732年に宮宰カール=マルテルが「トゥール・ポワティエ間の戦い」でイスラーム教軍を破ってそのヨーロッパ世界への侵入を阻止したことから、キリスト教世界の保護者の立場に立つようになった。さらにその子ピピン(小ピピン)は北イタリアのランゴバルト王国を破り、奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進(これがローマ教皇領の始まり)。これによってローマ教皇は荘園領主としての経済力をも有する存在となった。そして800年、フランク国王シャルルマーニュがローマ教皇レオ3世によって、神聖ローマ帝国皇帝として戴冠する。古代ローマ帝国の後継者を認ずる神聖ローマ帝国皇帝の領土は、当然イタリア全土も含まれる。シャルルマーニュはヴェネツィア一帯も自国に併合しようと息子ピピンを派遣。彼は、キオッジャ、グラード、エラクレア、イエゾロ、と攻め落としていく。ヴェネツィアにも、ビザンツ帝国支配下を脱してフランク王国の支配下に入れと要求。生まれたばかりの小国ヴェネツィアは、国家の存亡をかけた大事に直面したのである。
このとき驚くことにヴェネツィアはピピンの命令を拒絶。なぜ、滅亡の危険を冒してまでビザンツ帝国の支配下にあり続ける道を選択したのか?それはヴェネツィア人の商人的な冷静な打算の結果だった。彼らには、通商の自由を犯そうとしない、形式上の支配で満足しているビザンツ帝国の方がフランク王国よりも都合が善かったからである。ヴェネツィアがあるラグーナにはゴート族もランゴバルト族も、またビザンツ帝国ですら侵略しようとしなかった。しかしピピンは違った。ラグーナに攻め込んできた。ヴェネツィアも立ち向かわざるを得ない。ラグーナは、ここ以上に安全な地はないと思って逃げ込んできたところ。他に逃げていける地などどこにもなかった。あるとすれば、ラグーナのさらに奥に行くだけ。彼らはそうした。だから、無人の首都マラモッコは簡単に攻略されたが、彼らはフランク軍に大勝利を収める。なぜそんなことが可能だったのか?
現在でもそうだが、ラグーナは大半は人間の腰までの深さ。船の通行可能な場所は、海中に打ち込まれた杭によって示される。その杭をすべて引き抜き、フランク軍の船体を浅瀬に乗り上げさせたのだ。浅い海の上を自由自在に走るヴェネツィア軍の小舟の上から、フランク軍の身動きの取れなくなった大船に向かって、火矢が次々と放たれた。しかもこれが干潮時を狙って実行されたので、フランク軍は消火するにも水がなかった。船から飛び降りた兵士たちは泥に足をとられてよろよろするばかり。射撃演習の的のように矢で殺されていった。
これを境に、ヴェネツィアの首都はリヴォアルト(リアルト)に移された。またこの大勝利から1年後、シャルルマーニュとビザンツ皇帝の間で条約が調印された。そこでシャルルマーニュは、公式にヴェネツィア領有の権利を放棄し、ヴェネツィア人がビザンツ帝国に属することを認めた。しかも、神聖ローマ帝国領内での、ヴェネツィア人の交易の自由さえ認めた。こうしてヴェネツィア発展の基礎が築かれたのである。
(ラグーナを進む大型船 )
(ラグーナの杭)
(シャルルマーニュ=カール大帝)
(800年頃 シャルルマーニュ【カール大帝】の帝国)ヴェネツィアは含まれていない