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特別の教科「道徳」指導案

「思春期の子育て」―先生からお母さんへ―①

2019.06.25 12:14

                         横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊

第1話 

『良いクラスは作り出すもの』

新しい1年がいよいよスタートします。

初めてのクラスの始まりは、誰しも期待と不安が入り混じった気持ちになります。

「○○さんや○○君と一緒のクラスになりたい」

逆に「○○さんや○○君と一緒のクラスにはなりたくない」などという、様々な思いが頭をよぎるものです。

しかしただひとつ言えることは、「このクラスで良かった」という思いは「与えられるもの」ではなく、「作り出すもの」と言うことです。

私達はたくさんの人と出会い、そして別れていきます。

それらは決して自分の思う通りにはなりません。

新しい人との出会いや別れも、必ず私達の意志の外にあるからです。

出会いを前向きに受け止め、このクラスの友達と一緒になれたことにいつか感謝できる私になりたいものです。

そのためには、「自分のことだけを大切にする」のではなく、「周りの人も大切にできる心」をもって生活できることが大切です。

人に意地悪をしたり、悪口を言ったりしていたのでは、本当の「仲間」にはなれないからです。

クラスの全員が助け合える「仲間」であり、

       競い合える「仲間」であり、

       高めあえる「仲間」である、

「すばらしいクラス」を作りましょう。

第2話

『踏み出す勇気』

専門委員会や修学旅行実行委員を決めなければなりません。

意欲のある人に、ぜひ立候補してもらいたいものです。

委員や係の仕事を「やってみたい」と心で思っていても、立候補するには勇気がいります。

みんなの前で立候補するのは「てれくさい」ものです。

「選ばれなかったら恥ずかしい」「でしゃばりと思われる」等々の思いもあるのではないでしょうか。

意欲はあっても、やはり周りの人に遠慮して立候補しずらいものです。

しかし、新しい一歩を踏み出すことは新しい自分を創る第一歩でもあります。

新しい自分作りの始まりなのです。

心に秘めている思いを行動に移し、自分の可能性を伸ばしていってください。

たとえ選ばれなくても、たとえ失敗しても、たとえ笑われても、

良いではありませんか。

成功というゴールだけが目的ではありません。

本当の目的は、前に進もうとする姿勢なのです。

第3話

『委員だけが評価対象ではない』

高校入試に使われる中学校の調査書には、委員会活動や係活動の状況を記入する欄があります。

中学3年生ともなると高校入試を意識するあまり、専門委員選挙で落ちたときなど大きなショックを受けることがあります。

しかし大丈夫です。

委員になることだけが学校生活の評価対象ではありません。

昔こんな生徒がいました。

その生徒は毎回意欲的に掃除に取り組みました。

黒板下や棚など汚れている部分のぞうきんがけを進んで行うなど、最後まで陰日向なく一生懸命に取り組みました。

またこんな生徒もいました。

その生徒は黒板ふき係でした。

毎時間毎時間、授業が終わるたびに黒板をピカピカに拭き続けました。

各教科の先生方が驚きと感心の気持ちを抱いていました。

これらの生徒が、学校から人間性として高い評価を得たことは言うまでもありません。

これらは委員会活動ではありません。誰もが取り組む係活動なのです。

大切なことは委員になることだけでなく、与えられた仕事に全力で取り組むことです。

大切なことは、ひとつでも良いことを続けることです。

ある人がこんなことを言っていました。

「私はトイレを入るたびにスルッパをそろえて出ることをやり続けています。

 それは私が死んだとき、閻魔さまにひとつだけですが胸をはって言うためです。」

この人のようにひとつだけで良いです。正しいことをやり続けたいものです。

第4話 『暴力は暴力を生む』

子育ては、時として子どもを厳しく叱らなければならない場面があります。

子どもを厳しく叱ることも、時にはとても大切なことです。

しかし殴られて育てられた子どもは、殴られることを嫌悪しながらも、暴力をふるう子どもになることが多いように思います。

暴力を、知らず知らずのうちに学習しているからです。

家庭内暴力や幼児虐待のニュースが時々流れてきます。

幼児虐待や、子どもに暴力をふるう多くの親は、子どもの頃に同じように親から虐待や暴力を受けていたケースが多いとの研究報告がなされています。

心の深層に知らず知らずのうちに、暴力がすり込まれているからです。

子どもは、親や教師の行動様式を無意識の内に学習します。

心理学ではモデリングなどと呼びますが、教えてもいない親の行動様式が子どもに伝わる現象です。

子どもは無意識の内に学習しているのです。

「子どもは親の背中を見て育つ」などと言います。

子どもは大人の姿勢を見て学習するのです。

子どもの模範となる姿勢で、親や教師は生活したいものです。

第5話 『見習い』

「誰もがわかるような教え方」ができて、初めて一流の先生と呼ばれます。

しかし、一流の先生であっても教えられない生徒がいます。

それは、「学ぼうとする意欲」のない生徒です。

昔の日本には、「見習い」という制度がありました。

「見習い」とは、「見て習う」という意味です。

今の世の中は、手とり足とり懇切丁寧に教えることが良いことだと考えていますが、

「見習い」の世界では、先輩は新入りの人に何一つ教えません。

下働きといって、先輩の仕事のごく一部を手伝わせるだけです。

それでもみごとな日本の匠の技は、みごとに伝承され発展してきたのです。

「先輩の仕事を手伝わせるだけ」という関係は一見すると、とても意地悪な世界のように見えます。

しかし、「見習い」の人達は先輩に怒られ続けながらも、わずかな時間を惜しんで先輩の技を盗み取っては、先輩の匠の技を身に付けていったのです。

「学ぶ」とは、「まねる」という言葉から由来しているように、まねることから勉強は始まるのです。

ややもすると最近の生徒たちは、「教え方が悪い」と原因を相手に転化をしがちです。

しかし、自分の力で「分かろうとする思い」や「マスターしようとする思い」、そうした強い意欲をもっていれば、たとえ何一つ教えてくれない先輩であっても、匠の技が習得できることを「見習い制度」が教えているのです。

