6月13日 長和町 → 小諸市[小諸城址・懐古園散策]→ 軽井沢町 → 新潟県上越市(234km)
今日は、信州最後の日。
大トリは藤村ゆかりの地、小諸である。
「小諸城址・懐古園」に到着。
広い駐車場には、ウィークデーのせいか、我々以外車はおらず。
遠くに、北アルプスが見える。
立派な扁額の「懐古園」。その文字の美しさに、うっとり。
「園内一周は、いかがですか」と人力車のお兄さん。
やんわりとお断りして、城内散策へと向かう。
ふと見ると目の前の城壁に、小諸義塾塾長 木村熊二のレリーフが。
彼こそが、藤村を小諸へと呼び寄せた張本人。
近くには、若山牧水の短歌を刻んだ石垣も。
しばらく行くと、「藤村記念館」の建物が見えてきた。
記念館の前には、藤村のブロンズ像。
ちょっと写真のイメージと違うかも。
館内は、やはり撮影不可。
そこで見た年譜に気になることがあったので、ネットで調べ、簡単にまとめてみた。
《藤村生誕から小諸時代まで》
1872年、 (明治5年)筑摩県馬籠村(現岐阜県中津川市馬籠)に生まれる。
1881年、 兄とともに上京。東京・銀座の泰明学校に転入学。
1886年、 父・正樹が郷里にて牢死。
1888年、 木村熊二により受洗。
1891年、 明治学院卒業。卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿。
1892年、 明治女学校高等科英語科教師となる。
1893年、 北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加。
教え子の佐藤輔子を愛し、自責のためキリスト教を棄教。
明治女学校を辞職。
1894年、 明治女学校へ復職。北村透谷自殺。
兄・秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監。
1995年、 佐藤輔子が病没。明治女学校を辞職。
1896年、 東北学院教師として、仙台に赴任。
母・縫、死去に直面し、試作を始める。
1897年、『若菜集』刊行。
1898年、 東京音楽学校選科入学。
1899年、 恩師・木村熊二の招きで、小諸義塾の教師となる。秦フユと結婚。
1900年、 長女・みどり誕生。
「千曲川のスケッチ」を書き始める。
1901年、『落梅集』刊行。
1902年、 次女・孝子誕生。
1904年、 三女・縫子誕生。
1905年、 小諸義塾を辞し上京。
三女・縫子栄養失調のため死亡。長男・楠男誕生。
1906年、 妻・冬子の父・秦慶治から借りた400円で『破戒』を自費出版。
次女・孝子、長女・みどり栄養失調のため死亡。
藤村は『破戒』を出版するにあたり、妻・冬子の北海道の実家を訪ね、借金をしている。
義父は娘の夫婦仲を心配し、小諸を訪れてもいたという。
『破戒』は義父が出資した400円で無事出版され、藤村は時代の寵児となる。
が、その頃、三女、次女、長女と相次いで亡くし、その原因が栄養失調とは‼︎
これを知った義父は、一体どんな気持ちでいたのだろうか……。
藤村の人生と作品は別物。
気を取り直して、ここで、藤村の綴る美しき言葉の響きを。
これほど、見事に、風景が心の中に映し出される歌はないのでは。
藤村の筆跡による碑は、残念ながら光線の具合で写らず。残念‼︎
この歌に惹かれて、40年前、30年前と、この地を訪れたことのあるK。
昔は、もう少し、千曲川の雄大な流れが、この場所から望めたような気もするが。
今日、古城から望む千曲川の流れは、途切れ途切れ。
続いては、藤村が勤めた学校の校舎が残る「小諸義塾記念館」へ。
この小ぶりな校舎の中で、藤村から作文の指導を受けた学生がいたとは、うらやましい限り。
藤村の几帳面で丁寧な指導ぶりが伺えて、なかなか興味深かった。
記念館を出ると、小諸の空には、白い雲。
小諸の旅の締めくくりに、懐古園入口近くの老舗蕎麦屋で、小諸蕎麦を味わう。
夕暮れまで、まだまだ時間がある。
このまま長野県を去るのも惜しいということで、軽井沢まで車を走らせることに。
傍らには、浅間山が顔を覗かせている。
あつという間に、軽井沢の標識が。
駅前を旧軽井沢方面に曲がり、旧軽銀座へ行こうと駐車場を探したが、やはりこのサイズの車では駐車場できず。
仕方がないので、そのまま繁華街を通り抜け、カラマツ林の中を走り抜ける。
周囲は別荘ばかりとなり、およびでない感じ。
お馴染みの教会辺りで引き返し、駅前を抜け、お洒落なショッピングモールの横を通って、高速へ。
さすがに軽井沢は、何年経っても街が生きていた。