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薔薇と脳髄の向こう

いつもの酒場で

2019.06.19 11:04

ロンドンの街の中へ戻ってくると先ほどまでの寂れた雰囲気とは打って変わって騒がしくなった。

この街のいいところでもあり、落ち着かないところでもある。

余った一つのオレンジを軽く持て余しながら人々の間を早足で縫って歩いた。風が少しだけ冷たくなってきたが、我慢できないほどではない。

胸ポケットから煙草を出して火をつける。人通りはそこまで多くないから、まあいいかと甘えたことを考えて煙を吐き出す。

裏通りに面した路地へ足を踏み入れると、再び喧騒が遠のいた。このくらい静かな方がいい。

ホッと胸をなでおろし少し足を緩める。ガス灯付けの老爺が梯子を持ってゆっくりと通り過ぎていった。

ふと道の端を見ると、やせ細った子供が膝を抱えている。小さな器を置いているがその中に銀貨1枚も入っていない。その少年が虚ろな瞳でじっとこちらを見つめている。声を出すことすらも億劫なのだろうか。

その姿に過去の自分を重ねて胸が締め付けられたウィリアムは片手に持っていたオレンジを彼に差し出した。

「オレンジ、食える?」

少年は鮮やかなその果物を受け取って二度ほど頷いた。

「そっか。よかった」

それ以上どうにかしてやれるわけもなく、申し訳ない気持ちに苛まれると空いた手で彼の髪を撫でた。殴られるかと身を強張らせた彼にやるせなさを感じればすぐ背を向けた。何もできない自分が嫌になる。

短くなった煙草を靴の裏で消すと軽くため息ついてその場を離れた。


外の静けさを打ち破るほどの賑わう声がその店からは漏れていた。扉を開けなくてもわかる。

電飾で飾られた看板は「酒場シェイクスピア」と書かれている。名高い詩人とはかけ離れた人々の喧騒とざわめきとダメな大人ばかりが集う大衆酒場だ。ウィリアムはこの看板を見上げる度に苦笑いとその滑稽さが込み上げてくる。

今日も賑わっているんだな、と思えばその安いステンドグラスがはめられたドアを押した。

カランカランと扉についたカウベルが鳴る。

「いらっしゃーい!」

威勢のいい声が飛んでくると同時に男たちの大きな笑い声が響く。酒の匂いと汗の匂いと肉の匂い。店内を見回すと大半は男性客だったが、物好きな女性なのか、はたまた男に連れられた娼婦なのか、検討もつかない女性客もちらほらいる。