物事は、「学ぼう」「習得しよう」という強い意欲が湧き起こったときは、どんな悪い環境の中であっても、その願いが成就できるものです。

「意欲」をもつこそが、勉強の第一歩なのです。

第6話 『中学生の時期の子育て』

小学生の時期の子育ての主眼は躾です。

躾とは、漢字が表すように「身を美しく整えること」です。

挨拶や態度、目上の人への敬語など、社会生活を送る上で大切な習慣を身に付けさせることです。

中学生の時期の子育ての主眼は、「自律」や「自立」へと移っていきます。

自分で自分を律せる力、自分から行動できる力を育てる時期です。

中学生の時期は、自分の考えが出てくる時期でもあります。

ですから「いけない」と注意するだけでなく、「なぜいけないのか」という「理由」をしっかり理解させることも大切です。

中学生の時期は、自身で納得できなければ無条件に大人の言うことに従いません。

これが「反抗期」と呼ばれる所以です。

子どもに理由を納得させることも大切なのですが、他に重要なことがあります。

それは、注意する側の大人の姿勢です。

「自分を棚にあげて」という姿勢では子どもは決して納得しないということです。

納得しないばかりか、反発や反抗も生じてきます。

親や教師の姿勢が問われる時期が、「中学生の時期の子育て」なのかもしれません。

人として完全な親や教師など、どこにもいません。

大切なのは「よりよく生きようとする姿勢」ではないでしょうか。

第7話 『ありがとうの一言』

家族の中や、親しい間柄のゆえに「ありがとう」の一言が言いにくいことがあります。

長年一緒に暮らしているから「何も言わなくとも思いが通じる」、と考えている人もいるでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか。

あるお父さんは、会社から帰宅すると居間に座るなり、お母さんに向かって、

「お~い、ビール」「めし」「風呂」、お母さんと交わした言葉がたったこの三つだけだったそうです。

長年一緒に暮らしているのだから、この三つの言葉だけでもお互いを思いやり信頼し合える関係なのだと、本当に言えるのでしょうか。

お父さんは仕事で疲れていますが、お母さんにしてみても同じです。

女中さんのように命令されてばかりでは嫌になってしまうでしょう。

親しい間柄であっても「ありがとう」、という一言が大切なのではないでしょうか。

互いの心の距離は、ささいなすれ違いから生じてくるものです。

夫婦の間であっても、親子の間であっても、相手を思う心配りをおろそかにしてはいけないと思います。

「ありがとう」「おはようございます」のたった一言ですが、その一言に温かい心を込めて身近な人にも使いたいものです。

第8話 『やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめ      てやらねば人は動かず』

どのように教育すれば良く身に付くのか?

企業でも、学校でも、家庭でも大いに苦心するところです。

昔、第2次世界大戦時の連合艦隊司令長官であった山本五十六大将は、

人を育てるには「やって見せ、言って聞かせ、させてみて、ほめてやらねば人は動かず」と言われたそうです。

この言葉には仁将と言われた山本大将の教育者としての心構えが込められています。

教える側が「出来て当たり前」という気持ちでは、習う側は意欲を失うでしょう。

出来なければ落ちこぼれでは、劣等感を育てているようなものです。

一生懸命に努力している点を理解し、評価してあげなければ誰でもやる気は起こらないのです。

「ほめてやらねば」という言葉には、前向きな姿勢を支えている「向上心」を育てていく姿勢がうかがわれます。

中学生を育てるのも、大人を育てるのも、年齢という違いはあるものの、人の本質に違いはありません。

努力している姿勢こそが大切であり、出来たことを上手に評価し自信を育て、ほめながらもうぬぼれさせるのではなく、前向きな姿勢を如何に育んでいくかに教育の本質があるのではないでしょうか。

