霊山と修験道と道教〜密教の「即身成仏」と道教の「即身地仙」〜
霊山や九山八海夏霞 高資ー 場所: 霊山
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【国史跡名勝「霊山」(りょうぜん)
山上の大寺院霊山寺と南朝方の拠点霊山城
・・・ 福島県伊達市霊山町大字石田・大石地区、相馬市玉野・・・】
天台宗の拠点☆
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四国随一の霊山での修験苦行 も含まれています。
霊山や川さかのぼる夏霞 高資
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-11924847927.html
【霊山と修験道と道教〜密教の「即身成仏」と道教の「即身地仙」〜】 より
空海が24歳の著作である『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)は、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されている。
しかし、空海が入唐した時代の中国 唐の時代は、道教が国教とされていた。
また日本の仏教は、インド仏教と違い中国の土着宗教である道教思想が混じった中国仏教であった。
その事については「①中国への仏教伝来と道教」で書きました。
また、仏教と道教の混じりあい 道仏折衷思想は「⑤日本に道教が伝わらなかった訳がない」で書きました。
☞「真言」の語のルーツ
真言は密教成立以前から用いられており、古代インドから効能がある呪文として重視されてきた。真言を唱えることで、発願を仏に直接働きかけることができるとされている。真言宗では、心で仏を想い、手で印を結び、三返ないし七返声で唱える(三密)。
真言宗の「真言」はこれに由来する。
真言(しんごん)の「真」という字は老荘の哲学、さらには後の道教の宗教哲学の根本をなす言葉「老君云う、我が命は我に在りて天地に在らず、と。斯れ真言要訣なり」
この宗教哲学用語をインドシルクロードからきた密教が用いて、みずからの教えを真言密教と呼び、この真言密教を支持し保護したのは、道教を国教にしている唐の皇帝たちだった。その最も代表的な皇帝は唐の玄宗(712~756)。
インドから中国に伝えられた『大日経』『金剛頂経』などの真言密教の根本経典が中国語に翻訳され、道教の熱烈な信者である玄宗皇帝の前で真言密教の経典が講義される。
このことは、真言密教も例外なく「インド密教」ではなく、道教と重なりあった「中国密教」だという。
そのインド密教を漢訳された「中国密教」が日本には伝わっている。
☞真言密教の「即身成仏」
即身成仏(そくしんじょうぶつ)は、仏教で人間がこの肉身のままで究極の悟りを開き、仏になることである。(注意ミイラに成る事ではない)
即身成仏の思想は、主に真言密教の教義であり、真言宗において説かれる。空海の『即身成仏義』により確立される。また、天台宗・日蓮宗においても『法華経』に基づき説かれる。
即身成仏は、修行を重ね、さまざまな事象に関する悟りを開くことによって、仏への道を歩み続けて行く求道の宗教である。
即身成仏を開くためには、日常生活の枠から逸する必要があり一定以上の修行が必要とされる。時には比叡山の千日回峰行のように限りなく死に近接することもある。これらの修行の面を重視したのが天台・真言など密教や山岳信仰の流れを汲む修験道である。
この「即身成仏」という中国語、その思想は、やはり伝統的な中国人の考え方で、道教の教理思想と密接な関連を持っている。
☞道教の「即身地仙」
「即身」という言葉は、中国六朝隋唐時代に「即事」「即物」など「事に即すれば~」「物に即して~」など用いられるようになり、「即物」の「物」という言葉は、漢訳仏典では多くの場合「色(しき)」が用いられます。この「即事」「即色」の言葉と思想は、さらに「即身」という言葉と思想へ展開していきます。
悟りの境地をただ単に心の問題として観念的、思弁的に考えるのではなくして、生身の肉体、現実現世の生活に即して実現していくのだという考え方が、斉梁の時代以降次第に有力に成っていきます。
「即事」「即物」「即色」の思想がさらに、肉体を持ったままの永遠の生命の実現を究極的な理想とする道教の神仙信仰と結合して「即身地仙」もしくは、「即身不死」の宗教哲学となります。
「即身地仙」の「地仙」というのは、不老不死の神仙と成る事が出来ても昇天せずに、なお地上の世界に止まっている道教の得道者をいう。
荘子の「神人」の哲学には、超越的な神としての性格を持ちながら人として現実の地上の世界に住み続けており、生身の人間でありながら同時に超越的な神でもある。いわゆる明神(あかつかみ)の思想。このような「神人」の哲学も即身の思想であり、道教の「即身地仙」もしくは、「即身不死」の宗教哲学の思想的源流をなすと考えられるという。
道教では、「即身地仙」ために修行し
密教では、「即身成仏」ために修行するのである。
https://ameblo.jp/shinshin000/entry-11315768133.html より
空海の著書『即身成仏義』には、「仏日の影、衆生の心水に現ずるを加といい、行者の心水、よく仏日を感ずるを持と名づく」とあります。
仏の姿が人の心の水面に映るのが加、修行者の心が仏を感じ取るのが持です。
Facebook・西尾仁 さん投稿記事 [即身成仏](抜粋)
本来の成仏は悟りを得ることですが、日本の死生観では、死ぬと「成仏」すると考えています。成仏とは、時間の軸を失うことなのです。
魂は肉体を離れ、時間のない世界で生き続けます。
では、時間がなくなると、なぜ、悟りを得るのか?
答えは簡単です。
過去の「後悔」=(過ぎ越し苦労に悩み)未来の「心配」=(取り越し苦労に煩わされる)
が無くなるからです。
苦の根源は、「後悔」であり、「心配」です。
その「後悔」と「心配」により、『今』という時間を一生懸命生き切れないのです。
本当に実存しているのは『今』だけです。
『今』には「後悔」も「心配」もありません。
意識を『今』に向けるだけで悟れるのです。
これが、真言密教の極意、即身成仏です。
物事に集中しているときは時間が経つのを忘れることがあります。
それは、今・今・今・今・今だからです。そこに「苦」が入り込む隙間がないのです。