源實朝『金槐和歌集』春ノ部③うちなびき春さりくればひさぎ生ふる/山里に家ゐはすべし鶯の
金槐和歌集
源實朝鎌倉右大臣家集所謂『金槐和歌集』復刻ス。底本ハ三種。
〇『校註金槐和歌集』改訂版。是株式會社明治書院刊行。昭和二年一月一日發行。昭和六年五月一日改訂第五版發行。著者佐佐木信綱]
〇『金塊集評釋』厚生閣書店刊行。昭和二年五月二十二日發行。著者小林好日]
〇アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』春陽堂刊行。大正十五年五月一日發行。著者齋藤茂吉著]
各首配列ハ『校註金槐和歌集』改訂版ニ準拠。是諸流儀在リ。夫々ノ注釈乃至解説附ス。以下[※ ]内ハ復刻者私註。是註者ノ意見ヲ述ニ非ズ。総テ何等乎ノ引用ニシテ引用等ハ凡テインターネット情報ニ拠ル。故ニ正当性及ビ明証性一切無シ。是意図的ナ施策也。亦如何ル書物如何ル註釈ニモ時代毎ノ批判無ク仕テ読ムニ耐獲ル程ノ永遠性等在リ獲無事今更云フ迄モ無シ。歌ノ配列ハ上記『校註金槐和歌集』佐佐木信綱版ニ準拠ス。
六。及七。
春のはじめの歌
うちなびき春さりくればひさぎ生ふるかた山蔭に鶯ぞなく
山里に家ゐはすべし鶯のなく初こゑのきかまひしさに
[※原書頭註。
〇うちなびき—春の枕詞。
〇ひさぎ—きささげとい
ふ木なり。]
[※是『校註金槐和歌集』改訂版]
[※註。
〇ひさぎハ楸ニシテ≪植物の名。キササゲ、またはアカメガシワというが未詳。/「ぬばたまの夜のふけゆけば―生ふる清き川原に千鳥しば鳴く」〈万・九二五〉≫是≪デジタル大辞泉≫
≪楸 (キササゲ・ヒサギ)/学名:Catalpa ovata/植物。ノウゼンカズラ科の落葉高木、園芸植物、薬用植物≫及≪楸 (ヒサギ)/植物。トウダイグサ科の落葉高木,園芸植物、薬用植物。アカメガシワの別称≫是≪動植物名よみかた辞典普及版≫引用ス。
≪[名]
① 植物の古名で、「きささげ(木豇豆)」または「あかめがしわ(赤芽柏)」をさしたと考えられる。《季・秋》/※出雲風土記(733)意宇「羽嶋 椿・比佐木・多年木・蕨・薺頭蒿あり」
② 「とうきささげ(唐木豇豆)」の古名。[薬品名彙(1873)]≫以上≪精選版日本国語大辞典≫引用ス。
亦≪世界大百科事典第2版≫ニ楸ノ言及在リ是≪アカメガシワ≫項目内≪新葉が紅色の星状毛を密生し,美しい鮮紅色を呈す。また秋には黄葉し,古来,歌人に愛された楸(ひさぎ)は本種とみなされる。本州中南部から台湾,中国にかけて分布する。≫
≪ヒサギ(楸)
・アカメガシワの古名 - トウダイグサ科の落葉高木。(アカメガシワ(赤芽槲、赤芽柏、Mallotus japonicus)は、トウダイグサ科アカメガシワ属の落葉高木。新芽が鮮紅色であること、そして葉が柏のように大きくなることから命名された説もあるが、柏が生息していない地域では、この木の葉を柏の葉の代用として柏餅を作ったことからアカメガシワと呼ぶようになったとの説もある。古来は熱帯性植物であり、落葉性を身につけることで温帯への進出を果たしたものと見られる。古名は楸(ひさぎ)。)
・キササゲの古名 - ノウゼンカズラ科の落葉高木。(キササゲ(木大角豆、学名:Catalpa ovata)はノウゼンカズラ科の落葉高木。生薬名で梓実(しじつ)と呼ばれる。日本で「梓(し)」の字は一般に「あずさ」と読まれ、カバノキ科のミズメ(ヨグソミネバリ)の別名とされるが、本来はキササゲのことである。)≫以上≪フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』引用ス。≫]
うちなびき春さりくればひさぎ生ふる片山かげに鶯のなく(春の始めのうた)
「うちなびき」は春の枕詞。又わがくるかみ、草香の山、はるのやなぎにも用ひられる。すべての髪にも草木にも靡くものに冠らせ、また春とつゞけたのは春は草木の若くなよよかに靡くところから來てゐるのである。
「ひさぎ」は楸。あかめがしはといふ梓のたぐひで琴などに作られる。「片山かげ」は山の片一方の山かげをいふ。
