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6月12日 島崎藤村『夜明け前』を読む

2019.06.19 12:14


「木曽路はすべて山の中である」の有名なフレーズで始まる『夜明け前』は、木曽街道(中山道の一部)の馬籠宿が主な舞台だ。


先日、馬籠宿から妻籠宿まで旧街道を歩き、その後車で奈良井宿を通って塩尻まで抜けた。西に乗鞍連峰、東に中央アルプスと、山岳地帯を縫って伸びる木曽街道は、今ほど国道の整備されない昔なら、旅人はなおさら山の中の感を深くしただろう。



小説の書かれた周辺と時代背景について


『夜明け前』は島崎藤村(1872-1943)の晩年の作品。1929年から35年まで、『中央公論』に連載された。小説の主人公である青山半蔵のモデルは、藤村(本名・春樹)の父・島崎正樹である。


小説が描くのは、1853年(嘉永6年)の黒船来航から1886年(明治19年)の半蔵の死までの30年あまり。半蔵は黒船来航のその年に、数え歳23歳で妻籠本陣の娘、17歳のお民と結婚。狂人として家族の手で座敷牢に押し込められ、病死するのが56歳。


これは、父・正樹の生没年である1831年から1886年と一致する。藤村は自分の幼少期に世を去った父・正樹の生涯を丹念に調べ、主人公・半蔵として蘇らせたわけだ。


主人公・青山半蔵の家は、代々宿場町の本陣(大名・要人の宿泊所)と庄屋、問屋を兼ねる家柄。そもそもこの馬籠の地は、青山家が三浦半島からこの地に移住してきた平安末期に、初代によって宿場町の基礎が築かれたのだった。青山家の歴史はそのまま馬籠宿の歴史でもある。半蔵はその17代目にあたり、彼は30歳を過ぎてのち、隠居した父・吉左衛門から家業を引き継ぐ。


そんな農村の名家に生まれた半蔵なら、のんびりと何不自由なく封建時代に生まれた生を全うできるのかというと、時代がそれを許さなかった。


小説の時代背景は幕末から明治中頃という、まさに激動の時代。黒船が到来し、徳川幕府はその対応に苦慮するが、このときの幕府はまさに求心力を失いつつあり、開国・攘夷に揺れる時代背景こそが幕府の崩壊を早めた。


大名や要人を宿泊させる本陣として、また近辺の農民の上に立つ庄屋の役割を兼ねる青山家は、徳川幕府の輸送制度と農村社会、および財政を末端で支える無数の単位のうちの一つだった。来るべき幕府の崩壊は、すなわち地方の名家としての青山家の存続の危機をも意味したのである。


物語は、家業を切り盛りする半蔵とその家族を中心に進んでいくが、紙幅の多くは、馬籠から遠く離れた江戸や京都の、開国か攘夷かに揺れる当時の政治・社会・経済を丹念に描写することに割かれている。主人公の動きを中心とする一般的な小説を期待すると、特に前半部において、この長編小説を読み続けることが少々苦痛になるが、延々と続くその読書の時間が、そのまま当時の時代を感じる時間となる。




小説の舞台、馬籠宿と木曽街道について


馬籠宿(岐阜県中津川市)は、当時は徳川御三家の一つ、尾張徳川家の領地であった。小さな宿場町ではあったが、要路である木曽街道に置かれたため、参勤交代を含む人や物資の移動が盛んであった。


馬籠の北に位置する木曽福島には関所が置かれ、山村氏が代官として派遣されていた。東海道の今切関所や箱根関所と同等の最重要関所とされ、「入り鉄砲と出女」を中心に厳重に出入りが管理されていた。


また、木曽街道沿いは交通路としての役割だけでなく、尾張徳川家にとっての重要な財源だった木材の産地でもあった。一帯の森林は厳しく管理され、「木一本に首一つ」と呼ばれるほど、違法な伐採には厳罰が課された。それでも、決められた木種以外は伐採ができたのだが、明治に入るとその自由も奪われ、山に頼る村人の生活を甚だしく圧迫する。このあたりは、小説にも大きく関わってくる。


馬籠宿から8kmほど北、馬籠峠を越えると隣に妻籠宿がある。美濃国に面した馬籠が南に開けた明るい地形なのに比べ、妻籠は谷あいの奥まった地形だ。小説では、半蔵の母・おまんが、妻籠の本陣から嫁に来たばかりのお民に話しかける場面がある。


