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出雲神話

2019.10.05 05:04

冬の日の弁天島に吞まれけり  高資

たまかぎる冬の日を呑む沖の島  高資ー 場所: 稲佐の浜

神在月にはこの浜に日本中の神々が集まって出雲大社へ向かいます。沈む日を祀るに相応しい聖地ですね!!

https://www.travel.co.jp/guide/article/22534/

【全国の神様が上陸するパワースポット!島根「稲佐の浜」で神話を体感】

真っ白な砂浜と美しい海岸線が続く「稲佐の浜(いなさのはま)」。ここは日本のなぎさ100選にも選ばれている景勝地であり、神話の舞台にもなっている海岸です。旧暦10月になると全国の神さまが海路で出雲にやってきて、人々の縁を決める大会議を行います。その際の上陸地点となっているのが、この「稲佐の浜」なんです。

現在でもその伝説は「神迎え神事」として受け継がれ、旧暦10月10日の夜(平成28年は11月9日になります)、浜にかがり火をたいて神さまをお迎えします。普段は人の気配もまばらな「稲佐の浜」ですが、その日は多くの観光客に見守られ、神事が執り行われます。派手な盛り上がりはありませんが、日本人として1度は見ておきたい厳かな雰囲気の祭祀になっています。

稲佐の浜は神さまたちが集まる場所であると同時に「国譲り神話」の舞台にもなっています。国譲り神話とは、地上を統治していた大国主命(おおくにぬしのみこと)が、神々の住む高天原(たかまがはら)からの使者を稲佐の浜で迎え、最終的に国を譲り渡す決定をした出来事を指します。

稲佐の浜から歩いて5分ほどのところにある「屏風岩(びょうぶいわ)」はその話し合いが行われた場所。この岩を背にして、高天原から派遣された武甕槌神(たけみかづちのかみ)と大国主命が国譲りの論議をしたと伝えられています。現在は付近が民家となっているため奥には入れませんが、「屏風岩」を外から眺めることができます。


稲佐の浜を見渡したときに、一際目立つ大きな岩が「弁天島」。かつては海のなかにあったため、その名のとおり“島”という呼称がピッタリでした。実際に昭和40年ごろまでは、臨時で架けた木橋を使ってでしか弁天島に渡れなかったそうです。

ところが潮流の変化や川の環境の変化により、だんだん島の周りに砂がたまるようになり、今では浜と陸続きになっています。周囲の環境は以前とは違いますが、その美しさは昔と変わらないので、ぜひ1度ご覧になってください!

facebook・いと きょう‎ ― 縄文古代文字を楽しく書く会 への投稿記事

出雲の海底遺跡。これは素晴らしい‼️最後までご覧ください。

https://mlsenyou.exblog.jp/18298751/  

【稲佐の浜(稲狭の浜)~国譲りの伝説と古代史~】  より

出雲大社を出て車で少し走ると、稲佐の浜(稲狭の浜)という砂浜に出る。

ここは、日本神話でもかなり有名な「国譲り」の交渉があった場所とされる。

国譲りの話は、古事記に書いてあるが、日本書紀にはほとんど(まったく?)触れられていない。これは、古事記と日本書紀の性格の違いによる。

古事記は朝廷の権力の正当性を国内に示すために、古代からの神話を中心に作られたもの。

日本書紀は国外に向けて日本という国をアピールするために歴史中心に作られたもの。

これらの違いから、国譲りの話(出雲神話)は日本書紀に載らなかったらしい。

どっちが面白いかというとのは人それぞれだろうが、私は物語性が高い神話が多く含まれている古事記の方が面白いと思う。何しろ、古事記に書かれている日本神話に魅かれて出雲に来たのだから。

国譲りの話をざっくり書くと、こんな感じ。

1.大国主(オオクニヌシ)という国つ神(クニツカミ・地上の神様)が葦原中国(アシノハラノナカツクニ・日本)を統一した様子を見て、天照大御神(アマテラスオオミカミ)がこの土地は高天原(タカマノハラ・天の国)によって治めるのがふさわしいといい、高天原の神様である天つ神(アマツカミ)を派遣した。

2.天と地の神々の間で裏切ったり争ったりすったもんだした結果、武力に優れた建御雷(タケミカヅチ)が大国主の子神であり国譲りに反対していた勇猛な建御名方(タケミナカタ)を諏訪に追いやって争いに決着をつける。

3.国譲りを再度迫る建御雷に対し、大国主は高天原の神々が住む宮殿に匹敵するくらいの宮殿を出雲に建ててくれれば、国を譲ると交渉する。

4.天照大神がそれを了承し、出雲大社を作ると、約束通り大国主は出雲大社に籠って高天原に国を譲った。

ちなみに、稲佐の浜は稲羽(因幡)の白兎の伝説の場所でもある。因幡の白兎の話は、白兎がワニを騙したせいでひどい目にあったというものだが、その後日談として、大国主は白兎を助けている。

さて、話を国譲りに戻すが、上記の国譲りの話を読んでみると「譲る」なんて穏やかな言葉ではとても言い切れないくらいの出来事があったように思える。

神話は古代にあった歴史が元になっていることが多々ある。もし、この神話が史実に基づいて作られたものだったとしたら、出雲神話は高天原が出雲を征服した話ということになるのではないだろうか。

ここで、高天原がどこを指すのかが問題になってくる。九州の勢力とか渡来人とかいろいろあるが、まあ、どっかの国が出雲国を征服し、大和朝廷になったんじゃないかということ。

