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「宇田川源流」 来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台京都亀岡で巨大な居館跡が見つかる

2019.06.18 22:04

「宇田川源流」 来年の大河ドラマ「麒麟がくる」の舞台京都亀岡で巨大な居館跡が見つかる

 今週は本当はたくさん書かなければならないことがあるのだが、何となくその内容を書きたくない。その内容は、なんといっても安倍首相の現役首相としての41年ぶりのイラン訪問と、その時に起きたホルムズ海峡沖のタンカー襲撃事件である。ただこれに関しては、他のレポートなどで詳細を書いているので、どこかの機会で簡単なブログレベルの話を書こうとは思っているものの、あまりしっかりとしたものを書こうとは思っていない。

そのほかにも習近平国家主席が北朝鮮を訪問するというような話もある。確か明日からゆくということになっているのであるが、アメリカと両天秤をかけている北朝鮮がどのような態度をとるかというのは非常に楽しみだ。この辺は、明日以降、たぶん来週の話になり、来週になるとG20が始まるので、その中での習近平・プーチン会談や、日米首脳会談、そしてトランプと習近平の間にある確執など、様々な内容が出てくるような感じになる。

その辺をすべて「書かず」に、先に大河ドラマや歴史に関する内容を書いてしまうというのは、なかなか面白いところではないのか。まあ、ブログなんてそんなものであるような気がする。

海外の重要な話よりも、やはり国内のことを優先して話を進めたい。私はそういう人なのである。

今回は、亀岡市に「南北朝時代の遺構と思われる居館跡が出土した」ということである。南北朝でなんで明智光秀の大河ドラマと関係があるのか、ということであるが、当時の人々の精神状況から考えれば、例えば足利尊氏が旗揚げしたことから丹波は足利将軍家の最も近い民であると思っていたとか、様々なことがこのことから見えてくるのである。つまり、明智光秀が丹波を統一した時の丹波の国の人々の感覚が、今までのものとは全く異なるということになるのではないか。

巨大な堀持つ居館跡出土 有力武将の陣か 京都

 京都府亀岡市の犬飼遺跡から、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて設けられたとみられる幅約8メートルの巨大な堀を持つ居館跡が出土したと、府埋蔵文化財調査研究センターが12日、発表した。堀は防御用とみられ、有力武将が設けた陣だった可能性があるという。

 国の整備事業に伴い調査したところ、東西約60メートル、南北約30メートルの範囲で逆L字の堀跡が東西に2つ並んだ形で出土。区画内からはそれぞれ大小の建物跡が1棟ずつ出土した。

 堀は最大幅約8メートル、深さ約2メートルのV字形で、この時代では最大級の規模。水が1メートルほどの深さで張られていた跡もあり、同センターは出土した土器などから「13世紀末から14世紀前半にかけて防御用に設けられた可能性が高い」とみている。

 この時期は鎌倉幕府の力が弱まる一方、楠木正成ら地方の武士が力をつけ始めた時代。近くには足利尊氏が幕府を討つために挙兵した篠村八幡宮があるなど、足利氏ゆかりの地としても知られる。

 中井均・滋賀県立大教授(日本考古学)は「時代背景から、当時の有力な武将が一時的に設けた陣の可能性はある。遺構が足利方か南朝方、鎌倉幕府なのかは今後の検証が必要」と話している。現地説明会は16日午前10時半から。

6/12(水) 21:57配信 産経新聞

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190612-00000598-san-cul&fbclid=IwAR2Vhtwd01KgxdOT2okKOqPpOGgU8AvTHCNF1kAMORcUh_Lc6k4hosjpDN0

 さて、大きな建物があるということはどういうことであろうか。それは「それを建築するだけの人員動員力が、その館の主にあった」ということに他ならない。もちろん、13世紀から14世紀の鎌倉幕府末期から、南北朝に分裂していた時期の威光であったとはいえ、丹波国にそれだけの居館を作ることのできる豪族がいたということになる。

ということは、丹波国人衆が、その大豪族の下に参集・統一していたということを意味し、その大豪族に反対する勢力であろ信長軍、つまり明智光秀は、敵対される存在であったということが言えるのである。

今までは小さい豪族が集まっていたというような解釈であったが、そうではなく、一つの豪族の「家老クラス」当時ならば「守護代クラス」の豪族が横に連携をとって、大豪族がいつ帰ってきてもよいような準備を整えていた、もっと言えば留守宅を守っていた、ということになるのではないか。

「時代背景から、当時の有力な武将が一時的に設けた陣の可能性はある。遺構が足利方か南朝方、鎌倉幕府なのかは今後の検証が必要」<上記より抜粋>

学者はこのように言うが、当然にこの地域は当時の室町幕府に近い、将軍に近い人物であることが容易に想像がつく。もちろん、学者は想像でものを語ってはいけないのであるが、我々市井の歴史家で歴史小説家は何を言ってもかまわないという前提で物事を話してみると、足利尊氏が後醍醐天皇も下で鎌倉幕府の打倒の軍の旗揚げを行ったのが亀岡市の篠村八幡宮であるし、また、織田信長に追われた十五代将軍足利義昭は、丹波国の守護代である内藤如安の居城八木城の本丸に馬で登っている。城というのは当然に、防御上の問題から馬などで簡単に本丸に行くことのできない構造になっているにもかかわらず、山の山頂まで上がっているということになる。このほかにも、余部城の福井氏は、足利将軍の血統が一族に入っていることを誇りとして、明智光秀の大軍に対抗しているのである。

つまり、足利将軍家に対する丹波国の忠誠心はかなりのものである。将軍をすでに追放して幕府を滅ぼした信長の感覚と、それを復古しようとしている丹波国人衆、まさにその感覚の違いが明智光秀の苦労となり、そして、その国人衆をすべて平らげた光秀に、今度は死ぬまで、つまり山崎の合戦で滅びるまでつき従うのである。

そのような感覚から考えれば、この居館跡が足利系の誰か、つまり将軍家に近しい人か、あるいは、南北朝での北朝を支える人々であったのではないかという気がする。

遺構を調査するというのあ、単に発掘するだけではなく、その館の位置や、館の周辺のほかの豪族の配置などで様々なことがわかってくる。当然に丹波国そのものの国人衆の当時以降の立場や気質なども考えてこれらのことがわかるとよい。

そして、それらの気質や、お国柄を、うまく大河ドラマなどで取り入れてもらいたいものである。実際に、そのようなことをうまく行うことが、つまり「地域性」や「現代人の心のルーツ」のようなものをしっかりと書いてほしいということが、実は、大河ドラマの視聴者の願いなのかもしれない。