「お民、来てごらん。きょうは恵那山がよく見えますよ。妻籠の方はどうかねえ、木曽川の音が聞こえるかねえ。」

「ええ、日によってはよく聞こえます。わたしどもの家は河のすぐそばでもありませんけれど。」

「妻籠じゃそうだろうねえ。ここでは河の音は聞こえない。そのかわり、恵那山の方で鳴る風の音が手に取るように聞こえますよ。」




妻籠宿の本陣を務める青山寿平次(お民の兄)は、馬籠宿の本陣・青山半蔵とは、もともと親戚関係にあり、お互い隣宿の本陣として、物語のさまざまな場面で助け合うことになる。



国学に心酔する半蔵


さて、主人公である青山半蔵に話を戻すが、その前に、半蔵が生涯の心の支えとした「国学」について書いておく。


幼少期に当時の例に漏れず四書五経などの漢学に親しんだ半蔵だが、彼はいつの頃からか、本居宣長や平田篤胤による国学に心酔するようになる。国学は、まだ儒教中心だった江戸中期に体系化された学問で、歴史的に外国から移入された仏教や儒教以前の、古の日本の精神を追求するものだった。


馬籠から遠くない信州伊那地方は、当時民衆レベルでの国学の普及が盛んだったところだ。平田篤胤はすでに死没していたが、半蔵は篤胤の跡を継ぐ江戸在住の平田鉄胤を訪ね、「篤胤の没後弟子」として認めてもらうほどのめり込む。当時の日本には、同様の没後弟子が、約4000人ほども存在したという。


尊王攘夷の嵐が吹き荒れた幕末期、国学の影響は大きかった。幕末の尊皇攘夷思想の先駆けであり、中心でもあった水戸藩には、江戸初期に徳川光圀が編纂させた『大日本史』の思想を引き継ぐ「水戸学」が息づいており、吉田松陰ら幕末の志士と呼ばれた人たちに直接の影響を与えたが、この水戸学こそ、国学の源流といえるものだった。


水戸藩は徳川御三家の一つでありながら、水戸学では「勤王」の思想が重んじられた。黒船来航をきっかけに生じた社会の動乱の中、勤王思想は「尊王攘夷」の思想を生む。そして、水戸藩としては「勤王」と「幕府への忠誠」が両立しても、一部の水戸藩士や水戸学の影響を受けた志士たちにとっては、「尊皇攘夷イコール倒幕」となったのである。


このことは、水戸藩内部の内紛が他藩に比べ甚だしかった原因であり、天狗党の乱などで水戸藩の有為な人材のほとんどが処刑され、水戸藩が明治維新期での人材を輩出できなかったことにつながっている。


水戸藩について特に書いたのは、国学と水戸学の深い関係という面もあるが、『夜明け前』において主人公・半蔵が水戸藩の動きに深い関心を寄せており、水戸藩士による天狗党の乱勃発で、飯田や馬籠を通過し京都を目指す天狗党の行軍の様子を、極めて詳細に描いているからである。


藤村は明治学院で英文学を専攻し、いわば父とは逆の道を進んだのだが、国学者でもあった父・正樹を小説で描くにあたり、平田篤胤の思想とその周辺についてはかなり勉強したはずだ。実際、馬籠の「藤村記念館」には彼の書棚が再現されていたが、フランス生活から持ち帰った膨大な洋書に混じって『平田篤胤全集』が並んでいた。



さて、青山半蔵である。


彼はお民と結婚したあと、子供にも恵まれ、家族に支えられながら、本陣や名主としての日々の仕事に励む。馬籠宿には日常の旅人の往来だけでなく、大名やその家族の往来もまた頻繁である。宿場町の人々の往来は、社会の動きを直接、間接に反映し、その様子が克明に描かれる。おそらく、藤村の父・正樹が詳細に記録を残していたのだろう。


黒船来航によって、幕府は諸藩に海防の強化を命じるが、諸藩の財政負担は日増しに高まった。そのため、幕府は参勤交代の回数を軽減し、諸大名の妻子を国元に返すことを許可する(文久の改革)。行列を仕立て、籠に乗り込み喜び勇んで国元に帰っていく彼女たちを、半蔵は本陣(宿泊所)として、人や馬を手配し、宿場町全体で細心の準備で受け入れる。


