6月4日 小布施町 → 長野市[善光寺・川中島古戦場]→ 千曲市[長野県立歴史館]→ 上田市(66km)②
今日は初夏のような陽気。
遠くの山々の上から、入道雲が顔をのぞかせている。
ほわほわと風そよぐ、黄金色に光る麦畑。
隣には、植えられたばかりの水田も。
千曲市にある「長野県立歴史館」を見学。
長野県の総合的な歴史が知りたくてやって来たが、どうやらここは、県内の「人々の暮らし」の歴史に重点を置いた博物館ということらしい。
ということで、今回は気になった展示物をピックアップ。
まずは変わった形の土器。
動物の装飾ということだが、何の動物かは不明。
次は、茅野市で発掘された、国宝「縄文のビーナス」(レプリカ)。
続いて、やはり茅野市出土の国宝「仮面の女神」(レプリカ)。
なんとなく宇宙人っぽい感じ。
どちらも下半身が、ずんぐりとしていておもしろい。
その左隣の上半身だけの兵士も気になる。
今度は、土偶というより泥人形に違くなった、佐久出土の土器。
ボディービルダーのような決めポーズと、肉体美を自慢するかのようなドヤ顔が印象的。
そして、土器に添えられた人面の数々。
またまた、顔である。
この人や顔に対するこだわりは、この地域特有のものかもしれない。
次に、気になったのは、このベルトのデザイン。
これはひと昔?、ふた昔前に流行ったアイビー系のベルトでは?
デザインは、数年後に一周するというが……。
「信濃の街道の発達」について
江戸時代初頭、街道の宿場に置かれた問屋は、荷継ぎ(リレー)式の 輸送を独占していた。
Wikipediaによると、
1601年、徳川家康は、東海道,中山道に多くの宿駅を指定し,36頭ずつの伝馬を常備させ、その後、幕府は中山道 50頭と定める。
宿場は人馬を常備して公の業務に備える義務も負っていた。
公の業務には佐渡金山で産出された金銀の輸送業務、朱印状などの公文書の輸送業務、そして加賀藩の前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するように人馬を手配するといったものがあった。
これらの業務負担は決して軽いものではなく、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。
伝馬を使用できるものは幕府の公用,諸大名,公家などの特権者であったが,これには無賃の朱印伝馬と定賃銭を払う駄賃伝馬の2つがあった。
信濃・甲斐は中部山岳地帯が国内を貫通し、信濃においては河川は水運に向かなかったために山越えが楽な馬による輸送に依存せざるを得なかった。
伝馬の輸送
公式の伝馬は、隣接する宿場町間のみの往復に限定され、宿場町ごとに馬を替えなければならず、更に、駄賃や問屋場口銭を徴収された。
中馬の輸送
これに対し、信濃では、中馬と呼ばれる「農民が荷主から送り先まで、直接馬や牛で運ぶ仕事」が盛んになり、信濃各地の産業は、この中馬の活動と結び合って発達した。
中馬は普通1人で3・4頭の馬を牽引し、100貫前後の荷物を1度に運んだ。
料金は原則として到着先で支払われるが、荷預の際に荷物代金の7割を「敷金」名目で保証金として預かる。
中馬は宿場町で馬を替える必要がなく、手数料を取られたり、荷物の積み替えの際に荷物を破損する可能性が低いため、急激に成長していった。
この模型は、馬子が馬を引いている様子。
中馬は、地域ごとに特色があり、伊那街道では四頭だてが主流だったという。
中馬によって、信濃の産物が各地に送られ、同時に各地からも大量の物品が入ってきた。
中でも塩は、太平洋側と日本海側から川を船で遡り、中馬によって信州各地隅々にまで届けられたという。
飯田町は、中馬の拠点とされ、さまざまな物資の中継地点となっていた。
中馬の拠点・飯田宿
飯田藩の城下町である飯田宿は、中馬の主たる根拠地として荷問屋が設置され、信濃国を通過する荷物は、ここで一括して宿継ぎを行うことで中馬の負担を軽減させた。
一方、伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受けただけではなく、江戸幕府の公的輸送負担を課せられて二重の意味で苦しんでいたため、中馬に激しく反発した。
明和裁許状
1764年、幕府は村ごとに中馬の数(679村計18768匹)と、輸送できる物品及び活動範囲を定め、伝馬制の維持への協力を条件として中馬の公認を行う。
しかし、その後も、度々、中馬によって脅かされ中馬と宿場、他にも同等の権利を求めた村々の農民との争いが勃発していたという。
小林一茶の故郷・柏原も、宿場としての死活問題に直面
一茶の父・弥五兵衛は中農であったが、柏原宿の伝馬屋敷内の家を購入し、荷物輸送を副業としていた。
柏原は北国街道の宿場町であったが、北国街道の東隣には川東道という街道があった。
荷物の輸送は、正規の街道を使用するとこう決まりがあったが、宿場ごとの荷の引継ぎで手数料が嵩み、手間もかかる北国街道を避け、安さ速さ利便性で川東道の中馬に人気が集まるようになっていた。
荷扱いの減少に見舞われた北国街道の宿場町にとっては死活問題となる。
1805年、柏原宿など北国街道の3つの宿場町は江戸道中奉行に川東道を用いた荷物輸送を禁じるように訴える。
そこで、江戸住まいの一茶が江戸詰めの柏原宿関係者のサポートを行い、故郷の大事のために一肌脱ぐことになったという話が残っている。
信濃の街道は、日本物流には欠かせない物資輸送路であった。
信濃の街道を発展させた立役者として、「善光寺詣り」の人々の存在も欠かせない。
善光寺には、全国各地から参拝客が訪れ、信濃の道はすべて善光寺へと繋がっていた。
さしずめ善光寺のある長野市は「信濃のローマ」はということか。
長野県の県庁所在地である長野市は、県内中心部でなく北部に位置する。
長野県の中央には何があるかといえば、山脈である。
この山脈によって西側と東側に隔てられ、松本から小諸へと向かおうとすれば、険しい山越えが待っている。
だとすれば、県内どこからも行きやすい場所がいい。
北部の長野市が県庁所在地では、さぞかし南部の人は不便であろうと思っていたが、交通の便を考えると、長野市はベストポジションといえそうだ。
他にも、いろいろ展示物があったが、KY夫婦の興味を引いた内容についてフォーカスしてみたので、今回はこんな感じ。
しかし、この博物館。
「長野県」と冠がつくので、ここに来れば県内すべての歴史や文化がわかると思ってやってきたが、ここは他県と異なり、どうも勝手が違う。
なぜなのかと思いながら館内から出ようとした時、ホール内でこんな掲示物を発見した。
長野県は、博物館数が全国一位‼︎
つまり、一極集中ではなく、各地域や分野別に細分化されているということになる。
KY夫婦のように、日本全国を回る者にとっては困りものだが、各地を回る楽しみが増えるというのは良いことかもしれない。
時間があれば、県内各地の博物館を見て回りたいところだが、なかなかそうもいかず。
川中島にあった「長野市立博物館」も覗いてみればよかったと後悔するKY夫婦であった。