第9話 『言葉のキャッチボール』

キャッチボールは相手のボールをしっかりと受け止め、相手にとれるようにボールを投げ返すものです。

このことは、「会話」についてもいえます。

相手の言葉をしっかりと受け止め、相手に投げ返してあげなければ、楽しい「会話」を交わすことはできないからです。

相手の言葉をしっかりと受け止めるということは、相手の話を耳で「聞く」のではなく、心で「聴く」ということです。

子どもに限らず大人でも、外であった出来事や悩みを家族に聴いてもらいたい、自分の気持ちをわかってもらいたいと思うことがしばしばあります。

楽しかった気持ちや、困った気持ち、悔しかった気持ち、つらかった気持ち、その時々の気持ちを共有してもらいたいのです。

「聴く」とは、相手の心情、思いを察してあげることです。

会話の内容だけでなく、感情をしっかりと受け止め、共有できることが大切なのです。

アドバイスよりも、まずは子どもの思いをしっかりと受け止めてください。

これからどうしたらよいかは、子ども自身がわかっているものです。

第10話 『魔法の言葉』

オーストラリアへホームステイをしていた高校生の話です。

その子がステイ先のお母さんやお父さんに、「コップをとってくれますか」などと頼むと、決まって返ってくる言葉が、「魔法の言葉は」という返事だったそうです。

人に何かを頼むときにはまず「魔法の言葉」を言いなさい、ということなのです。

その言葉を言えば自分の頼みを聞いてくれるのでしたら、まさしく「魔法の言葉」です。

その「魔法の言葉(Magic Word)」とは、実は「Please(お願いします)」という言葉なのです。

「なあんだ」と思うかもしれませんが、このたった一言が人と人の人間関係を大きく変えるのです。

まさしく魔法の言葉です。

日本語にも、この Magic Word に当てはまる言葉がいくつかあります。

「お願いします」「ありがとうございました」、などがそうでしょう。

こうした言葉がしっかり身に付いている子どもは、周りの人達にかわいがられ応援される幸運な生き方ができます。

しかし、「お願いします」と言いなさいとか、「ありがとう」を言いなさい、などと口調を荒げて言えばとげとげしくなります。

「魔法の言葉は」、と穏やかな口調で身に付けさせていく姿勢に懐の深さを感じます。

かけがえのない我が子です。

子どもが周りの人達にかわいがられ、応援される幸せな生き方ができるように、この魔法の言葉をしっかり身に付けてもらいたいものです。

第11話 『良い集団と悪い集団』

集団の中で生活する私達は、集団から計り知れない影響を受けます。

戦前の軍国主義下にあった日本や、共産主義の国、独裁政治の国では、自分の考えを自由に話すができません。

国という集団ばかりでなく、学校や学級という集団においても集団は個人に大きな影響を与えています。

アメリカの教育困難校では銃や麻薬、犯罪や暴力といった不正が蔓延しているそうです。

ですからアメリカ社会では、ジャスティス(正義)ということが声高に叫ばれます。

それは裏返すと正義が通らない土壌があることを暗示しています。

良い集団とは、正義が通用する集団です。

日本では正義を声高に叫ぶことが少ないようです。

そのことは逆に、治安や道徳の高い国である証拠でもあります。

しかし最近の日本は犯罪が増加し低年齢化し、モラルの低下が大きな問題となっています。

他人を注意しただけでも殺されるなどという悲しい事件も発生しています。

学校の中でも、いじめや暴力などの不正や悪が広がることもあります。

学校は人を教育する場です。

良い人間を育てる環境は、正義が通用する集団でなければなりません。

いじめが起きたときに、傍観者だけの集団から、いじめを許さない学級、学年、学校をつくらなければなりません。

そして学校は、正義が通用する集団であることだけに留まることなく、ひとりのためにみんなが助け合い、思いやれる集団でありたいものです。

第12話 『温かい叱り方と冷たい叱り方』

子どもを叱るのは、子どもがよりよく生きていけるように行動や態度を正しくしてあげたいからです。

ほめるだけでそれができれば越したことはありませんが、子どもにしっかりとした生活習慣や考え方を身につけさせるためには、いけない時には叱らなければなりません。

しかし、その場合の叱り方はあくまでも心の通った温かい叱り方であって、子どもを見放した冷たい叱り方ではいけません。

冷たい叱り方とは、子どもに親の温かい心を感じさせない、突き放した叱り方です。

子どもに反発心や敵意、孤独感を感じさせる叱り方です。

温かい叱り方とは、たとえ厳しく叱ったとしても親に愛されているという実感が子どもにつたわる叱り方です。それはその子にとってかけがえのない体験となるでしょう。

上手な叱り方や正しい叱り方、好ましい叱り方というものは、叱られた結果その子どもが悪かった点を自覚し、「これからは改めよう」という気持ちを起こさせる叱り方です。

叱る者と叱られる者との間の人間関係がより深まる叱り方です。

子どもがこれからの生活を、より良くしようとする意欲を起こさせる叱り方です。

叱られて、良い気持ちのする人などひとりもいません。

誰にとってもつらくいやなものです。叱る立場も嫌なものです。

しかし温かい心から叱るのであれば、必ず子どもに温かい親の思いも伝わっていくものです。

「温かい心で叱る」ということが、叱り方の基本なのでしょう。

第13話『中学校では、なぜ茶髪やピアスがいけないの?』

日本の多くの中学校では「中学生らしい身なり」という理由から、茶髪やピアスを禁止しています。

それでもたまに、ピアスや茶髪の生徒がいます。

「いけません」と指導しても、聞く耳を持たないのが現実だと思います。

茶髪やピアスは現代社会の若者の流行であり、多くの若者が行っています。

格好良さのシンボルであり、アメリカでは小学生からピアスをしている子どももいるようです。

ではなぜ茶髪やピアスがいけないのか、と疑問をもたれても当然だろうと思います。

教師であれば茶髪やピアスは「いけない」と生徒に話します。

理由はなんでしょうか。

ひとことで言えば、学校の「きまり」「ルール」だからです。

もうひとつは、中学生の自律の力の弱さです。

身なりのことよりも、心を鍛えなければならない時期だからです。

多くの中学校では茶髪やピアスは禁止されています。

ですから、茶髪やピアスをすることによるトラブルが生まれてくる危険性が大きくなります。

そしてもうひとつは友人関係の変化です。

問題は茶髪やピアスそのものよりも、「中学校の約束・ルールを守れない生徒」ということです。

人と違ったことをすることには勇気がいりますし不安です。

茶髪やピアスをしている生徒も、学校の約束やルールを破っている不安感から同じように破ってくれる仲間を求めます。

そこに集団が形成されのですが、その集団は生活ルールを破るための集団となることが多いのです。

時には同様な他校の生徒、卒業生、暴走族などとの関係まで広がっていくことがあります。

中学校の3年間は、自分の考え方や将来の自分を創る上でとても大切な年代です。

それ故にできれば、夢や目標を大切にし向上し合える友人関係であってもらいたいと思います。

第15話 『責任を自覚させるかかわり』

子どもたちが大人に向かって、「お母さんのせいだ」「お父さんのせいだ」「先生のせいだ」などと言うとき、私達は子どもへのかかわり方を見つめ直す必要があります。

その原因が本当に大人の側にあるのか、それとも子どもの問題なのかです。

子どもに原因がある場合、この言葉の奥にある子どもの心に問題があります。

「僕のせいではない」という、自分を見つめる気持ちがないことです。

遅刻しそうになると決まってお母さんに文句を言う生徒がいました。

「なぜもっと早く起こしてくれなかったんだ」と常にお母さんを責めます。

自分が毎日遅くまで起きていることの反省など、みじんもありませんでした。

こうした姿勢は中学生の時期までで終わることなく、高校生になっても大人になっても続くことがあります。

原因は、子どものときからの過保護であり過干渉にあります。

親の手助けを、子どもが当たり前と考えているからです。

いつまでも親にとっては子どもは子どもなのですが、親が手を出しすぎれば、それだけ子どもの自立は遅れ、依存する心が身についてしまうのです。

大人になるとは、年齢や体格ばかりではなく、心を成長させなければなりません。

子育てにおいては、勉強ばかりに目を奪われることなく、心の成長や生活面においても自立できるように育てることが大切なのではないでしょうか。

第16話 『競争はいけない?』

学校生活の中にも、たくさんの「競争」があります。

合唱コンクールや体育祭、球技大会などです。

高校入試などは最も大きな競争かもしれません。

「競争」は「争い」ですから、必ず勝ち負けがあります。

勝ち負けという「優劣」をつけることは、人間を序列化し選別することですから教育上良くないことです。

したがって「教育活動の中ではいっさい優劣をつけるような競争はしてはいけない」という考え方もあります。

例えば、運動会のかけっこで順位をなくした小学校があるそうです。

かけっこの苦手な子どもが劣等感を抱かないための配慮なのでしょう。

では、かけっこで1等をとることを目標に「努力」することはいけないことなのでしょうか。

私は「競争」というものは、社会の必要悪だと考えています。

「競争」による優劣の結果を人間の評価として捉えることには大反対ですが、子どもの能力や良さを伸ばすためであれば、賛成します。

かけっこで1等をとることはすばらしいことです。

しかし、例えビリでも人間として決して劣っていることではない、ということです。

重要なことは「目標」をもって「前向き」に生活していることです。

「競争」はどちらが優れているかを調べるためではなく、共に前向きにがんばるために行われなくてはならないと考えています。

第17話 『すぐに嘘をつく子どもは・・・』

悪いことをしたとき、とっさに「嘘をつく子ども」や、すぐに「言い訳をする子ども」がいます。

こうした子どもは、再び「悪い行為」を繰り返すことでしょう。

なぜなら、悪い点を自分で見つめていないからです。

そして、いつしか「悪い行為」は日常化し、エスカレートしていくでしょう。

「嘘をついてはいけない」「言い訳をしない」ということの大切さを、子どもに身につけてさせていかなければなりません。

しかし同時に、親や教師は「なぜ子どもが嘘をつくのか」「なぜ子どもが言い訳をするのか」、ということについても考えなくてはなりません。

子どもが「悪いこと」をすれば当然怒られます。

しかしそこに、「殴られる」などという暴力や、子どもの人格をも否定する怒り方などがあったとすれば、「殴られる」ことや「怒られる」ことへの「嫌悪感」や「恐怖感」が子どもに強く残っていきます。

