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Kazu Bike Journey

Ride in Setouchi & San-in Day 99 (22/6/19) Takasago Castle Ruins 三木合戦 [1] 高砂城跡

2019.06.23 07:23

Takasago Castle Ruins 高砂城跡

工楽松右衛門旧宅

高砂向島砲台跡/高砂海浜公園

Kakogawa Castle Ruins 加古川城跡

Noguchi Castle Ruins 野口城跡

Kanki Castle Ruins 神吉城

Shikata Castle Ruins 志方城跡


小豆島の兄宅で4泊し、ゆっくり旅の疲れを癒して、再出発。姫路に向かう船からの瀬戸内の島々。

ここ数週間は黒田官兵衛と羽柴秀吉の中国征伐をたどっているのだが、西播磨はほぼ終わり、今日からは東播磨を追いかけて行く。東播磨は三木城主の別所氏と秀吉の戦いが中心になる。この別所は自分の母方の祖先にあたると言われている。小さい時から秀吉に滅ぼされた別所長治の話は祖母からも聞かされていた。別所長治の側室の遺児が小豆島福田に落ち延び、姓を三木に変え、隠れ住んでいたという話を聞かされた。他にも子孫という人もいるので、100%確信は無いが、そうあって欲しいとも思う。自分にもほんの少しでも別所長治の血が流れていると思うと不思議にサムライスピリットが出てくる。

秀吉の三木城攻めは、先ず第一戦は、三木城攻略を甘く見ていた秀吉勢が別所勢の奇襲に破れ、加古川城に撤退、そして姫路の書写山に陣を引いて作戦の変更を余儀なくされた。そこで、別所氏に味方する東播磨の30余の支城を落とし、三木城を孤立させる事にした。今日はその別所側の三木に移動する途中にある主要な支城をめぐる。(残りの支城は明石に移動した後、また姫路に戻る途中で訪れようと思う)

Takasago Castle Ruins 高砂城跡

高砂城は鎌倉時代には梶原氏の居城だった。寿永三年/1184年に梶原景時が播磨国の守護となってからと推測されている。羽柴秀吉の三木城攻めの際では、城主の梶原景行は別所側につき、毛利の援軍と連携して兵糧の供給基地として後詰めを行う。三木城への兵站のルートはいくつかあった。明石の魚住からや神戸北部の箕谷など。秀吉はこの高砂からの兵糧を絶つべく高砂城攻めを開始。最初の攻撃目標となった野口城攻めと並行して攻撃をする。秀吉勢は一千騎で攻め寄せるも、景行は三百余騎で、毛利の援軍もあり、打ち破った。その年の7月までは持ちこたえたが、その後の秀吉軍の大軍の前にはなす術もなく、落城となり、兵を従え、三木城に敗走した。三木城が22ヶ月もの長期間籠城出来たのはこの藤原景行が兵站の確保に尽力した事が大きい。関ケ原の戦い後に池田輝政が播磨に入封して姫路城を築くと、1612年 (慶長17年) に、播磨灘の防御の為、この城を大規模に再構築した。しかし、3年後の元和の一国一城令により廃城。現在城址には高砂神社が建っており、城の遺構は無い。

高砂神社の境内に工楽松右衛門の銅像が建っている。この人のことは全く知らなかったが、この近くに松右衛門の旧宅があるので行ってみた。

工楽松右衛門旧宅

幕末期の事だが、漁師から始め、北前船の運行に発展し、北前船の帆の改良版の松右衛門帆の発明、港湾工事を請け負った際には石船の発明をするなど幅広い活動で貢献。港湾工事は日本全土に及び、択捉島にまで赴いていた。先日訪れた鞆の浦も松右衛門の業績であった。高田屋嘉兵衛を可愛がり指導していたという。こんな凄い人が高砂にいたんだとびっくり。

高砂にも古い町並みが残っている。姫路の瀬戸内側にも同じ様な古い町並みがあった。播磨には多く残っている事に驚いた。もっと宣伝して、各地が連携して整備すれば良い観光資源になるのにと思うのだが。

