F.CHOPIN、ショパンはパリ、サンドはノアンから遠隔操作
借金に追われているサンドとショパンは、サンドの体調が芳しくなかった。ショパンは、厄介な弟子のレッスンから逃れることがノアンでは出来たが、サンドの収入が見込めない限り、生活の事はショパンの肩にのしかかっていた。ショパンの頭にはいつも借金という言葉が離れなかった。
ショパンは空気の悪い大都市パリから逃れ、夏の間はノアンの田舎で作曲に集中して、それが出来上がったら出版社に売り込むという仕事の方法もままならなくなっていた。
ショパンは父ニコラスから、「教える仕事はお前の身体の害になるから、お前は芸術家として作曲と演奏に専念し、お前は孤高の道を歩むように」と、ショパンは父ニコラスに助言を受けて来たが、そのニコラスとの約束もサンドといる限りは守れなくなっていた。
ショパンがそんな苦悩を抱えていようが、サンドは、容赦なくショパンに目先の現金を手っ取り早く稼いで来るように指図した。それは、マルリアニ夫人と密かに相談したサンドであったが、サンドかマルリアニのどちらが先に考えたかは、もはや不明である。
サンドはマルリアニにショパンを説得したから、ショパンがパリに到着したら監視を頼むと連絡をした。
「私の友人、パリのマルリアニ様。
いつものように、私の下部ショパンがパリへ戻ります。私はショパンの管理をあなたに委ねるので、たとえショパンがあれこれ断っても、あなたに従わせてください。
ショパンは監視をしないと毎日の午前1時までの予定がばらばらになります。なぜなら、ショパンは愚かなポーランド人の使用人を雇っているからです。」
サンドはショパンをマルリアニと一緒になって、自分たちの思惑通りにしようと企んでいた。
ショパンはパリで、サンドとは別に、ポーランド語が話せるポーランド人の使用人を雇っていたがサンドはそれが気に入らなかったのだ。
さらにサンドは、マルリアニにショパンの監視スケジュールを提案したのだ。
「ショパンは、夕食はあちらこちらからの招待があるので、私たちが用意したものをショパンに食べさせられないのです。問題は朝です、ショパンは朝8時からレッスンの予定はいっぱいにしてありあす。その時に、残念ながらショパンは、我々が用意した1杯のホットチョコレートまたは、肉汁を飲まない恐れがあります。そこで、
ショパンは昼間はレッスンの仕事がいっぱいで、ショパンは余裕がない状態です。そのときがチャンスです。どさくさに紛れて、ショパンの喉にホットチョコレートと肉汁をあなたが流し込んでやってください。それを、あなたができなければ、あなたの義理の弟エンリコか私の使用人のマリーがやってくれるといいのですが。
ショパンは自分のポーランド人の使用人が用意したシチューが豚・羊あばら骨つきのチョップしか食べないので、私たちは困るのですよ。」
ショパンはマルリアニ夫人の家で食事をすることが既に嫌気がさしていた。口に合わないものばかりが出され身体が元気にならないからだった。ショパンはマルリアニのことも信用していなかった。それでポーランド人の使用人に自分が好きなポーランド料理を作らせるようになってきていた。
ショパンはポーランド料理を食べると元気になるのだ、それがサンドとマルリアニの神経に触るのであった。マルリアニとサンドはショパンが反抗的だと思い込み気に入らなかったのだ。
サンドは、しつこくマルリアニにショパンを懲らしめるように計画書き指示した。
「ショパンが反抗的なときは、あなたはショパンを脅迫してください。
そして、ショパンの上にエンリコを警察官として配属し、ショパンの監視を強めるとショパンを脅してください。」
サンドは、ショパンに親切を装いながらマルリアニと監視を強化することを誓ったのだ。
そして、マルリアニにサンドは言った。
「ショパンが具合が悪くなったら、すぐに連絡をください。私がショパンの世話をしますから…。」
そうマルリアニに告げたサンドであった。サンドは体調が悪かったのは仮病だったのか。1834年の10月のことであった、ショパンは10月の始めには馬車で小旅行もしていて、疲れがとれないまま、パリへ戻され毎日夜中の1時まで、嫌いなレッスンと貴族の夫人の夜会でスケジュールがいっぱいで更に疲れていた。
11月になり、ノアンには秋の風が吹くようになっていた。ショパンはまだノアンへは戻らず、パリで借金のためのお金を稼ぐ毎日であった。サンドはノアンでくつろぎながら、ショパンが軽蔑していた娼婦ロゼールに言った。ロゼールはパリにいた。
「私は、ノアンで家事があるので、まだパリには行けないのですよ。
ショパンは無理やりパリに行かせて、レッスンの仕事をするようにさせたのは私です。
しかし、それは、ノアンが冬はとても寒くなるから、ショパンの身体に悪いからです。」
家事などしないサンドはこうロゼールに言い訳をし偽善を語った。
そして、「息子モーリスがパリで絵の勉強を始めた」と、ロゼールに自慢をしたが、言いたいことは「だからお金がいるのですよ」これに尽きるのであった。