出雲国は豊かであり鉄が取れる場所でもあったため非常に勢力の強い国だった。そのため、反乱が起きるのを大和政権は危惧していた。大和朝廷は出雲地方の後々の反乱を恐れ、滅ぼされた民の怨念を鎮めるために作ったのが出雲大社なのだろうという考えがかなり有力視されている。

※ちなみに、国譲りの際に反対をして最後まで争ったタケミナカタだが、この神様が封印された諏訪地方の諏訪湖には、タケミナカタを祀る神社がある。この神社で執り行われる儀式は、周辺の神社のような農耕民族系とは異なり狩猟採集系らしい。こういう儀式の違いからも旧勢力と新勢力の抗争の歴史が感じられる。

・・・少し話が脱線したので戻す。

そして、「出雲大社」の記事で触れた二拝四拍手一拝の意味というのも、ある説ではこう解釈されている。

通常よりも柏手を多く打つことで、出雲大社に封じ込めている大国主に対して「ずっとここに籠り、復活してはいけない」と言い聞かせている。

元々の意味がこういう理由だったとしたら、参拝客は知らずに古代の神様(実在した古代の一勢力)を封じ込めているということになる。なんだかぞっとする話なのでした。なんだか、トルコ編で書いた「イスタンブール~地下宮殿のメデューサの謎を勝手に推測~」に似た背景だな。

まあ、今はインド方面から伝わってきた神様と合体して福を呼ぶ大黒様になったわけだから、深いことは考えずに縁結びや家庭の幸せとかを祈りつつ手を合わせればいいと思う。メデューサもナザール・ボンジュというお守りに形を変えることで、かつて地母神であった名残を残しているし。


http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=261573  

【稲羽の素兎~宇佐氏(宗像氏)と和邇氏(安曇氏)~】  より

梅原猛氏は、因幡の白兎神話(本当はどこにも白とは書いておらず素兎らしい)は、出雲の話ではなく、この話は、玄界灘の孤島の沖ノ島の話であるとしています。 

また、古事記には、「此れ稲羽の素兎なり。今者に兎神と謂う。」とあり、この兎は神であり、兎は宇佐岐であり、日本書紀には宗像三神は宇佐島にいる、つまり宗像三神のおられる三つの島は宇佐島とよばれている事に注目してます。

宗像大社に伝わる神事として、10月に行われる「みあれ祭り」がありますが、沖ノ島から、神を大島と田島に迎える儀式で、宗像神社の氏子である多くの漁師が参加する先頭に、この年できた新船二艘が立ち、大島と田島の祭神を乗せます。

その二艘の祭神が乗った船を、多くの船が守護するような形で、船団は沖ノ島を発し、大島、田島にやってきます。 

氏は、このありさまが、ワニが海に並び、その上をウサギが飛んでゆくようにも見え、その話そのものも、稲羽のウサギの話に似ており、島(沖ノ島)から陸への移動の祭りであると述べておられます。

沖ノ島には縄文時代から人が住んでおり、何故わざわざ、引越しせねばならないかと言えば、氏の仮説では、白村江の戦いのときまで、ここには宗像一族が住んでおり、その敗戦から唐がいつ攻めてくるか分からないので、宗像一族はこの島から引き揚げねばならなかった。

それを裏付けるかのごとく、沖ノ島の祭祀遺物は、7世紀半ばを過ぎると、めっぽう少なくなる事をあげています。

すなわち、ウサギは兎神、すなわち宇佐の神、つまり宗像一族であったと推測、しかし宗像一族だけの力では引き揚げが出来ないので、多くの船をもっている安曇一族の力をかりて、引き揚げは無事終わったものの、この引き揚げにあたってトラブルがあったのではないかとしています。

ウサギ(宗像一族)は、ワニ(安曇一族)に言います。お前の族と、俺の族とどちらが数が多いか? すなわち、沖ノ島を本拠地に、大島、田島に拠点を持っていた宗像一族、対馬と九州の志賀島を本拠にしていた安曇一族は、職業が似ているだけに多年にわたり、協力関係もあるものの、様々な対立があったのではないかと思われます。

ここでは、詳しくは紹介しませんが、万葉集にも宗像一族と安曇一族についてのトラブルを伝えているようです。

安曇はお人好しで、宗像に利用されるというものです。

さすがは、梅原先生で、奥の深い洞察力ですが、今日、日本に稲作、味噌、醤油、納豆餅、などを伝えたのは江南の苗族であることが知られ、彼らが鵜飼や漁労をも日本に伝えた事が知られており、実は天岩戸伝説、シロウサギ伝説も彼らに既にあり、蛇と鳥信仰、高床式住居も彼らがルーツであることから、私はシンプルに苗族が海流に乗って北九州、出雲にそのような話を伝えたものである可能性は高いと考えております。

このような高床式や千木は、南アジアの稲作を行う湿地帯である中国江南地方やタイなどの特徴で、これらが神社建築の基礎となっているのは、やはり江南から海流に乗ってやってきた人々が稲作と漁労をなりわいとする今日の日本人の基礎をつくったのではないでしょうか。ですから、天孫降臨の場所が南九州の日向であることも説明できます。

日御碕神社  奥殿にはスサノオが祭られている


叢雲を斬れば身ぬちの大蛇かな  高資

八重垣剣閃く春の闇  高資

草薙剣を得てや風光る  高資

 須佐之男命の大蛇(をろち)退治・武蔵国一之宮大宮氷川神社ー 場所: 氷川神社


たまたま大宮の氷川神社をお参りしたらこの神楽に遭遇しました。ちょうどこのあと櫛名田比売を娶り<八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を>と歌っていました。