ヒトラー 1936-1945天罰(下)PART2
前回(ヒトラー 1936-1945天罰(下) PART1)では、第二次世界大戦の流れに沿ってヒトラーの行動を紹介しましたが、今回は評伝「ヒトラー」(上・下巻)における、著者イアン・カーショーの考察を紹介します。
まず、ヒトラーを頂点とする第三帝国(*1)の組織についてです。ヒトラー個人の教義や信条を起点として、第三帝国は人種政策や、優生学上の視点からジェノサイドを実行しましたが、それを実行可能にしたヒトラーの権力支配はどのような指示や命令系統の下に行われたのでしょうか?
このことに関しては、1934年2月21日ベルリンで行われた会合の席で、プロイセン農務省事務次官ヴェルナー・ヴィリケンスが話した内容が端的にその性質を語っています。「いずれ実行しようとするすべてのことを総統(ヒトラー)が指示するのがいかに大変か、ということは、誰にでもわかる。逆に、総統の意をくんで働いているならば、各人は、それぞれの持ち場でこれまで最高の働きを見せてきたといえるのだ。。。むしろ、総統の意をくんで総統のために働こうとすることがすべての者の義務なのだ。」(上 P549)つまり、わかりやすく言うと、今の日本政治で耳にする「忖度(そんたく)」ですよね。
実は、このカーショー氏の評伝「ヒトラー」のなかでたびたび指摘されていることなのですが、ヒトラーは例えば、ユダヤ人虐殺についてもその実行に関しては、直接文書にして命令したり、正式な閣議などで公に議論することはしなかったのです。確かにヒトラーは演説などでは、一般のドイツ国民の前で「ユダヤ人の撃滅」とか「抹殺」とか過激な言葉を語り、民衆を常に扇動していましたが、それを実際に実行したのは親衛隊をはじめとする、側近の部下達だったのです。。(ヒトラーは、ごく限られた内輪でも、ユダヤ人の殺害について率直に話そうとはしなかったのです。ユダヤ人虐殺に関する詳細な情報に関して、ヒトラーの前で直接触れることは、たとえ側近達の間でさえタブーとみなされていました。)「ヒトラーの個人支配は、下(部下達)からの急進的なイニシアティヴを誘発し、ヒトラーがゆるく規定する目標と一致する限り、(ヒトラーは)そうしたイニシアティヴを後押しした。このことは競合しあう諸部局のあいだでもそうした諸部局内の個々人の間でも、つまりは体制のあらゆるレベルで競争を生んだ。第三帝国という社会ダーウィニズム(*2)の密林の中では『総統の意志』を先んじて実行し、ヒトラーが目指し望んでいると思われることを進めるべく、命じられる前にイニシアティヴを発揮することが権力と出世の道だった。」(上 P549)
確かに、忖度政治で「人種政策」を行えば、後で証拠が見つからないので、ヒトラーにとっては好都合なのですが、側近たちは周りと調整せず、己の出世欲の為に「我先に、、」、と各自がトップになっている組織単位で行動を起こすので、組織同士でぶつかり合いや不効率が発生します。その規模が大きなものになると、ヒトラー本人の介入でもその制御は不可能になるのでした。「人々は自分がいかに効率的に『総統の意をくんで働いているか』をアピールすることで、成功(と個人的栄達)の機会を最大化することができた。しかし、こうした狂乱した行動は調整されることはなく、調整できるものでもなかったため、ナチ体制下に独特の紛争が生じることは避けられなかった。翻ってこれが、紛争解決のためにヒトラーが個人的に介入することをますます困難にし、ヒトラーは体制全体にとって不可欠の支えであると同時に、(公式の政府機構からは)離れた存在になった。結果として政府と行政が極度の無秩序に陥り、ヒトラーの個人的な気性、非官僚的な行動様式、強者に味方するダーウィニズム的傾向、総統としての超然とした態度などが、これらがすべて絡み合い、超近代的な国家でありながら、中央に調整機関を欠き、政権の長が政府機構にほとんど関わらないという特異な巨大組織形態をつくりだした。」そして、結果的には、ヒトラーの恣意性はますます増大し、極度に個人化された統治形態は、定められた基準と明確な手続き規定を要する官僚制とのあいだで矛盾をきたし、最終的には解決不能に至ったのです。(上P552-553)
そしてこの、第三帝国におけるヒトラーの独特の権力支配を助長したのが、彼が好んだ「秘密主義」でした。ジェノサイドを行うにしても、それが国内の一般国民に知れ渡ったり、またはイギリスなどの敵対国に知れ渡れば、反政府勢力や国際的な「反ドイツ」運動の格好の宣伝材料になることは必至です。