こうした暴力や虐待などが日常的に行われていると、子どもは自分の身を守るために「嘘をついたり」「言い訳をする」ことを身につけていきます。

子どもを叱るときには、育てる視点から温かい心をもって「叱る」ことが大切です。

感情にまかせて「怒る」ことなどは避けなければなりません。

子どもが本来もっている正直さや、まっすぐな心を大切にしながら、弱い自分の心にうち勝っていける子どもに育てたいものです。

第18話 『人としての基礎を作る時』

中学校までは義務教育です。

みなさんは、なぜ全員が学校へ行かなければならないのでしょうか。

教育基本法という法律の第1条には、「教育の目標」として次の言葉が書かれています。

それは「人格の完成」という言葉です。

人格の完成という言葉はみなさんには難しいと思いますが、言葉を言い換えると、

人としての心の成長とでも言うことができるでしょう。

大人になって、どんな仕事についてもそれは世の中で大切な職業であり、職業に貴賎はありません。

どんな職業についても心豊かな人であれば、その人は「幸せ」になれます。

しかし、どんなに立派な職業についても心が貧しければ「幸せ」にはなれないのです。

どんな職業につくとしても、ひとりひとり個性や能力が生かせる職業、興味関心のある職業、やりがいのある職業につきたいものです。

そのためには勉強が必要となるのです。

学校は、「心」とともに「職業能力の向上」という点も担っています。

みなさんが自分の「能力を伸ばす」ためには、好きなことだけをやっていれば良いのではありません。

嫌いなものにこそ、自分の力を伸ばす大切な点が含まれているからです。

大学や会社では、専門的な勉強を必要とします。

中学や高校で、しっかりと基礎を築いておいてください。

基礎を作る時だからこそ、義務教育なのです。

第19話 『運の良い子』

「運の良い子」がいれば「運の悪い子」もいます。

この世には、自分にはどうにもならない「運命」というものがあるのかもしれません。

しかし冷静に子ども達を見ていると、周りの人たちが進んで「応援」している子どもと、そうでない子どもがいます。

周りの人たちが応援し励ましてくれ、チャンスを与えている子どもは、まさしく「運の良い子」なのでしょう。

逆に困っていても、周りの人たちが助けてくれなかったり応援してくれない子ども、それは「運の悪い子」なのでしょう。

子ども達は、周りにいるたくさんの人たちの力を借りて成長していきます。

周りにいる人たちが応援してくる子どもは、当然自分の実力以上の力が発揮できるでしょう。

それでは、周りの人たちが応援してくれる子どもとは、いったいどんな子どもでしょうか。

それは案外に簡単なことかもしれません。。

前向きにがんばっている子どもや、素直であいさつができる子ども、ありがとうという感謝の言葉が出てくる子ども・・・、こうした子どもは誰もが応援したくなるものです。

そのような子どもこそが運の良い子なのでしょう。

親はいつまでも我が子と一緒に暮らしていくことはできません。

子どもをかばうことよりも、周りの人たちが応援してくれる資質を身に付けさせることこそ、子育ての本質があるのでしょう。

礼儀や言葉使い、挨拶のできる子ども、素直な子どもに育てること。

そのことがひいては、「運の良い子」になるのではないでしょうか。

第20話 『正しい生活』

良いことも、悪いことも、毎日毎日の積み重ねによって少しずつ大きくなり、一年後、十

年後には、とてつもなく大きくなっていきます。

自分の良い所が、大きくなることが大切なのですが、悪い所も大きくなっていきます。

毎日毎日の生活動作が、いつしか身に付いたものを「癖」といいます。

身に付いた「癖」は、毎日毎日の積み重ねによって、いつしか「習慣」になります。

身に付いた習慣は、毎日毎日の積み重ねによって、いつしかその人の性格を作っていきます。

そのような性格を、「習性」というのです。

つまり、「習性」とは毎日の生活の積み重ねによってできた性格なのです。

したがって、「正しい生活」は正しい習性を形作り、「悪い生活」は悪い習性を形作るのです。

お母さん方はしばしば、「お巡りさんに捕まるようなことはしないでね」とか、「人の迷惑になるようなことはしないでね」と、子どもを注意します。

これらは「悪い生活をしないでね」、という意味でしょう。

これらは残念なことに、「正しい生活をしなさい」という意味ではありません。

「正しい生活」とは、良いことを自分のできる範囲で実行する生活です。

お父さんやお母さんに「おはようございます」が言える生活。

家の手伝いができる生活などでも正しい生活なのです。

お年寄りに席をゆずる。

困っている人がいたら手助けをする生活です。

自分が良いと思うことを、何かひとつでも続けていく生活です。

この「正しいことを続ける」ということが重要なのです。

子どもに「善い習性」を身につけさせるには、「人に迷惑をかけない」だけではなく、「良いことを続ける姿勢」を育てていきたいものです。

第21話 『心のトレーニング』

人間の子どもを育てることは、犬の子どもを育てることとは本質的に違います。

しかし、共通していることもあります。

良い犬を育てるためには、子どもの時に「躾(しつけ)」をしっかりとしなければなりません。

かわいいかわいいで、子犬を「わがまま」に育ててしまうと、成犬になったときには、主人や家族の言うこともきかず、主人にも牙をむく凶暴な犬に成長します。

犬は自分が家族の中の王様だと錯覚し、傲慢になるからです。

人間の子どもも似ています。

かわいいかわいいで「わがまま」に育ててしまうと、やはり子どもは家族の王様のような錯覚にとらわれ、家族の中で横柄な振る舞いや、わがままをおし通す子どもに成長するからです。