[※是『金塊集評釋』文學士小林好日著]
(二)打靡き春さり來れば楸[ひさぎ※是原書ルビ]生ふる片やま陰にうぐひすの鳴く
『春』の枕詞としては『打靡く』といふのが普通である。萬葉集では必ず『打ちなびく春』というてゐるが、此時代には多く『打ちなびき春』と用ゐた。金葉集、新古今集、續後撰集、風雅集など多くさう用ゐてゐる。『靡く』に『打延へて[※うちはえて/うちはへて]』『おしなべて』などの意味を有たせて副詞のやうにしたのだかも知れない。言語變遷の一つの例である。今試に、『冠辭考』の文を抄すると次の如くである。『打靡く(わがくろかみ。くさかの山。は/るのやなぎ。はるさりくれば。※是原書附註二段小文字書)さて擧げたるが如く、髪にも草木にも靡くものに冠らせ、また春とつゞけたるは、春は草木の若くなよゝかに靡くを云ふなり。いかにぞなれば、右の草香の山、柳など続けしをはじめて、集中に春山のしなえさかえ。春されば乎[を※原書ルビ]々りに乎々り。花咲き乎々りなどよめる皆枝のとをゝに靡くをいへり。』
この歌には一寸した心持はある。『鶯の鳴く』などの陳腐な句で結んでゐながら、『打靡き春さり來れば』などの陳腐な句法を用ゐてゐながら、兎も角も一種の心持を起こさせるのは、全く『楸生ふる片山陰』の中心句にあるのである。楸は木ささげである。(童馬漫/語参照※是原書附註二段小文字書)この句は從來の論法から云へば動搖する句であらうが、『動く動かぬ』の論は從來の樣に形式的でなく、もつと深く論ずべき性質のものと思ふ。その第一歩として從來の淺薄な『配合論』からして打破してかゝらねばならぬ。要はたゞ張つてゐる作者の心である。而して其心は外象と關聯してゐる……此の歌の樣な場合では……其外象に人為的高速は単価には不必要であるが為である。此の點に於て『想化』などいふ事も漫りには云ひたく無い。次に此の歌の感じは平凡であり陳腐であるが、かういふ感じ方は誰にでもあるものと見え昔も今もかういふ感じの歌は絕えない樣である。低級の作者は此樣な感じを惡く誇張していはゆる歌人の感じであると嬉しがつてゐる。
此の歌は佐佐木氏の日本歌學全書に従つたのであるが、貞享[ぢやうきやう※是原書ルビ]刊本(佐佐木博士校訂)には結句、『うぐひすぞなく』とある。なほ參考歌として、『ぬばたまの夜のふけぬればひささぎ生ふる清い河原に千鳥しばなく』(萬葉卷六/山部赤人※是原書附註二段小文字書)『打ちなびく春さりくれば笹のうれに尾羽うちふれて鶯なくも』(萬葉/卷十※是原書附註二段小文字書)の二つを書いておく。
[※是齋藤茂吉著アララギ叢書第廿六編『金槐集鈔』]
[※註。
〇金葉和歌集ハ≪平安時代後期の第5勅撰和歌集。書名は「すぐれた和歌の集」の意。白河院の命により源俊頼 (としより) 撰。最初天治1 (1124) 年末[※保安5年1月28日是旧暦2月25日迄第74代鳥羽天皇、是新暦、譲位ニ依リ改元同日以降天治元年第75代崇德天皇]に撰進したが、新味が乏しいと却下され、翌年4月に奏上したが当世的にすぎると再び返され、改訂を重ねて大治1 (26) 年[※天治3年及大治元年是1月22日是旧暦2月15日是新暦改元第75代崇德天皇]頃奏覧、ようやく受理された。現存伝本は成立の事情を反映して、初度本,二度本、三奏本に分れ,流布本は二度本。巻数は10巻。春、夏、秋、冬、賀、別離、恋 (上下)、雑 (上下) に部立され、『詞花和歌集』とともに巻数が少いこと、雑下に連歌の部を設けたことなどが特色。歌数は流布本で連歌や付載歌を含め約 720首。歌数の多い歌人は撰者のほか源経信、藤原公実 (きんざね) 、藤原顕季 (あきすえ) らで、白河院や撰者の周辺の人物が目立つ。清新な叙景歌、庶民的な題材、奇抜な着想や表現など意欲的に新風を開拓しようとしており、『良玉集』 (散逸) のような批判の書も出た。≫以上≪ブリタニカ国際大百科事典小項目事典≫引用ス。