これと同じ頃、第14代将軍・家茂に降嫁が決まった孝明天皇の妹・和宮の行列が、江戸に向かうときに通ったのも木曽街道だ。千人を超える大行列を、半蔵ら村役人をはじめ、村人が総出で出迎える。公武合体の象徴的出来事とされたが、尊攘派はこれを幕府が皇室を利用したとして憤り、水戸藩の尊攘派が時の老中・安藤忠正を襲撃する事件が起こる(坂下門外の変)。


水戸藩尊攘派・天狗党の軍隊もまた、勤王の意志を示すとして京に向け進軍する途中、飯田を経由して馬籠に宿泊している。飯田には半蔵とともに国学を信奉する仲間が多くいた。彼らは天狗党に同情的であり、天狗党に接触し、当初戦いに備えていた飯田藩との間を仲介し、戦火を交えず通過させることに成功する。これにより飯田も戦火から免れた。


天狗党の鎮圧軍は若年寄・田辺意尊が率いていた。幕府は一戦も交えず反乱軍に領内を通過させた飯田藩を叱責し、藩は2000石減封され、家老の一人と清内路関所の門番が切腹させられた。しかし、鎮圧軍のその後の動きから分かるように、彼らは江戸からの追討の道中、天狗党の隊列と一定の距離を保ち、自らは攻撃を加えず、ただ進軍途中の各藩に戦わせていただけなのだ。そんな情報を伝え聞いていた半蔵は、幕府のやり方を武士の風上にも置けないと感じる。



半蔵が夢見た王政復古と現実


半蔵は日々の仕事に追われながら、一方では幕府の権威が日に日に失墜していくのを感じている。そんな彼は、平田国学の思想にもとづく「古の日本の精神に帰った理想国家」を夢見るようになる。「王政復古」である。


彼の仲間の国学者たちの中には、京都に出て勤王派として活動し、さらにはその知識を生かして朝廷の公家たちに接触する松尾多勢子のような者も出る。半蔵はそうした彼らを羨望の思いで見守る。自分も何か行動を起こしたいと思うのだが、本陣・庄屋としての立場がそれを許さない。


幕府による2度の長州征伐とその失敗、14代将軍・家茂の病死と、新たに将軍となった慶喜による大政奉還、そして戊辰戦争。幕末期の社会の動きを、半蔵が目にしたもの、京都の仲間からもたらされた情報、宿場で伝え聞いた噂話などを通じて、藤村はこれでもかと克明に描く。その筆力は圧倒的である。


そして徳川幕府は倒れ、明治という新たな時代に入る。


これにより、それまでの宿場制度は廃止された。参勤交代ももはやなく、本陣という役割も不要となる。半蔵は新たに「戸長」に任命される。今で言う村長のようなものだ。半蔵は今までの特権(同時に苦労でもあるが)を失ったが、新たな時代が到来したことを素直に受け入れる。


この頃、木曽街道周辺では「山林問題」が持ち上がる。村人の森林伐採の権利を、明治政府が全面的に規制したことで、山村住民の生活が成り立たなくなった問題である。


半蔵は持ち前の正義感を発揮し、自ら地元のリーダーとして地方政府(松本にあった筑摩県庁)に辛抱強く改善を訴える。しかし、政府はなんらの措置も講じず、彼を待っていたのは「戸主免職」という非情な通知だった。


表面上は実現した「王政復古」も、そこで行われる政策の実情は、自分の理想とはかけ離れていることを半蔵は感じ始める。その後、つてを頼って東京の教部省に就職するものの、政府の政策に国学という学問が全く生かされておらず、国学を軽視する同僚にも愛想を尽かし辞職。



あと数日で東京を離れるというある日、明治天皇の行幸があると聞いた半蔵は、神田橋見附跡に向かう。


「彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢の中にある名もない民の一人でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。」


彼はその歌、『蟹の穴ふせぎとめずは高堤やがてくゆべき時なからめや 半蔵』と書かれた扇子を、明治天皇の行列に投げ込むというとんでもない行動を起こし、警察沙汰に発展してしまうのだ。