テーブルとテーブルの狭い隙間をうまく歩いて行くと、後ろから腕をつかまれる。

反射的にその腕を引いてキッとその相手を睨みつけたが、すぐさまウィリアムは力を抜いた。

ドイツの民族衣装、ディンドゥルに身を包んだウィリアムと同い年くらいの少女が頬を膨らませて立っていた。

「おい、なんだよレベッカ。後ろから勝手に触んなよ。びっくりするだろ?」

「あら、それはごめんなさい。でもね、ウィル。」

ぐいと腕を引っ張られて耳元に唇を寄せられる。

「制服で来ないでってあれほど言ったでしょ!」

「悪い悪い、すっかり忘れてた」

「うちの店がお縄になってもいいって言うの!?」

「だめだよ。それは困る」

「じゃあ気をつけてよね」

彼女はそばかすの散った鼻にしわを寄せて唇を尖らせる。

そういえばそうだった、とウィリアムは肩をすくめるとしゅるりと胸のリボンを抜き、胸元のボタンをもう一つ開けた。

「これでいい?」

その動きを見ていたがはだけた胸元に恥ずかしくなった彼女は耳まで赤くなった。おさげ髪を弄りながら「そう言う問題じゃないわよ」と言い返す。

「はいはい。次は気をつけるよ」

その様子に肩をすくめたウィリアムは彼女を押しのけてバーカウンターの方へ進む。他の客たちは上機嫌にジョッキを掲げたり肉を食ったりと野生的だ。

確かにこんなところにガキ1人じゃあ目つけられるよな。

名門校の制服を着た少年が1人できていい場所ではない、と苦笑いした。

バーの高い椅子に腰掛けると、店主が近寄ってくる。この店にふさわしい筋肉質で髭を蓄えた男だ。その割にシェイクスピアを好んで読むと言うロマンチストでもある。

「ウィル!また悪いことしているな。こんな店に来て」

「マスターに会いに来たんだよ」

「それは嬉しいな。だが、それは俺じゃなく娘に言えよ」

彼はそう言って客からジョッキを取り上げているレベッカを指した。

ウィリアムは首を傾げてはぐらかした返答にかえる。

「なんでもいいけど。ウイスキーロックでちょうだい」

軽く髪をかきあげて注文するとマスターは肩をすくめて棚の酒瓶の方を向いた。

再び胸のポケットから出した煙草にマッチで火をつける。細く煙を吐き出しているといつのまにかレベッカが隣に来ていた。

「ウィル、その、さっきはちょっと強く言っちゃった。…会えて嬉しい」

レベッカはいつもそういうタイプだった。恥ずかしがり屋なのか、はじめのあたりは強いだが段々としおらしく、というか優しくなる。今も照れくさそうにウィリアムの方を見ないでもじもじしている。

そんな様子に少しだけ愛らしさを感じてそちらを見ながらウィリアムはカウンターに頬杖ついた。

「そう?俺に会えて嬉しいなんて、物好きだな」

「あー、そう?それでも良いんだけど。とにかく、ゆっくりしていってね」

「おーいベッキー!酒くれ酒!」

まだ何か続けたそうにした彼女だったが客の1人に呼ばれると言葉を飲み込んでそちらへと向かった。

ゆるゆると煙草を吐き出しその背中を見送ると、マスターがウイスキのグラスを出してくる。

「生意気かもしれないけど良い子だよ、親バカだけど」

「それはそうだな」

マスターの言いたいことはわかるのだが面倒ごとになるのは御免なのではぐらかす。この話題は嫌だと言うようにウイスキーへ視線を落とした。

グラスを傾けて黄金色の液体を喉に流し込む。焼けるように喉が熱い。

「ハァイ、お兄さん。お隣良いかしら」

グラスを置いた瞬間、横から声をかけられた。そちらを向くと、ワイングラスを片手にグラマラスなドレスの女性が立っている。娼婦にもやさぐれただけ見えるが、どっちかはわからない。

「良いよ。連れが来るからそれまでね」

片眉あげて返事を返すと彼女は女を武器にした動きをして隣の椅子に腰掛けた。

「あたしはベティ。キャバレーのダンサーしてるのよ」

「へえ、すごいね。俺はウィル」

胸の空いたドレスに目線のやり場が無くなる。ウィリアムは彼女のイヤリングを見て話すことにした。

「ウィル、貴方素敵ね。この酒場にこんな素敵な方が居るなんて思ってなかったわ。セクシーだわ」

「そりゃどうも。ベティこそ、こんな感じの酒場には勿体無いほど…素敵だ」

ベティが少しだけ距離を詰めてそっと肩が触れる距離になる。横目で彼女を見ると目が合ってしまった。年は26くらいだろうか。

遠くからレベッカが怒りに満ちた目でこちらを見ているのが視界の端に写る。

野暮なことを考えながらあからさまに行為と性を匂わせてくる彼女にめんどくささを覚える。あまり仲良くなりすぎてもすぐさまホテルのベッドに呼ばれると察知したウィリアムは酒に逃げることにした。

「マスター、もう一杯」

早速空にしたグラスを滑らせると僅かに心配を滲ませたマスターに平気だよとウィンクする。

やれやれと首を振ったマスターは渋々ながらもウイスキーを作ってくれたようだ。

「ウィル、今晩はお暇?」

隙をついて腕を絡ませてきた彼女が耳元に囁いてくる。

めんどくさい事になったなあ、と他人事のように考えているとカランと背後のドアから再び開く音がした。

「んーどうかなあ」

「あら、じゃあ2人で出かけない?あたし貴方のこともっと知りたいわ」

「おい」

彼女がぎりぎりまで接近した時、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。

驚いてそちらを振り向いたベティが首を傾げる。

「どちら様かしら?」

「ウィリアム」

ベティの問いかけに答えずウィリアムの名前を呼んだ彼の方を振り向く。

長い髪を後ろの高い位置で結び、レースの少ない固めのシャツを着て、びしょ濡れのマントを羽織ったヴィンセントが睨みつけていた。

「遅いよ、ヴィンス」

ウィリアムは彼に煙を吹きかけた。