〇風雅和歌集ハ≪『風雅和歌集』(ふうがわかしゅう)は、室町時代の勅撰集。第17勅撰集。20巻、総歌数2211首。構成上、先行する『玉葉集』と異なるのは、春・秋を各三巻に増大した代わり、雑歌を玉葉の五巻から三巻に縮め、また賀歌を掉尾に置き換えたことである。春・秋の歌各三巻という構成は『後撰和歌集』を模した可能性が指摘されている。
貞和2年(1346年[※是所謂南北朝時代也。貞和ハ北朝光明天皇是北朝初代乃至第2代持明院統、南朝ハ興國7年是第97代及南朝第2代後村上天皇大覚寺統。])頃、風雅集編纂のために貞和百首が詠進され、選考資料となった。北朝の貞和2年(1346年)11月9日、竟宴が催され、同4年頃までに成立。
学芸諸般に優れた花園院の監修のもと、光厳院[※光嚴天皇乃至光嚴院ハ北朝初代乃至第2代天皇。]が親撰。正親町公蔭(京極為兼の養子)・藤原為基・冷泉為秀らが寄人を勤めた。真名序・仮名序は共に花園法皇の筆。2人の上皇が深く関わった、二十一代集の中でも特異な集。『園太暦』によると、本来、「正しき風」(由緒正しい和歌の道)という意の「正風和歌集」に命名すべきところを、呉音で「傷風」に通じるのを忌み「風雅」に改めたという。≫以上≪フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』≫引用ス。亦≪17番目の勅撰和歌集。略して《風雅集》ともいう。花園上皇の監修、光厳上皇の撰により、北朝の貞和5年(1349)に成る。真名(まな)序、仮名序、春歌(上・中・下)、夏歌、秋歌(上・中・下)、冬歌、旅歌、恋歌(1~5)、雑歌(上・中・下)、釈教歌、神祇歌、賀歌の20巻、約2200首を収める。皇室が持明院統と大覚寺統の2流に分かれて皇位を争った鎌倉時代中期以降、定家―為家と継承された〈歌の家〉御子左家(みこひだりけ)も分裂し、二条家が大覚寺統、京極家が持明院統について、勅撰集撰者の地位を争うようになった。≫御子左家みこひだりけハ≪歌道・蹴鞠の家。藤原道長の第6子権大納言長家(ながいえ)(1005‐64)が醍醐(だいご)天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の邸宅御子左第を伝領して御子左大納言と呼ばれ、以後その家系を御子左家といった。長家の曾孫に俊成(としなり)が出て六条家と対抗し、その子の定家があらわれるにおよび、歌の家としての立場を確立する。一族には寂蓮(じやくれん)、俊成女、阿仏尼(あぶつに)など優れた歌人が多い。定家の後、その子の為家が継ぎ穏健正雅の風を立て、六条家を圧倒して歌壇の勢力を一手に握る。≫二條家ハ≪藤原氏北家の嫡流。五摂家の一つ。九条道家の次男良実を始祖とし、家号は良実の殿第に由来するが、二条の坊名にちなんで銅駝(どうだ)の称もある。承久の乱[※≪鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げて敗れた兵乱。≫是≪フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』≫引用。後後鳥羽上皇隠岐島、順徳上皇佐渡島流罪、土御門上皇土佐國、雅成親王但馬國、頼仁親王備前國配流。兩親王後鳥羽上皇皇子。仲恭天皇所謂九條廃帝是第85代ハ廃位。践祚四歳ノ御時、在位78日、後1234年(天福2年)崩御。此ノ時17歳。廃位後後堀河天皇即位。是第86代。]後、時の権臣西園寺公経の女婿九条道家は、みずから摂政・関白に就任したばかりでなく、教実、良実、実経の3子を次々に摂関の座につけ、九条家の全盛を謳歌した。ところが1246年(寛元4)の名越氏、翌年の三浦氏の乱に関連して、道家および摂政実経が失脚するや、道家はこれを前関白良実の幕府に対する誣告(ぶこく)によるものと推断し、良実を義絶した。≫京極家ハ≪