その後の彼は、山深い飛騨地方のある神社の宮司を数年務めたのち、故郷・馬籠へと戻ってくる。時流に乗り遅れた青山家の家計はすでに傾いていた。東京で警察沙汰になり、生活力もないとみなされた半蔵は、母・おまんの判断で40過ぎで隠居となり、長男が青山家の家督を継ぐ。


若い頃から教育熱心で、地元の子供たちに読み書きを教えていた半蔵は、再び「お師匠さん」としての静かな生活を送るかに見えた。しかし、彼が抱いていた理想と社会や自己の現実の乖離から、日に日に酒量が増えていき、徐々に精神を病んでいく。


奇妙な言動や行動がエスカレートした彼は、青山家にも縁故の深い万福寺の放火未遂事件まで起こしてしまう。


この事件の背景には、明治政府による宗教政策があった。



当初神道の国教化を図った明治政府は、その下準備として神仏分離政策を行なった。しかし、平田派の国学者が主張する復古的な祭政一致の政体の実行は、仏教をはじめとする他宗教側の協力も不可欠であり、実際には困難であった。政府は1872年に神祇省を廃止し、教部省(半蔵も短期間就職)を設置するが、1877年、その教部省も廃止され、内務省社寺局に縮小される。こうして、神道国教化の政策は放棄され、政府は「神道は宗教ではない」という見解をとるようになる。


半蔵は、神仏分離すら全うできなかった明治維新の現実を、国学の徒として許すことができなかったのである。


「どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこにもその理由が見いだせなかった。(中略)今日の住持松雲和尚はまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日ごろ感謝していいと言っていたくらいだからである。(中略)およそ村民との親しみを深くすることは何事にかぎらずそれを寺の年中行事のようにして来たのもあの和尚である。こんなに勤行をおこたらない松雲のよく護っている寺を無用な物として、それを焼き捨てねばならないというは、ほとほとだれにも考えられないことであった。」


半蔵の家族や村人たちが、半蔵の内心を理解することはなかった。狂人とみなされた彼は座敷牢に監禁され、そこで病死する。


以上がこの小説の概要だ。




『夜明け前』に想う


『夜明け前』のポイントの一つとして、小説の舞台である馬籠の地理的条件があると思う。


中山道において、馬籠は江戸と京都のほぼ中央(やや京都寄り)にある。当時、時代の中心は江戸と京都であり、倒幕運動の過程で権力が江戸から京都に移行し、倒幕によって政治の中心は再び江戸(東京)に戻った。その社会の動きのちょうど中間地点に馬籠が位置していたのである。


「すべて山の中」であった木曽街道の宿場町の一つである馬籠は、もちろん江戸と京都の双方から隔絶した場所だったが、江戸の情報は京都よりも早く、京都の情報は江戸よりも早く、それぞれ入ってきた。また、領主のご城下である名古屋に足を運べば、そこで京都の情報をいち早く得ることもできた。『夜明け前』を読むと、当時の情報入手の事情がよくわかる。


そして、小説のキーワードとなる「国学」という思想・学問も、飯田を中心とした馬籠を含むこの地方で盛んだった。以上のことから、『夜明け前』とはまさに、「この地方でこそ生まれた登場人物と小説」と言えるのではないか。


また、この小説には、主人公の周囲に「いわゆる悪者」が登場しない。家族を含む人間同士の性格の不一致や特異な事件、トラブルといったものを軸にして、物語は展開しない。あくまでも、幕末から明治にかけての宿場町を切り口に、日本社会の変動を描いた社会小説である。その点では、幕末史に興味がある人は、歴史研究よりも前に、予備知識としてこの小説を読んだ方がいいだろう。


そして、藤村の自然描写の綿密さもまた、この小説の大きな魅力である。彼の観察眼と表現力を示す素晴らしい描写が随所にあるので、ここではいちいち挙げない。


理想に敗れ、悲惨な最後を遂げたように見える半蔵だが、彼をよく知る村人たちの口を借りて、藤村は「お師匠さんほど清い人はいない。あの人をあと10年長生きさせたかった」と言わせている。


『夜明け前』の最後、半蔵の葬儀は彼が望むであろう国学式によって営まれている。


本人にとっては不如意なことばかりだったとしても、激動の時代に理想を抱いて格闘し、家族や村人たちに見守られて死んでいった半蔵の生き方を見ると、彼は幸せな人生を送ったと、私には思えてならない。(Y)