高砂向島砲台跡/高砂海浜公園

高砂は結構歴史がのこっている。これは発見だった。高校は高砂にあり毎日通っていたが、全く高砂には興味が無く、どこにも行かなかった。少し散策をして見ようと地図を見て、海岸にある公園に行ってみた。加古川の中洲の様なところにある。土曜日だが、人もあまりおらず、静かな雰囲気で松林を散歩できた。突堤の端に砲台跡がある。幕末期には瀬戸内沿岸にいくつ砲台が設置されていた。瀬戸内沿岸にはいくつか設置されていた。

そういえば神戸でも砲台跡があった事を思い出した。

Kakogawa Castle Ruins 加古川城跡

城の始まりは、寿永3年 (1184年)、糟屋有季が、平氏追討の功により源頼朝から播磨国印南郡南条郷を与えられ、承久の乱 (承久3年6月、1221年6月) 後、糟屋有教がこの地に築城した。鎌倉時代には加古川城には播磨守護代として糟屋氏が在城した。

天正5年 (1577年) 10月、羽柴秀吉が播磨に入った際に、この城で毛利氏討伐の軍議が開かれた。この時の城主の糟屋武則は、三木城攻めにも参加し、その後、秀吉の小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いでは七本槍の1人として活躍し、晩年は1万2千石の大名にまで出世した。関ヶ原の戦いでは西軍に付き、領土を没収断絶となり、加古川城は破却された。現在は跡地に称名寺が建っている。

先に述べた毛利討伐の軍議が別所氏の去就に関わっているのでもう少し詳しく見ていこう。

  • 天正5年 (1577) 10月、秀吉は織田信長に中国攻めを命じられ、秀吉は播磨に下向し、別所氏らの協力を得て1ヶ月足らずで播磨の大半の豪族を掌握。この時点では別所は秀吉に味方していた。 
  • 秀吉は、背後の脅威である但馬や毛利の勢力が浸透している福原城、上月城を武力平定し、一度、戦果報告に帰国。
  • 再度、秀吉は播磨に入り、天正6年 (1578) 2月、加古川城に国内諸城主を集め毛利勢攻略の軍議をおこなう(加古川評定)。三木城主別所長治代理で叔父の別所吉親 (よしちか) が出席。と資料にはさらりとと書かれているのだが、ここで疑問が出る。何故別所長治が出席しなかったのか? 当時、長治は21才で、父の安治が早逝し、13才で家督を継ぐ。父 安治の二人の兄弟の次男 吉親と三男 重棟の執権政治となる。それがずうと続いており、特に年長に叔父の吉親の発言力は強く長治は頭が上がらなかったのではと推測していた。長治はそれまでに黒田官兵衛/羽柴秀吉/織田信長共あっており、信長からは「長」をもらい長治と名乗った関係だった。翌日にあったボランティアガイドさんに聞いてみたところ、吉親が長治に行かせなかったという。吉親は主導権を維持したかった。
  • ここでもう一つ興味を引くのは会議はどうだったのかだ。資料では、「吉親は毛利びいきで名門意識の強く、評定で別所氏の家系から代々の軍功を語る長談義に及び、秀吉を見下す態度で、それが秀吉の不興を買う事になった。憤懣を抱いた吉親は三木城へ帰ると長治を説き伏せ、信長からの離反を決意させる」とある。また別の資料では「秀吉の傲慢な態度で播磨の諸侯の不興を買い、赤松氏も毛利側を決定した」とある。もう一人の叔父の重棟はこの会議の後も秀吉側に付いている。当然、この重棟も三木城での話し合いには参加しているだろうし、長治も秀吉支持であっただろう。やはり吉親の暴走と思えるが、秀吉にも大きな問題があるあっただろう。(人たらしと言われるぐらい人の扱いに長けていた秀吉が、赤松や別所と決裂にまで至るような態度であったとは少し不思議だ。猛スピードで出世した事が、傲慢にさせたのかもしれない。ただ、痛いレッスンだったと思う。それ以降は飴と鞭を上手く使い分けていたと思う。何か、当時の秀吉の気持ちがわかるような気がする。人は一時は考え違いや錯覚に陥るが、それで痛い目にあい学んで行くのだろう) 当時別所氏は播磨27万石、秀吉は10万石ぐらい。別所は赤松家からの分家で名門意識が強い。秀吉を軽く見ていた事は想像できる。ボランティアガイドさんがもう一つの理由を言っていた。秀吉の毛利攻略後の東播磨の覇権についてだ。攻略後は秀吉の領土となる。別所は今まで通りで、自分達が治めると思っていたのが、秀吉の傘下にならねばならない。これは別所氏としては面白くない。これは長治が最終的に吉親の意見に従った理由と言う。これは納得できる。
  • この決裂により、翌天正6年から8年 (1578年 - 1580年) にかけて三木合戦が始まり、三木城及び別所氏一族の諸城を秀吉が攻める事となる(野口城、神吉城、志方城、高砂城、端谷城、御着城など)。天正8年に秀吉は諸城を陥落させ、ついに三木城を落城させ、長治は城兵の命を引き換えに切腹し、東播磨を手中に収めた。