昔「スパルタ教育」というものがありました。

スパルタ教育は、子どもを厳しく育てる教育を指します。

温かい心のないスパルタ教育には絶対に反対です。なぜなら、厳しいだけの教育は子どもの心を萎縮させ、健全な成長どころか反感や憎悪の心を生み出すからです。

しかし例え愛情があっても「わがまま」を許してばかりや、子どもの要求をかなえてばかりではいけません。

あきらめやすい、我慢のできない子どもに成長するからです。

「我慢する力」や「忍耐力」というものは、「我慢」や「忍耐」という心のトレーニングによって育まれていきます。

昨今、「学習トレーニング」や、「スポーツトレーニング」は盛んに行われているのですが、「心を鍛える」という「心のトレーニング」が不足しているようです。

昔から「知育・徳育・体育」の三要素の重要性が唱えられてきました。

「徳育」すなわち心を鍛えることも、学習や運動と共に子どもの成長にとってとても重要なのです。

第22話 『ペットのような子育て』

「ペット」とは人間に溺愛され管理され、本来動物が持っている野生で生きる力を失った動物です。

悲しいことですが人間においても、ペットのように社会で生きる力を失っている大人がいます。

ひとつの原因として、親が子どもを溺愛し、親の言うとおりに従わなければペットのように暴力を加えたり、子育てを放棄するなどの子育ての対応のまずさです。

閉じこもりまでいかなくとも、ペットのように社会自立、親元から自立できない大人が増えています。

パラサイト(寄生)という言葉が以前流行語にもなりました。

文科省が教育改革のスローガンとして「生きる力」を掲げた背景には、こうした社会現象があったのだと思います。

サルやトリなどの哺乳動物の親は、人間と同様に子育てをします。

その愛情の深さは人間同様であり、時には親の命を犠牲にしてまでも子どもの命を守ろうとします。

しかし、野生動物たちは子どもが一端大人にまで成長すると、決して子どもと一緒に暮らすことありません。子どもを自分の縄張りから外へ追い出してしまうからです。

この行為は一見子どもがかわいそうに映るのですが、親元から自立できない人間の苦しみを考えると、どちらの方がかわいそうなのでしょうか。

子育ての目標は、子どもの「自立」です。

子どもをいかに「自立」させるか。子どもの「巣立ち」の日までに如何に生きる力を育めるのか。

高等生物と呼ばれる人間でも、謙虚に野生動物たちの子育てに学ばなければならない点があるのかもしれません。

第23話 『心配り』

「子育ての上で、一番大切なものは?」と聞かれたときには、私は「夫婦の信頼関係」を一番にあげます。

夫婦が互いに信頼し、互いに尊敬し合う姿勢が自然と子どもに影響するからです。

互いに互いの良い点を口に出して子どもに話してください。

子どもは自然と両親を尊重するようになるでしょう。

どんな夫婦でも、結婚した当時はお互いに尊重し合い、信頼し合あえる関係にあったはずです。

しかし日々生活していく中で、夫婦の心がひとつになるどころか、隙間が生じ離れていくことすらあります。

原因のひとつとしては、日々どのように心を配っているか、心配をしあっているかということにあるように思います。

普通、家族が家を出るときには誰もが「いってらっしゃい」という言葉をかけます。

こんな一言が、とても大切な心配り(こころくばり)でしょう。

「がんばってね」「ご苦労様」「いい一日でありますように」など、相手への温かい思いを込めて言うとき、相手にもその温かい心が伝わっていくからです。

そうした心配りを大切にできるかが、いつしか長い時の中で大きな違いを生じさせていくのでしょう。

毎日の食事に「こんなおかずか」と不満に思うことも、「いつも、ありがとう」と感謝することも同じ心の働きですが、その積み重ねがその人とその人の人間関係を大きく左右させるのです。

第24話 『注意される』

先生や親から注意されると、ふてくされたり、態度が悪くなったりする生徒がいます。

注意されて腹が立つ気持ちはわかりますが、ふてくされていたり、言い訳ではいけません。

注意されたことについて、反省が見られないからです。

「反省」とは、自分の行いを省みるということです。

注意は、相手が嫌いだからするのではありません。

まずい行動を省みてもらいたいからするのです。

何度注意されても反省できないと、「あの人には何をいってもしようがない」となってしまうかもしれません。

人間は神様ではありませんので、失敗はつきものです。

失敗や過ちという経験は悪いことでは決してありません。

成功から学ぶことよりも、失敗から学ぶことの方がずっと多いからです。

失敗をバネにして人は成長していくのです。

注意されても「反省」を次に生かせれば、それで良いのです。

「笑われて、笑われて、偉くなるのだよ。」

「叱られて、叱られて、賢くなるのだよ。」

「叩かれて、叩かれて、強くなるのだよ。」

とは、あるお寺で目にした言葉です。

第25話 『自分の役に立つ?人の役に立つ?』

教え子に俗に言うツッパリの生徒がいました。

毎日学校は休まずに来るのですが授業には全く出ませんでした。

毎日遅刻して登校し、教室へも入らずに校内をウロウロして遊んでいるだけでした。

「勉強したら」と何回となく言っても、「役に立たないからやらない」の一点張りでした。

「いつか役に立つから、やりなさい」とは、よく教師や親が口にする言葉ですが、進学をあきらめていた教え子にとっては、今更の勉強は自分の役に立たなかったのかもしれません。

私は「自分の役に立つ」というものの考え方には、複雑な思いを感じます。

自分のことしか考えていないからです。

勉強は果たして自分のためだけのためにするものでしょうか?

