「クレオパトラの神話」4 「クレオパトラとオクタヴィアヌス」
支配者が自らの行為を正当化し、その支配の安定化のためにイメージ戦略を重視するようになったのはいつからだろう。ナポレオンはダヴィッドにアルプス越えを雄々しく描かせた(実際にナポレオンが乗っていたのは、馬ではなくラバorロバだった)が、すでにカエサルは『ガリア戦記』(元老院への報告書)で自らのガリア戦争での戦いぶりを、民衆の熱狂的支持をもたらすように計算したうえで描いた。カエサルが後継者に指名したオクタヴィアヌスも、イメージの持つ力の大きさを十分理解していた。だから、かれの権力獲得は「アクティウムの海戦」の勝利だけによるのではない。イメージ戦争で完全にアントニウス、クレオパトラを凌駕していた。
「オクタヴィアヌスの勝利は、アクティウムの戦いに勝ったことにあるのではない。カエサルの書き残したものをすべて燃やしてしまったことにあるのだ。クレオパトラはは、カエサルから受け取った何通もの手紙をオクタヴィアヌスに差し出した。〈カエサルの息子〉の命を助けてもらうためだ。ところがオクタヴィアヌスは、その手紙を燃やしてしまった。・・・オクタヴィアヌスは、自分に都合の悪い証拠を抹殺した〈歴史の検閲者〉なのである。オクタヴィアヌスのこの犯罪的な勝利の結果、私たちは、カエサルの最後の意向であるとか、アントニウスがその意向をどのように扱おうとしたかについて、憶測を余儀なくされている。」(P.M.マルタン『アントニウスとクレオパトラ』1990年)
後世の人々に、アントニウスとクレオパトラに対する誤ったイメージを植え付けたこともオクタヴィアヌスのもう一つの勝利である。
「アントニウスは酔っぱらいであり、クレオパトラは娼婦である。このイメージは、文献学者がいくら努力しても修正することはできない。・・・そういったイメージは、何世紀にもわたって生きのびてきた。ルカヌスは、「近親相姦で生まれた女」とクレオパトラを弾劾した。また、カエサルの愛人としての側面しか見ないで、「エジプトの恥、ラティウムに対する恐ろしい復讐の女神、その淫らな振る舞いはローマに災いをもたらした」と非難する。・・・時代がくだるにつれて、支配者たちの植え付けたイメージだけが残るようになり、最後にはそのイメージが戯画化されるところまでいく。・・・アントニウスは王になりたがった男という汚名を着せられたまま、永遠に記憶されることになったのである。・・・「クレオパトラは好色で、性欲を満足させるために身を売ることもあった。一晩の恩寵を得るために、多くの男たちが彼女を買った」どうだろう?・・・これほどみごとな中傷は、探したって見つかるまい。」(同上)
では、オクタヴィアヌス(アウグストゥス)に対する後世の評価はどうかというと二つに分かれている。例えば、コルネイユは1641年に書いた悲劇『シンナ』のなかで、彼の寛大さを讃えているが、ヴォルテール (1694年~ 1778年)は『哲学辞典』で次のように酷評している。
「私には、アウグストゥスが寛大であったとは思われない。アウグストゥスは、むしろ冷酷だった。たとえばアクティウムの海戦後、アウグストゥスはカエサルの像のもとでアントニウスの息子を殺させた。また、クレオパトラとカエサルの息子カエサリオンをエジプトの王であると認めたくせに、その首をはねさせるという野蛮な行為もしている。・・・アウグストゥスの養父であったカエサルが敵に対して寛大であったことは、誰もが知っている。だが、私は、アウグストゥスが敵を許した例をひとつも知らない。・・・以前、アウグストゥスが追放した人々の息子や孫たちは、この男を崇拝し、その前にひざまずいた。そういった連中を殺さなかったからといって、それが何だというのだ。追いはぎをして豊かになって、あとからその果実をゆっくり楽しんでいるだけではないか!アウグストゥスは、野蛮な行為をした後で、慎重な政治を行っただけなのである。」
アウグストゥスがカエサルと比較して冷酷であったことは否定しない。しかし、かれをローマの帝政建設者に指名したのはカエサルだったし、カエサルの事業が暗殺者によって中断されたことを誰より教訓として生かしたのもアウグストゥスだった。カエサルとアウグストゥスに共通するのは、私情に流されずに目的実現に邁進する冷徹なリアリストだったという点である。
(アレクサンドル・カバネル「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」アントワープ王立美術館)
クレオパトラは、美しく死ぬため、すなわち見苦しい死にざまを見せずに短時間で死ねる毒を求めて、死刑囚に人体実験を行っていたとされる。
(アルマ・タデマ「クレオパトラ」ルーヴニュー・サウス・ウェールズ州立美術館)
(「マルクス・アントニウス」ヴァチカン美術館)
「アウグストゥス」ヴァチカン美術館)