交差した「日本的なもの」
Seng Kuanの教える日本近現代建築史の最終レポートでは、日本の近現代の建築に見る「日本的なもの」をテーマに考察を行った。というのも、ハーバード学生と日本・建築を巡るツアーであるJapan Trekにおいて、GSDの学生から「日建はただインターナショナルだけど、竹中からは日本的なものが感じられて良い」ということを言われたからだ。
「日本的なもの」っていうのは一体何なのだろうという疑問、なぜ日本でこんなデザインが生まれたのだろうという疑問は、ハーバードで外国から日本へのまなざしに触れるにつけて日に日に強まっていた。「日本的なもの」のデザインとして一般的に称賛されるのは、ミニマリズム、シンプルさ、畳などのモジュラーシステム、ディテールの完璧さ、クラフトマンシップ、素材の魅力、そして西洋にはないエキゾチックでミステリアスな側面だ。
竹中が今後「日本的なもの」の魅力を押して世界に進出するのであれば、その起源は何だったのか、どのように継承されてきたのか、今後どうすれば良いのかを考える必要がある。そういうモチベーションで最終レポートに取り組んだ。
Seng Kuanにおすすめされたのは、東工大の藤岡先生の「日本的なもの」の議論、谷口吉郎と堀口捨己の分析をベースとして、その2者の比較をしたらどうかということであった。
まず、藤岡先生は「日本的なもの」を、「日本の過去の建築に見いだすことができる具体的なものまたは概念で、継承するに足ると思われるもの」と定義している。つまり、過去の解釈は建築家個人の判断で、現代の価値判断に基づいて抽出するものにすぎず、真の「日本的なもの」は存在しないという見方だ。
藤岡先生の指摘で面白いのは、昭和初期にヨーロッパのモダニズムの概念が日本に流入するまで、上記のような「日本的なもの」の理解はなかったという指摘である。一般的に日本人は昔から外国のものを自国のものとフュージョンさせて新しい価値を生み出すのがうまい。建築分野でも同様のことが起こったのだ。
以上をベースにした上で、谷口吉郎と堀口捨己について議論する理由は、彼らの「日本的なもの」に対する取り組み方の変遷がとても対照的だからである。
2人はどちらも東京大学の建築学科出身だ。当時の東大建築での教育は(今でもそういう感じはするが)、日本最初の構造家・耐震の専門家である佐野利器の影響で、とても技術的・合目的なアプローチが強いものであった。
それに反発したのが堀口捨己で、分離派という団体を作るまでして、建築の【芸術的】な側面の重要さを強調した。しかし、千利休の研究に没頭していく過程の中で、彼の「日本的なもの」に対するアプローチは【合目的】となり、時代の要請に合う機能性を伝統的な空間に組み込んだ現代の数寄屋建築の大家となった。数寄屋建築に限らず、彼のデザインする現代建築でも、その合目的なアプローチは独特な「日本的なもの」の世界を作り上げている。
一方で佐野利器に寵愛されたのが谷口吉郎だ。佐野が非常勤講師をしていた、東工大のフルタイムの講師として推薦されただけでなく、結婚相手も佐野の紹介であった。東工大で環境工学も教えていた谷口が最初に作った自邸は、環境性能に基づいて窓や庇の配置を決めるなど、【合目的】な視点から日本の伝統建築の要素を取り入れたものであった。その後、ベルリン赴任時にシンケルの建築に触れることによって、そのアプローチは【芸術的な】方向へと変化していき、プロポーションの美しさに基づく「日本的なもの」のデザインに傾倒していく。
谷口吉郎は教育者としての情熱を兼ね備えていた。そのアプローチは清家清、篠原一男を経て、そしてSANAAへと【抽象的】なスタイルとして受け継がれていき、21世紀に花開くことになる。堀口捨己は谷口吉郎のように強い継承者のラインはないが、内藤廣や堀部安嗣などがその延長線上にいるのだろう。この谷口・堀口の交差した「日本的なもの」に対するアプローチが現代の日本建築に大きな影響を与えているのは疑いようもない、というのが自分が最終レポートで描いたストーリーである。
そして竹中工務店の作品も堀口捨己の延長線上にあるのだと感じている。合目的でありながら、「日本的なもの」を継承した洗練された世界。そのアプローチの日本人建築家がまだ世界で評価されていないとうことも、未来においてはチャンスなのではないか。
とはいえ、世界で評価されるには作品が自ら語りかけるようなレベルのデザインの洗練が不可欠である。このレポートで考えたことを土台にして、ぶれずに上を目指していきたい。