シュバイツアーという医者がいました。

彼は30歳を過ぎてからそれまでの生活を捨て、アフリカで医者にかかれずに病気で死んでいく多くの人たちのために医学の勉強を始め、医者になったのです。

人の役に立つための勉強です。

シュバイツアーはその後、アフリカの地で、医療に生涯をかけました。

勉強は自分の能力を育むためのものですが、その力を自分だけのために使うのか、少しでも人の役に立てるために使うのか、それが大きな問題なのです。

第26話 『がまんする力』

自分の思い通りにならないのが、この世の中です。

自分の思い通りにいかないからこそ、「がまんする力」が大切なのです。

最近の子どもは「すぐにふてくされる」「すぐにキレル」などと、よく耳にします。

がまんする力が育っていないからです。

私たち親の世代が育った時代は、日本はまだ貧しい国でした。

テレビは白黒テレビで、高級品でした。

バナナでさえ贅沢な果物でした。

多くの人が貧しい生活をしていましたから、不自由なことは当たり前でした。

お金がなく物がない時代でしたから誰もが、がまんするしかなかった時代です。

したがって、自然とがまんする力が身についていきました。

しかし今の時代は違います。

日本は経済的に豊かになり、物があふれています。

買いたい物はいつでも手に入る時代です。

物の豊かな中で、がまんしなければならない時代なのです。

子どもの欲しい物がすぐに手に入る状況の中でも、子どもが欲しがるものをがまんさせることも大切なのです。

小さい子どもは思い通りにならないと、床に寝ころばって足をバタバタさせます。

体で欲求を示しているのです。

しかしそれでも親は毅然として駄目なこと、がまんしなければならないことは教えなければなりません。

願いをかなえるためにがまんしたり、お金をためたり、努力をすること。

こうした姿勢を通して、がまんする力が子どもに育っていくのです。

第27話 『心のものさし』

自由主義社会は、「競争原理」の上に成り立っています。

「競争」とは「勝ち負け」です。

経済も高校入試も大学入試も就職も、会社の昇進試験等々、多くの場合この競争原理が働いています。

多数の希望者の中から、テスト等により合格者イコール勝者と、不合格者イコール敗者が決まるのです。

合格者(=勝者)は優れているので合格したわけですが、何が優れているのかを冷静に見ることが必要です。

「試験における成績」が「優秀」であったのですが、試験には「人間性」などという観点は全く考慮されていません。

選抜を意識するあまりに、「勉強ができる子」がイコール「すばらしい子」で、できない子が、イコール「だめな子」などという評価観をもつことがあります。

医者や弁護士、上級国家公務員といった、難しい選抜試験を突破できる人が「すばらしい人」で、誰もがなれるような仕事に従事している人は「だめな人」、などという評価観です。

こうした一面的な面だけを比較して「すばらしい人」、「だめな人」などという見方をすることは間違った見方です。

こうした偏見に満ちた見方を親がしていれば、子どももおのずと間違った見方を身に付けていきます。

学力の劣る友だちを見下して見ていたり、馬鹿にするような子どもになるのです。

人間を評価する上で大切な点は、「人間性」という「心」の評価です。

「心のものさし」に照らして、人を評価できることがとても大切です。

明治時代以降日本人は学歴こそが幸福になれる条件だと考えてきました。

しかし大学全入時代の今ようやく気付けたことは、学歴だけでは幸福になれないということです。

第28話 『見送りと出迎え』

毎朝同じ時刻同じ場所で、いつも楽しそうに手をつなぎながら歩いている若夫婦がいました。

若い奥さんは毎朝決まって旦那さんを駅まで見送っていたのです。

駅でご主人を見送ると、奥さんはひとりで来た道をもどっていきました。

バスの車窓に二人が歩いている姿が見えると、温かい気持になりました。

新婚だからという理由ではなく、「見送る心」が温かかったからです。

「いってらっしゃい」という、たった一言の言葉の中に見送る人の温かい心が込められています。

生活の無事を祈る気持ちには「一期一会」の心も含まれています。

「お帰りなさい」という出迎えの言葉の中には、うれしい心が込められているのです。

英語にGoodbyという言葉があります。

この言葉にも、別れる相手の無事を祈る温かい心が込められています。

グッドバイはゴットバイという語源からきているそうです。

「Godーby」のGod、 つまり神が、byバイ、あなたのお側にいるように、という祈りなのです。

「見送りと出迎え」、かけがえのない家族だからこそ大切にしてもらいたいものです。

そして「いってらっしゃ」「お帰りなさい」という言葉に、温かい心もそえて使いたいものです。

第29話 『働くことも人間教育』

日本の高校生の多くがアルバイトをしています。

親にとってはお金を稼ぐことよりも、もっと勉強をしてくれと願っているかたの方が多いのではないでしょうか。

日本の高校生の一般的なアルバイトの目的は、「遊ぶお金がほしい。服や物を購入する。自分の携帯電話料金をアルバイトのお金で払う。」などでしょう。

高校生・大学生の本分は勉強なのですが、ややもすると遊びが主となってしまいます。

日本の大学生の評判などは世界的に最悪です。

遊んでばかりで勉強をしないと思われています。

実際大学生の中には、遊ぶために大学へ入ったなどと公言する不届き者がいるくらいです。

アメリカやイギリス、オーストラリアといった国々の高校生も、日本と同様にアルバイトをしているようです。

しかし日本の学生とは目的が異なり、自分が大学や専門学校等へ進学する資金や学費を貯めるためにアルバイトをしている人が多いようです。

日本の多くの親は、苦労してでも子どもの学費は親が出そうと考えます。

しかし、アメリカやイギリス、オーストラリアの多くの親は、学費を少しでも子どもに出させようと考えます。

これは親がケチなのでも、貧乏などでは決してありません。

子どもに苦労させなければ良い大人にはなれない、と考えるからです。

しっかりした子どもを育てるためには、日本の親の姿勢とこのような外国の親の姿勢とで、どちらの方が正しいのでしょうか。

第30話 『生計』

「生計をたてる」という言葉があります。

「生計」とは「生きる計画」という意味なのですが、私たちはややもすると「生計」と「家計」を混同しているようです。

お金のやりくりのことが「生計」だと考えているからです。

しかしそこには「お金」こそが「生きる」上で最も大切である、という考え方があるのかもしれません。

お金は生きていく上でとても大切なものですが、お金だけが生きる上で大切ではないはずです。

本当の「生計」とは人が「生まれ」「死ぬ」、この限られた時間、「人生」を「いかに充実して生きるか」、そのための計画が生計なのです。

「諸行無常」という言葉がありますが、すべての行いは永遠ではありません。

すべてのものに限りがあります。

限りのある「人生」だからこそ、しっかり「生計」をたて毎日毎日が前向きに生きられることが大切なのです。

第31話 『怒ってばかりじゃ』

「怒る」ことも子育てには必要なことですが、「ばかり」がつくととたんに悪くなります。

「ばかり」という言葉には「~だけ」という限定の意味があるからです。

「怒ってばかり」には、「ほめる」ことが少ないという意味も隠されています。

「怒ってばかりじゃいけない」とは誰もが思いつつも、「感情」が抑えきれない時もあります。

人は自分の「勘にさわる部分」が相手にあると、そのことばかりに気を取られてしまいます。

子どもには必ず良い点があるのに、その「心」が見えなくさせているのです。

自分で「怒ってばかり」と感じたら、怒る「理由」を冷静に見つめ直すことが大切です。自分は本当に子どもの事を考えて怒っているのか、それとも自分の「感情」が怒らせているのかを。