Noguchi Castle Ruins 野口城跡

三木城の支城で、別所長治の家臣である長井四郎左衛門長重の居城。長井氏は三木城の別所氏に属して、天正6年(1578年) 三木城合戦では、4月2日に三木大村で痛い敗北をし、姫路書写山に撤退し、攻撃目標を三木城の支城に変更、最初の攻撃目標となり4月3日に秀吉側の別動隊が攻めるも撃退される。そこで、織田信忠と羽柴秀吉の軍勢が三日三晩攻め立て、長井長重は4月12日に降伏、落城となった。現在の野口神社を含め、その周辺に城があったと推測されている。

Kanki Castle Ruins 神吉城跡

赤松氏一族の神吉氏が築城、初代城主は赤松則村 (円心) の子孫の赤松範次。範次の子 元頼が神吉城主となり神吉氏を称した。

加古川城での毛利討伐の軍議で別所氏と羽柴秀吉が決裂した際、城主神吉頼定は、同じ赤松氏一族の別所氏につく。周辺の野口城、志方城、高砂城とともに守りを固め、神吉頼定は三木の大村坂で秀吉勢を攻め立て、大勝利を収めた。秀吉は周囲の支城から落とす作戦に切り替え、まず野口城が4月12日に落城、次に神吉城が標的になった。城攻めは6月26日に始まり、神吉頼定は兵約二千人で籠城。対する秀吉勢は織田信忠、明智光秀、荒木村重ら約三万人で攻め、秀吉勢は頼定の伯父を謀略で味方に引き入れ、頼定を暗殺し神吉城は7月16日に落城。常楽寺の本堂裏の墓地に城主神吉頼定の墓があった。

Shikata Castle Ruins 志方城跡

軍師官兵衛での志方城の櫛橋家のキャスト(左から 櫛橋伊定[これさだ]左京亮、櫛橋政伊[まさこれ]左京進、光[てる]) 大河ドラマでは櫛橋は小寺氏の家臣の様な描かれてかたをしていた。三木合戦に何故、小寺氏家臣が絡むのかと疑問が出て、調べて見ると、小寺とは姻戚関係はあったが、別所氏の家臣だった。ただ、まだ櫛橋氏の大河ドラマでの演出がしっくりこない所が大きい。官兵衛の妻が櫛橋の娘だったから、なんらかの脚色があるのかも知れない。

志方城は黒田官兵衛の奥方てるが生まれた櫛橋氏の居城。築城は明応元年 (1492年)、櫛橋則伊による。その後4代にわたり存続したが、天正6年 (1578年) 7月、4代城主の櫛橋政伊の時、羽柴秀吉に反旗を翻した三木城主別所長治に呼応。周辺の野口城・神吉城が羽柴軍に落とされ孤立、8月初旬に秀吉の救援に赴いていた北畠信雄が7,500余騎をもって志方城に迫る。櫛橋の城兵はわずかに1千余で、しかも半数以上赤痢のため倒れ、8月10日に櫛橋政伊は降伏、開城。秀吉勢はこの後三木城に進む。その後、櫛橋は妹婿に当たる黒田孝高の助言で、櫛橋一族の多くは黒田家臣となった。志方城落城後の天正15年 (1587年) 宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に観音寺を建立し現在に至る。

志方城訪問の後、三木市に向かう。明日はいよいよ三木城と三木合戦を詳しく見る予定。