それをショパンに肩代わりさせなくてはならないから、ショパンには嫌いな仕事をして金を儲けてもらわねばならないのですよ、と、サンドは娼婦の仲間ロゼールに「わかるでしょう、あなたならば」と、言いたかった。
そして、娘のソランジュの事はというと、「ショパンが私がひとりで孤独にならないように、ソランジュをノアンに一緒に居させてあげてください」
と、ショパンがサンドに言ったとロゼールに話した。
ショパンはソランジュにいつも母親サンドのことで泣きつかれて、ショパンは仕事にならず困っていたのだ。サンドは娘ソランジュを愛していなかった。サンドは、ショパがどこまでも人がよく、育ちがよく親子のことまで口出しし、ソランジュの肩を持つショパンがサンドはだんだんと憎くなっていた。
そして、サンドはショパンが自分に何かと逆らい、自分に意見をすることが腹立つのである。サンドは、職人ショパンは私よりも下の立場で私の下僕でしかないのだとショパンに思い知らせてやろうという感情が湧いていた。マルリアニに指示しただけでは、気分が収まらないサンドは、ロゼールも巻き込んで、パリでモーリスとショパンがどうしているかを見て来るように命じたのだ。
「なにか、嘘の口実を作って、あの二人の子供(モーリスとショパン)を訪ねて、ふたりがどうしているかを私に報告してきて下さい。ショパンが元気づいていたら私に密告するように…。」
サンドは完全に狂っていた。そして更にロゼールにサンドは言ったのだ。「ショパンの具合が悪くなった時はマルリアニに伝えないで、あなたを(ロゼール)呼ぶように、ショパのポーランド人の召使に言っておきます。そのあと、医師のモーリンさんをあなたは呼んでください。」
サンドはマルリアニにショパンを懲らしめる計画を話した直後に、もしも、ショパンが具合が悪くなったときは、最後はマルリアニと自分は関わらないで済むように、
ロゼールとポーランド人の使用人のせいにするために、ロゼールに指示を与えた恐ろしいサンドであった。
この頃、サンドは子供の教育が悪かったことのツケが回って来ていた。しかし、サンドは子供の事はショパンに押し付け、お金のことも教育のことも面倒をみさせていたサンドであった。
ショパンはこの年は、前年に大作を書いたのが人生の頂点となって、この頃から、サンド一家、マルリアニの監視に振り回され転落していくのであった。
ショパンが嫌っていた小説家のバルザックであったが、バルザックは1838年の頃から、サンドを批判していた。パリのハンスカ夫人へ宛ててバルザックは話した。「サンドは娘のソランジュを男の子として扱っている。それは、良くないことです。そして、息子のモーリスは、
あまりにも早すぎる頃からパリで散財することを味わうことをさせました。」娘ソランジュには愛情を与えず突き放し、息子モーリスは甘やかしすぎだということである。
更に、バルザックは、この時から4年後の、ショパンがサンドと別れることになる1847年に、サンドがショパンとの関係の妄想を書いたと推測される小説「ルクレシア・フロリアニ」について、「女性作家としての危機的な年齢の終着点」として酷評することになるのだ。(1847年6月26日付パリのハンスカ夫人へバルザックが宛てた書簡より)
1843年のノアンは不明なことが多い、フォンタナがパリにいないことでショパンの心情が書かれた書簡が激減しているからである。しかし、サンドの言動やリストの行動を辿るとショパンが追い詰められてお金のための仕事をこなしているだけの毎日になっていることが伺える。しかも、それは朝の8時から午前1時まで、ショパンは寝る時間がないのだ。
1834年は、ノアンの滞在期間は6月から10月末まで、ショパンは、その間に9月末から10月初めの2泊3日はノアンからクルーズ県へモーリスとの小旅行。その後はパリでレッスンの仕事。サンドは6月から11月までノアンで過ごした。サンドは毎年のように行っていた芸術家のサロンをショパンがいない間に開催はしないのである。
それは、1834年は静かなノアンだったかのように見えた。しかし、ノアンの館で起きた事件があった。1843年6月にスペインの踊り子で高級娼婦の、ローラ・モンテスがロンドンでデビューをした年であった。ローラは、富裕な資産家男性たちの愛人だった。その中の愛人の一人であったフランツ・リストがサンドのサロンに、ローラを紹介したのだ。ローラはサンドの館で出会った新聞社社長アレクサンドル・デュジャリエの愛人となった。しかしデュジャリエはローラを巡って起こった決闘で殺されたのだ。
サンドの館にリストから送り込まれてくる高級娼婦、サンドがリストに頼んで呼んだのであろう。そして謎のフィルチ親子、ショパンは災難な年であった。
オノレ・ド・バルザック(1842年撮影から)
( 1799年5月20日 - 1850年8月18日)19世紀のフランスを代表する小説家。
代表作は、90篇の長編・短編からなる小説群『人間喜劇』。19世紀ロシア文学(ドストエフスキー、レフ・トルストイ)に影響を与えた写実的小説である。
ロマン主義文学のヴィクトル・ユーゴー、アレクサンドル・デュマ・ペールと親友であった。