中世初期の歌道家。藤原氏御子左家(みこひだりけ)の一流。為家の子の為教(ためのり)が定家の一条京極亭を伝領し、京極を号したことによる。毘沙門堂家ともいう。為教とその子京極為兼(ためかね)は二条家に対抗して持明院統・西園寺家に親近して立場を確立し、伏見天皇の側近を中心に京極派を形成して歌道の覇権を握る。京極派は中世の勅撰和歌集のうち《玉葉和歌集》(為兼撰)、《風雅和歌集》(花園院監)を撰して、その存在を誇示するが、為兼に実子がなく、その没後まもなく断絶する。≫以上≪世界大百科事典第2版≫引用ス。
〇打延へてハうちはえて/うちはへて是≪[連語](動詞「うちはう(打延)」の連用形に助詞「て」の付いたもの。副詞的な用法が多い)
① 空間的にずっと続いて。うちはえ。/(イ) ずっとどこまでも延びて。②にかけて用いられることが多い。/※古今(905‐914)秋上・一八〇「たなばたにかしつるいとのうちはへて年のをながくこひやわたらん〈凡河内窮恒〉」/(ロ) あたり一面に。見わたすかぎり。/※栄花(1028‐92頃)玉の村菊「うちはへて庭おもしろき初霜に同じ色なる玉の村菊」
② 時間的に、ずっといつまでも続いて。長期にわたって。久しく。うちはえ。/※古今(905‐914)雑上・九三一「さきそめし時より後(のち)はうちはへて世は春なれや色のつねなる〈紀貫之〉」≫以上≪精選版日本国語大辞典≫引用ス。
〇おしなべてハ押靡て/押並て是≪〘副〙 (動詞「おしなぶ(押靡)」の連用形に助詞「て」が付いて一語化したもの)
① すべて一様に。皆ひとしく。総じて。
※万葉(8C後)一・一「そらみつ 大和の国は 押奈戸手(おしナベテ) われこそ居れ」
※太平記(14C後)六「知るも知らぬもをしなべて歎かぬ人は無かりけり」
② (助詞「の」を伴って) なみなみ。普通。
※宇津保(970‐999頃)国譲上「次の対(たい)、藤壺の御方の親族(しぞく)達の御曹司(ざうし)、西の廊はをしなべての人の曹司」
③ 全部がそうとはいえないが、大体の傾向として。おおむね。大略。「今年の米作もおしなべて豊作である」
[語誌]この語の構成要素である下二段動詞「なぶ」を、「並ぶ」と見る説もある。「並ぶ」と「靡ぶ」は同根と思われるが、上代の「押しなぶ」の例は「押し靡かせて」と解することができ、そこからの連続を考えれば、「靡ぶ」と見るべきか。①の「万葉集」の例でもなお「押しなびかせる」といった動詞としての意味を見てとることができる。ただし、平安時代以降は、「並ぶ」から成立したと思われる「なべて」という語も同様の意味で用いられ、副詞としては、これとの関係も考えられる。
おしなめ‐て[押靡て・押並て]
[副] (「おしなべて」の変化した語) おしならして。平均して。同一と見て。おしなべて。おしなめ。
※花鏡(1424)幽玄之入□[※阝ニ界]事「見る姿の数々、聞く姿の数々の、おしなめて美しからんを以て、幽玄と知るべし」≫以上≪精選版日本国語大辞典≫引用ス。
〇冠辭考かんじこうハ≪枕詞まくらことばの辞書。一〇巻。賀茂真淵著。1757年[※寶暦7年第116代桃園天皇、征夷大将軍家重第9代]成立。記紀・万葉の枕詞の意味・用法を記す。≫以上≪大辞林第三版≫引用ス。眞淵ハ荷田春満かだのあずままろノ門人ニシテ更ニ宣長ヲ門人トス。公益財団法人鈴屋遺蹟保存会本居宣長記念館ノホーム・ページニ≪『冠辞考』(カンジコウ)≫ノページ在リ≪京都から帰郷した頃に宣長は、借覧した『冠辞考』で初めて賀茂真淵の学問に触れ、その偉大さを知る。
「さて後、国にかへりたりしころ、江戸よりのぼれりし人の、近きころ出たりとて、冠辞考といふ物を見せたるにぞ、県居大人の御名をも、始めてしりける、かくて其ふみ、はじめに一わたり見しには、さらに思ひもかけぬ事のみにして、あまりことゝほく、あやしきやうにおぼえて、さらに信ずる心はあらざりしかど、猶あるやうあるべしと思ひて、立かへり今一たび見れば、まれまれには、げにさもやとおぼゆるふしぶしもいできければ、又立ちかへり見るに、いよいよげにとおぼゆることおほくなりて、見るたびに信ずる心の出来つゝ、つひにいにしへぶりのこゝろことばの、まことに然る事をさとりぬ、かくて後に思ひくらぶれば、かの契沖が万葉の説は、なほいまだしきことのみぞ多かりける」(『玉勝間』巻1「おのが物まなびの有しやう」)