「感情」が怒らせているのでしたら、忍耐というものが必要でしょう。

子どもを育てるということは、子どもの視点に立って考えることです。

どう接していくのが成長につながるのか、そのひとつの方法が「怒る」ということではないでしょうか。

第32話 『ボランティア』

近年、学校教育の中でボランティア活動を積極的に推進しようとする流れが出ています。

大変にすばらしいことだと思います。

誰もが自分だけのことや家族だけのことしか考えないのでは、障害をもっていたりお年寄りの方が、たとえ困っていても誰も助けてくれない冷たい世の中になってしまうからです。

昔の日本にはボランティアという活動はありませんでしたが、隣近所が中心になって困っている人がいれば、地域の人が助けてくれる温かい姿勢がありました。

お母さんが病気で寝込んでいると、その子どものお弁当を隣のおばさんが作ってくれたり、バス停の掃除や地域掃除、道路掃除などをみんなが当たり前のように行っていました。

誰もが自分だけのことだけでなく、地域のことや周りの人たちに注意を払っていたのです。

「滅私奉公」という言葉が使われていました。

「滅私」自分を犠牲にしてまでも、「奉公」世の中のために奉仕することが尊ばれたのです。

今の世の中は反対に「滅公奉私」の風潮があります。

自分の物だけを大切にし、公共のものを大切にしない世の中です。

公共のトイレや学校の施設など、公の物を大切にしようとする風潮が少なくなっています。

こうした風潮ゆえに、ボランティアを声高に叫ばなければならない日本になってしまったのかもしれません。

第33話 『信頼の絆が子育ての応援団』

お母さんは子育ての中心的な存在なのですが、子育てはお母さんひとりだけでなく、たくさんの大人が関わっています。

お父さんや学校の先生、おじいんちゃん、おばあちゃん、おじさん、おばさん、そして近所の人等々です。

仏教に曼陀羅という図がありますが、かけがえのない子どもを中心においてまわりをたくさんの大人が愛情という絆をもって子どもを取り囲んでいる。

中でも、お母さんやお父さんの子育てにおける力はまさに子どもに直接的な大きな影響があるわけです。

そのことは子どもが生活する家庭での時間の長さでもわかります。

子育てとは、正しい生活を子どもの内面に浸透することにあります。

そのことがひいては心にも行動にも、考え方にもつながっていくのです。

二番目に子どもが長く生活する場所は学校です。

学校でも子どもたちが正しい生活が送れるように、先生方は努力しているわけです。

その他子どもが遊んでいる場所などでも、子どもの生活に関わってくれている大人の人がたくさんいるはずです。

子どもを取り巻いている大人たちの、教育力の大きさを左右させているのが「信頼」という絆なのです。

お母さんの悪口をお父さんが子どもの前で言っていたり、学校の悪口を子どもの前で言っていたり、地域の人の悪口を子どもの前で言っていたとします。

こうした状況では、それぞれの大切な教育力が発揮されないのです。

なぜなら、子どもの大人への不信感が出てくるからです。

正しい生活の内面への浸透は容易ではないのですが、悪い生活の浸透は容易でしかもあっという間に広がっていきます。

誰しもよりよく生きたいと、心の底では願っているのですが自分の弱い心にうち勝って、正しい生活が続けられるよう、まわりの大人たちで信頼という絆を強く持ち、かけがえのない子どもを支えていきたいものです。

第34話 『何のためにほめる、しかる』

「ほめる、しかる」という行為は、その「理由」が子どもにしっかりと伝わらないと子どもに不信感を募らせます。

それは子どもが、「何で怒られたのかわからない」とか、「気分が悪かったんじゃないの」などと、子どもが感じるしかり方です。

「ほめる、しかる」という行為は、本来「善悪の価値感」を子どもに身に付けるために行うものです。

良いことができれば「ほめる」、できなければ「しかる」ということによって、正しい価値観を子どもは身につけていきます。

親の気持ちがイライラしていたから「怒る」などというのでは、子どもの反発はあっても正しい価値観は身に付くものではありません。

親によっては勉強をしないと叱る場面が多いようですが、子どもの「人間性」ということに視点を置くのであれば、勉強ができなくともそのこと自体はけっして悪いことではありません。

しかし人間として許せない行為や、礼儀や言葉使いをわきまえない横柄な態度などは決して許されるものではありません。

ほめたり、叱ったりする時には、「なぜ叱られたのか」「なぜほめられたのか」が、子どもにしっかり理解できるような「ほめ方」「叱かり方」でありたいものです。

第35話 『自己(じこ)と他己(たこ)』

誰しも自分が一番大切であり、自分を一番かわいがります。

他の人に対しても同じように接しられるとよいのですが、なかなかできません。

キリスト教では「汝自身を愛するように他人を愛せよ」と言います。

仏教でも同様に、他己(たこ)という言葉があります。

「他なる自己」という意味です。

他人と思えば親切にしたくはありませんが、自分だと思えばできるからです。

「周りの人も、自分ですよ」という意味に近いと思います。

禅問答の「かぼちゃのつる」というお話です。

「お寺の裏庭のかぼちゃ畑がなにやら騒がしい。和尚さんが畑をのぞいて見ると、かぼち ゃ同士がケンカをしています。和尚さんがカボチャに話しを聞くのですが、カッカして いるカボチャ達は互いをののしり合うばかりでした。

 和尚さんはカボチャたちの頭を冷やし、言いました。お前達の頭についているツルをた どってみなさい。

 カボチャ達は和尚さんに言われた通り、おのおのの頭についているツルをたどっていき ました。そして初めてカボチャ達は気付いたのです。

 みんなのツルがひとつにつながっていることを。

 それからは、カボチャたちはケンカすることはなく、仲良く暮らしたそうです。」

私たちの命もカボチャのツルのように、つながりをもっています。

カボチャ達が、自分の命が共に生かされていることに気付いたように、私たちも互いに「生かされている」存在であるということに気付いたとき、他人も自分と同じ大切な存在である「他己」として考えられるようになるのかもしれません。