「ヒトラーがユダヤ人ジェノサイドに責任を負っていることに疑問の余地はない。だが公の場でユダヤ人を攻撃し、急進的で極端な暴力の数々を強力に扇動する長演説をぶち、自身の『予言』が実行されつつあるという邪悪なほのめかしをしたにもかかわらず、ヒトラーは一貫して、ユダヤ人虐殺に自分が関与している痕跡を隠そうとし、側近の間でさえ『恐ろしい秘密』を守るため腐心した。」(P516)「その答えの一部は、疑いなく極度の秘密を好むヒトラーの人格にある。 1940年1月の『基本指令』が示しているように、ヒトラーは、情報(の秘密性に関して)は『遂行に。。必要である』限りで、知らねばならない者だけが入手できるということを、支配の一般的原理にしていた。特に(ユダヤ人)絶滅政策の情報は敵にプロパガンダの材料を与えかねず、とくに西ヨーロッパの占領地域で不穏な動きや内部の困難を引き起こす恐れがあった。そして第三帝国の世論に関してナチ指導部は、ドイツ市民はユダヤ人虐殺という甚大な非人道的行為を受け入れないと信じていた。(当然ですが、ドイツ国民の中にも当時のユダヤ人政策に反対する人は大勢いたのです。)ヒトラーは米国に宣戦した直後の (19)41年12月半ば、『絶滅政策について公言するのは得策ではない 、』 という側近のローゼンベルクの意見に同意していた。ヒムラー(*3)は後に親衛隊指導者に向けた演説で、ユダヤ人絶滅政策は、『決して書かれることのない、われわれの歴史の栄光の1ページだ』と述べるに止まることになる。明らかにそれは墓まで持っていくべき秘密だった。」(P549) のです。
また、ヒトラーが自分の政策に行政や司法が介入するのを嫌ったことで、この秘密主義に一層拍車がかかりました。「ヒトラーは そうした(行政や司法の)介入とその結果生じる問題を、自身の異例の書面での許可を必要とした『安楽死作戦』(後述)で経験ずみだった。司法制度と官僚機構を激しく攻撃する(19)42年春の長い演説も、そのような介入にヒトラーが過敏になっていたことを示唆している。」
この第三帝国におけるヒトラーの「秘密主義」には、彼個人の若い時代からのユダヤ人への偏見(今でもたまに話題になることもありますが、歴史上の出来事が、ユダヤ人の陰謀、策謀のもとに起こったとされる「ユダヤ人陰謀説」とか、当時の反ユダヤ主義者に影響を与えた「シオン賢者の議定書」など、といった類のもの)も大きく依拠していました。「ユダヤ人の運命に関するヒトラーの執拗な秘密主義には、深い心理的理由があったと思われる。第三帝国は強大だった。だが今でもユダヤ人ほど強大ではないかもしれない、とヒトラーは常軌を逸した思考の中で考えていたに違いない。『世界的陰謀者』の存在を、彼はなおも熱烈に信じていた。ヒトラーはイギリス、そして何より米国との戦争の黒幕と信じて疑わなかったユダヤ人に立ち向かうすべを、まだ自分はもっていないと考えていた。そして人前でどれほど楽観的に語ろうと、眠れぬ夜の霧の中で、自分が戦争に敗れ、敵が勝つかもしれないという思いを抱いていたとことを、時折ほのめかした。普通のドイツ人のなかには、ナチのプロパガンダを鵜呑みにして根深い偏見を露わにし、戦争のただなかでドイツが敗れた場合の『ユダヤ人の復讐』への不安を口にした者もいた。ヒトラーもまた、心の奥底にそのような不安を抱いていなかったとは信じがたい。自分が『最終解決』(ヨーロッパ・ユダヤ人の肉体的抹殺のこと)について知っているという事実を側近にも隠しておけば、宿敵にそうした情報が伝わるのを防げる。ヒトラーはそう考えたのであろう。」(P549)
実は、「社会ダーウィニズム」の立場からヒトラーは、ユダヤ人だけでなくドイツ国内の(ドイツ人の精神患者、身体的不具者に対する)大量虐殺もおこないました。これが、前述した、「安楽死作戦」です。これは、ヒトラーが第二次世界大戦がはじまった1939年の秋に着手した、「精神障害者や不治の病の患者を殺害するプログラム」で、「生産的な目標」のために使える資金を、社会の負担と目された人々の介護に費やすのを避けるため、ナチがこの ”政策” を実行したのです。(この時、ヒトラーは優生学上不利な患者の殺害任務を遂行する組織を秘密裏に設立しようと試みたのですが、結局は(明白な)書面による許可がない限り、その設立は困難であったため、次のような内容の許可証を発行しました。「特に指名した医師の機能を拡大し、病状を最も厳密に判断した上で、人智の及ぶ限り不治であると判断される患者を安楽死させることができるようにする権限を、全国指導者ボウラーとブラント医学博士に与える」。この時ヒトラーはこの書面の作成をとても嫌がりました。ヒトラーはこの文章が当時でさえ関係者に波紋を起こすことがわかっていたからです。)