本書は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』に使われる枕詞326を五十音順に並べ解釈を付けた辞典。「枕詞」とは「たらちねの」、「あしひきの」、「石上」というような言葉でそれぞれ、たらちねのは「母」にかかり、あしひきのは「山」に、石上は「ふる」にかかる。序文には「枕詞」論が展開される。稿本『冠辞解』は延享4年(1747)頃に成立したが、刊行は宝暦7年(1757)。宣長が京都から帰ったのは同年10月。程なく見たとすると、最新刊であったことになる。現在、記念館に残るのはその後に購求した本。
◎書誌
『冠辞考』版本・宣長書入本・10冊。賀茂真淵著。袋綴冊子装。縹色地蔓草白抜模様表紙。縦27.4糎、横18.9糎。匡郭、縦22.6糎、横16.0糎。片面行数10行。墨付(1)48枚、(2)40枚、(3)25枚、(4)38枚、(5)28枚、(6)24枚、(7)20枚、(8)21枚、(9)39枚、(10)32枚。外題(題簽)「冠辞考、あいうゑを上一」(巻2以降略)。内題無。小口(宣長筆)「ア」(以下略)。蔵印「鈴屋之印」。
【序】「賀茂真淵」。/【巻末】「宝暦七のとしみな月にかうかへ畢ぬ、高梯秀倉、村田春道」。/【跋】「宝暦七のとし八月、たちはなの枝直しるす」。 /【刊記】「書林、日本橋通三町目須原屋平左衛門」。 /【参考】宣長書き入れが多い。巻8には「ひさかたの天・あしひきの山」と題する長文の考察を貼り付ける。同巻表紙に貼り紙有り、「ひさかたノ部ニ故大人御自筆ノ【ヒサカタノ天アシヒキノ山】ノ御考一枚有リ、落散ラシ事ヲ思ヒテ糊(ノリ)ヲ以テ附置者也、稲彦云」と言う。宣長門人橋本稲彦と思われる。また巻1に23.24丁各1枚(木版刷り)を挟む。これらは初版刊行後改正した部分の抜き刷りであろう。購求については、『宝暦二年以後購求謄写書籍』宝暦12年2月条に、「冠辞考、十、卅六匁五分」とある。同じ真淵門の建部綾足説などを丹念に書き入れ、宣長の綾足評価を窺う上でも貴重。 ≫引用以上。
〇抄するハしょうする/せうする/鈔する是≪[動サ変][文]せう・す[サ変]
1紙をすく。「和紙を―・する」
2古典などの一部を抜き出して注釈を加える。/「注にあれども―・するぞ」〈史記抄・游侠伝〉
3資料から書き抜いて本をつくる。/「延喜の御時に古今―・せられし折」〈大鏡・昔物語〉≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。
〇童馬漫語どうばまんごハ≪斎藤茂吉による評論。大正8年(1919)刊。明治43年(1910)から大正7年(1918)にかけて書かれた歌論を1冊にまとめたもの。≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。
〇日本歌學全書ハ≪佐佐木弘綱と信綱の共同編著による和歌の叢書。全12巻。明治23年(1890)から明治24年(1891)にかけて刊行。≫以上≪デジタル大辞泉≫引用ス。信綱ハ弘綱長男也。
〇萬葉集卷十ノ一八三〇≪詠鳥/打靡 春去来者 小竹之末丹 尾羽打觸而 鴬鳴毛/うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽打ち触れて鶯鳴くも≫是詠人未詳。
他萬葉集卷十ノ一八一九≪詠鳥/打霏 春立奴良志 吾門之 柳乃宇礼尓 鴬鳴都/うち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末に鶯鳴きつ≫是詠人未詳。
又萬葉集卷十ノ一八三二≪詠雪/打靡 春去来者 然為蟹 天雲霧相 雪者零管/うち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧らひ雪は降りつつ≫是詠人未詳。等。]