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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

F.CHOPIN、ショパンの血と涙、そして出版へ

2019.06.17 06:36

1842年の5月ショパンはグシマーワに出版の交渉の原稿3つのマズルカをノアンからパリに送り、それをグシマーワがパリからウィーンへ送ってもらうようにショパンは頼んで以来、ショパン自身が綴った言葉が半年もの間どこにも残っていない。

父ニコラスが10月にフレデリックと1度は連絡を取り合っているため、フレデリックの気持ちは父ニコラスの言葉から伺い知ることは出来るが、フレデリック自身の言葉は現存していない。この頃からは、フォンタナがパリを離れたため、ショパンはノアンからはグシマーを通して郵便物を送り、原稿の校訂は軽蔑していた弟子の娼婦ロゼールに頼むしかなかった。

パリで新しい生活を始めたショパンは、11月に入ってからも、ショパンの言葉は残っていない。どういう訳か、カール親子が書いた、晩餐会でのショパンの様子が残されているが、これは、どこまでが事実かは、カール親子の特殊な関係上から見ると父親フェルチの言葉は身内の欲目もあり信憑性が欠けるのだ。

しかしながら、その様子から読み取れることは、ショパンがロスチャイルド家やアポ二イ伯爵など社交界で親交を持ってきた有力者をカールに紹介するようにカルクブレンナーがショパンに圧力をかけたのである。その背後にいたのがリストだった。アポ二イ伯爵はハンガリーの貴族の出身でリストがショパンの邪魔をするためにカールを送り込んだのである。

ショパンはマルリアニの監視の元で、晩餐会を自宅で開く羽目になった。ショパンは断りたくても断れなかった。ショパンはパリに来て以来、ポーランド人の亡命者を集めた夜会をサンドと主催してきた、そのショパにとって大事な夜会にカール親子が乗り込んで来るようになった。

カールの父親はハンガリー人であった、その父親(子供と父親の年齢が合わない。母親は不明)がハンガリーの両親(本当に両親かは不明)にショパンの社交界でのことやポーランド人の集まりのことを報告していた。その報告書はリストへ流れていたのであった。

リストがカールを使ってショパンに嫌がらせをすることは続いていた。

11月のある日、カールがレッスンでショパンのコンチェルトホ短調を弾いた。

その時のエピソードをカールの父フェルチは自慢げにハンガリーの両親にまたもや報告した。カールがなぜこの曲を弾いたかは、それはカルクブレンナーの仕業なのだ。実はカールはカルクブレンナーのところへも行っていたのだ。このホ短調はカルクブレンナーに献呈したくなかったがショパンの意思に反して、カルクブレンナーに献呈され、カルクブレンナーの悪意により改ざんされた遺恨がある曲なのだ。そのようなことは恐らく知らないカールの父親フェルチだった。フェルチはカールが弾いたホ短調を聞いたときのショパンの様子を語った。

「私が気づいたとき、ショパンは沈黙して口もきけなかった」

「ショパンの気まぐれで、何もいわないのかと思い、ショパンを非難しようと私はした」ショパンが何も言わず眉をひそめていたため、フェルチはショパンに早く何かいいことを言ってくれと、威圧的態度を取った。

フェルチ親子のパトロンはハンガリーの伯爵であり、それはリストとの繋がりである。そして、リストは愛人ダグーと共にパリのスペイン領事のマルリアニ夫人と親交が深いのである。

ショパンはここでも追い詰められるのである。フェルチはショパンが自分の手を取ったと語っている。しかし、それは不自然である。フェルチがショパンの手を取り、「早く、大きな権力者のいる我々親子に何かいいことを言ってくれ」と、ショパンに催促し、ショパンを威圧的に追い詰めているのである。ショパンにとってこのホ短調は自分の命のようなものである。その曲は不誠実な改ざんで自分の書いた原型が失われてしまった個所があることと、ポーランドの最愛のコンスタンツィアに献呈したかった曲なのである。それが、ショパンの意に反してカルクブレンナーへの献呈になったしまった過去があるのだ。

ショパンはいつも言ってきた。「自分の曲は自分が血を流した自分の痛みが伴っているのだ」と、その曲を容易にめちゃくちゃに弾かれた屈辱…。

けれど、それを言葉に発することは許されないショパンだった。ショパンは作曲家であるが演奏家でもある。その大事な手をフェルチにきつく握られ詰め寄られたのだ。フェルチはショパンを睨んだ、ショパンの心には悔しさと虚しさの涙が頬を伝ったのである。

しかし、このままでは済まされないことを悟っているショパンは気を取り直して、その場を繕った。ショパンは自分に残された自尊心を曲げずに、そして、リストとカルクブレンナーの反感買いポーランドの家族がひどい目に遭わされないために、カールの方を向いてショパンは恐らく言ったのだ。

「坊や、いいところもあったが、その他はよくなかった」その他フェルチが言うように「優れているところもあった」と、ショパンがもしも言ったのなら、それは制裁に遭わないための防御であり、改ざんされていない個所の自分が書いた原型が曲として素晴らしいとショパン自身を褒めているのである。

もしくは、ショパンが誉めなかったため、その腹いせに、フェルチが付け足したのであろう。どちらにせよショパンは「その他は、よくない演奏です」とカールをきっぱり否定した。

12月に入るとショパンはスケルツォ作品54、600フラン、バラード作品52、600フラン、ポロネーズ作品53、500フランで提供する交渉を、ライプチッヒのブライトコップフ・ウント・ヘンテル出版社へ宛てて一筆したためた。

ショパンは、ノアンからパリに戻って、住まいが変わり、公の場で演奏することもフィリップ王の前で演奏し、褒美を断り、その後、プレイエルで演奏した収益金はベートーヴェン記念銅像建設のための募金に寄付をしたため、レッスンで得るお金以外は収入がなかった。

そのために、カールのことは、権力者がショパンをスパイするために送り込んで来た少年であることを感づいているショパンだったが、その代わりに高い金額設定でレッスンをしていたショパンだったのだ。お金がないショパンは仕方がなかった。しかし、カールのホ短調コンチェルトの屈辱で、たとえお金をもらってもショパンはこんな目に遭わされるのなら、早くこの不審者親子との関りは足を洗いたいと沸々と思っていた。

それでも、ショパンは作曲に専念していた。大作を次々と書き上げ、1曲の金額を以前よりも値上げして交渉に入った…。


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フレデリック・ショパンの最愛の人コンスタンツィア・グワドコフスカ=グラボフスカ

1810年6月10日にワルシャワで生まれました。16歳の時、彼女はワルシャワ音楽院で歌い始める。1829年ショパンは学校でのコンサートで歌う彼女に惹かれた。コンスタンツィアはオペラ歌手でした。二人はウッチキエ県の田舎で過ごしたことがあった。コンスタンツィアはショパンと婚約しました。彼女はフレデリック・ショパンに大きな影響を与えた。ショパンは友人ティトゥスに「私の理想の女性」と話した。ピアノ協奏曲ホ短調作品11、ヘ短調 作品21は彼女の影響で書かれたと言われている。


ジョルジ・アポニー (1808年12月29日 - 1899年2月28日)アポニー貴族の出身。

1846年から1848年までハンガリーの首相首相を務めたハンガリーの保守政治家。

1848/49年の革命の勃発のため失敗した。ハンガリーでの革命によって失業した。

彼は1858年からハンガリー科学アカデミーの会員を務めた。 1861年に皇帝 フランシス・ジョセフ1世が1861年のハンガリー国会を召集したとき「旧保守派」グループのリーダーとして、1862年以降、オーストリア -とハンガリー妥協の発展に参加した。