では最後に、「ヒトラー」(下)「終章」から著者の当時のドイツ人とドイツ社会の責任に関する考察を一部紹介します。ヒトラーの自決後、戦争が終わり、ヒトラー政権の側近達は、ヒトラー同様、自決したり(ゲッペルス、ヒムラー、ゲーリング。。)、ニュルンベルク裁判などで死刑判決を受けたり、中には、悪運強く戦後、裁判に召喚されたが健康状態の悪化を理由に、審理を免れ、自宅のベットで生涯を終えた者(へウムノ絶滅収容所の創設者、ヴィルヘルム・コッペ、元帝国弁務官、ヒンリヒ・ローゼ、、)もいます。しかし、そいうったヒトラーの体制下での行動の責任を取ることを余儀なくされた者のなかで、罪の意識や深い悔恨や悔悟を示したものはほとんどいませんでした。彼らの多くは、いったん責任を問われる立場になると、自分の責任をすべてヒトラーの精神異常と犯罪性に転嫁したのです。彼らはヒトラーを「彼らの信頼を裏切り、傑出した弁舌の才によって彼らをそそのかし、自身の野蛮な計画の無力な共犯者にした」として、(彼らの罪の)スケープゴートにしたのです。
このことは、(多かれ少なかれ)当時の多くの普通のドイツ人にも当てはまりました。彼らは自分たちが行った行為(または、不作為)は、ヒトラーのいわゆる誘惑力のせいだと説明したり、弁明しました。しかし、著者はこれらの反応はどれも見当違いだとします。(下P860)「なぜなら、十分な根拠に基づいて示されているように、ヒトラーが率いたナチ体制は、それが続いた十二年のうち大部分の期間、その意思を敵対する多数の国民に強要する、狭い支持基盤に依拠した専制ではなかったからだ。(つまりドイツの多くの国民がヒトラーを支持したのです。)それに戦争末期の「狂気による暴走」まで、体制のテロは(少なくともドイツ国内では)とくに特定の人種的、政治的な敵を標的としており、決して無作為、かつ恣意的に行われたものではなかった。他方で、体制との少なくとも部分的な合意は、あらゆる社会層に幅広く存在していた。ナチ時代の無数のドイツ人のメンタリティと態度を一般化しても、その妥当性には限界がある。唯一、一般的に言えるとすれば、当時の大多数の国民の意識や行動を表す色は、おそらく完全な黒か白というより、多様な陰影をもつ灰色だということだろう。。」(下P860)
「そして、ヒトラーが政権を奪取する過程でもたらした功績は、ヒトラーだけでなく大多数の非ナチ・エリート(財界、工業界、官僚機構、国防軍)の強力な後押しによって実現したのである。ナチ運動の上層部を除いて、彼らは権力につながるほぼすべての道を支配していた。確かにその合意は表面的で程度も異なっていたが、それでもこのような合意は戦争の中盤まで、ヒトラーが依拠し利用できる、きわめて広範で強力な支援の土台を提供したのである。」(下P861)
「ヒトラーが引き起こした大量虐殺は、きたる時代に二十世紀を特徴づける出来事と見なされるだろう。それは正当な認識である。ヒトラーがその栄光を追い求めた帝国は、最後には破滅し、その残滓(ざんさい)は戦争に勝利した占領国によって分割された。ヒトラーが宿敵とみなしたボリシェヴィズムは、帝国(ドイツ)の首都を占領し、戦後は欧州の半分を支配した。ヒトラーはドイツ国民の生存こそが自分の政治闘争の動機だと語っていたが、そのドイツ国民さえ、ヒトラーには最終的に不要となったのだ。ヒトラーが自身もろとも破滅させようとしたドイツ国民は、ヒトラーさえも乗り越える力があることを示した。破壊された町や村で生活が再建されても、ヒトラー時代に焼き付けられた道義的な烙印は残るだろう。それでも幸いなことに、時と共に新たな価値観に基づく新しい社会が、古い時代の廃墟から次第に姿を現すだろう。なぜなら、ヒトラーの支配は、世界強国を目指す民族至上主義的で人種主義的な野望とそれを支えた社会的、政治的な構造が、完全に破綻したことを徹底的に示したからである。」(下P863)
この評伝「ヒトラー」は上・下巻それぞれ上下二段組み資料込で、801ページ、1,144ページありますが、著者のヒトラーに関する当時の資料、文献を渉猟する量、研究する熱意には頭の下がる思いがします。また、近年、ヒトラーに関する新しい資料が昔の共産国からも見つかっているようで、今回この作品にはその資料も十分に活かされています。例えば、ヒトラーが生活していた総統地下壕での自決に至るまでの状況も、筆者があたかもそこで実際に目撃したかのようで、その具体的な描写力が際だっています。ちなみに、「競争戦略」が専門の一橋大学教授、楠木 建氏は本書について、「一読して驚嘆した。『全人類必読の遺産』と言ってもいいほどの価値がある一冊である。」と評しています。
(*1)第三帝国:神聖ローマを第一帝国、ビスマルクの帝政ドイツを第二帝国とし、その後を継ぐドイツ国民による3度目の帝国として国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)統治下のドイツ(ナチス・ドイツ)で用いられた言葉。(*2)社会ダーウィニズム:ダーウィンの生存競争、適者生存、優勝劣敗などの外苑ンを人間社会にあてはめ、それに沿った政策を主張する立場。(*3)ヒムラー:親衛隊や秘密警察ゲシュタポを統率したヒトラーの側近の一人。