第36話 『子どもは一世、夫婦は二世』

人間は誰しも子どもから大人へと成長します。

しかし、たとえ大人になってもそのまま親になれるわけではありません。

子どもを生んだとしても、そのままで本当の親になれる訳ではありません。

「子育て」を通して、初めて本当の親になれるのです。

子育ては「親育て」と言いますが、夫婦でも同じことがいえます。

結婚しても、そのままで本当の夫婦になれる訳ではありません。

肉体は別々ですが、心がひとつになってこそ初めて本当の夫婦になったと言うのでしょう。

本当の夫婦になる心の在り方はそのまま子育てにも通じます。

相手の気持ちを思い合える関係が、常に大切なのでしょう。

「子どもは一世、夫婦は二世」という言葉があります。

子どもと親とは、ご縁によって親子としてこの世で一緒に暮らすことのできる存在です。

本当の夫婦とは、この世でもあの世でも、二つの世界で一緒に暮らすことのできる存在だというのです。

あの世でも仲良く幸せに暮らしていける夫婦こそが、本当の夫婦なのでしょう。

夫婦の姿を子どもは見て育ちます。

正しい心使いのできる夫婦の姿勢は、そのまま子どもにも通じているのです。

第37話 『欲(よく)』

人間の心には、「もっとほしい、もっとほしい」と際限なく欲する心、「貧欲」があります。

この欲望は、際限がないといわれます。

仏教では、餓鬼(がき)という人が登場します。

餓鬼は際限なく自分の欲望(我欲)に囚われた人のことです。

禅の教えに「少欲知足」という教えがあります。

「欲」を「少」なくして、「足」る事を「知」りなさい、という教えです。

これは、人が幸福に生きるための知恵でもあります。

社会では、お金や地位、名誉、異性問題など、人の欲にかかわった事件が後を絶つことがありません。

欲に囚われると、例えたくさんのお金をもっていても心が満たされるどころか、お金の心配がさらにつきまとい、決して安らかな心境などにはなれないといいます。

自分の欲を少なく、抑えることによってこそ心の安らぎが生まれるのでしょう。

しかし、もってもらいたい欲もあります。

それは「意欲」です。

積極的に自分の夢や目標に向かって生きようとする「意欲」は、生きる力の源だからです。

「我欲」を抑え、「意欲」をしっかりもち毎日を送りたいものです。

第38話 『多数決』

「多数決」という物事の決め方は、学校の話し合いから国の政治にいたるまで広く用いられています。

民主主義の国では「多数決」による決め方こそが、唯一絶対で公正な方法だと思っている人が多いのではないでしょうか。

しかし本当に「多数決」は絶対で公正な決定方法なのでしょうか。

私たちは生活を営む上で、常に選択を求められます。

「どちらの道を選ぶべきか」を決めなければなりません。

そこで多数決によって半分以上の人が賛成する方を、集団の進む道として決定している訳です。

ここで考えなければならない点は、多数の人が賛成した選択肢が絶対に正しいという訳ではない、ということです。

少数意見の方が正しい場合もあり得るからです。

第2次世界大戦のヒットラーも、国の公正な選挙によって選ばれた人です。

多数決という方法によって選ばれた人なのです。

そしてまた、ユダヤ人大虐殺という国の決定もまた多数決で行われたのです。

多数決という方法が、正しい選択となるためには「一票を投じる人達の資質を高める」ことが前提になるのです。

民主主義は、ひとりひとりの人間の責任の上になりたっているからです。

人の考えに左右されることなく、自分の考えを実行できる勇気が求められるのです。

第39話 『子育てをしない夫を、父親とは言わない』

昔の父親はカミナリ親父などと言われて、とても怖い存在でした。

口よりも早く、げんこつやビンタがとんできたものです。

今の父親は反対に、優しい父親が多くなりました。

しかし、その点よりも最近の子育てで気になることは父親の姿が見えないことです。

母親だけが一生懸命に子育てを行っているケースが増えていることです。

子どもの教育で大切なことは、夫婦の意志疎通がとれた対応が子どもにとれることだと思います。

父親が全面に出て子どもに注意する事もあれば、母親の注意で終わることもあると思います。

ここで大切なのことは、お父さんとお母さん二人で子育てをしているという自覚です。

子どものことについて日頃から話し合える関係です。

母親の手におえなくなったから父親に登場してもらおうとしたり、父親がなぐりつけるだけでは、子育てはうまくいきません。

子育ての基盤は日頃からの夫婦の信頼関係であり、親子の信頼関係だからです。

お母さんが日頃から子どもの様子をお父さんに話せる関係が大切であり、お父さんもお母さんの話に耳を傾ける姿勢が大切なのです。

時にはお父さんから家族とふれあう機会を作ってあげることも、子どもとの距離感を近づける上で大切なことです。

夫婦が本音で子育てについて話し合える関係は、夫婦の信頼関係の上に成り立つのです。

第40話 『天上天下唯我独尊』(てんじょうてんげゆいが                どくそん)

「天上天下唯我独尊」という言葉は、お釈迦様がルンビニーという場所で母親マーヤから生まれた時に、七歩あるいた後で発した言葉であると伝えられています。

「天上天下唯我独尊」とは「この大きな宇宙の中に私という人間は、たったひとりだけのとても尊い存在です。」という意味です。

最近の子ども達を見ていて、この言葉の大切さを痛切に感じる時があります。

それは非行に走る少年少女の多くが「自分はだめな人間だ、どうなってもかまわない」などと思っているからです。

彼らは口癖のように、「どうせ俺なんか」という言葉を口にします。

「どうせ俺なんか」という「卑屈な心」は自暴自棄な行為を助長し、自分の前向きな姿勢を阻害します。

この世に生きている私たち一人一人は、誰しもかけがえのない大切な存在であって、この世の中に不要な人間などはひとりもいません。

私もまわりの人たちだれもが、尊い存在であることに気付かなければなりません。

自分は誰からも大切にされないなどと、卑屈な心にとらわれることなく、「人の役に立つ喜び」や「自分が必要とされる喜び」、「感謝される喜び」などを体験させてあげたいものです。

きっと、前向きな心を取り戻してくれるでしょう。

第41話 『食事へのこだわり』

最近の子どもの食生活は、親が子どもだった昔とは明らかに違います。

昔は、お弁当のおかずに肉が毎日入っている家はお金持ちの家だけでした。

バナナでさえ病気をしたりお祝いごとがあるときだけに食べられる果物でした。

今の時代は何でも手に入る時代です。冬でもスイカが食べらます。

日本は世界の中でも裕福で、どこの国の食べ物でも手に入る国になりました。

昔は食料不足による栄養失調の問題でしたが、今は好きなものだけを食べることによる、肥満や偏食による栄養失調の問題へと変わってきました。

グルメや珍味がもてはやらせられ、肥満や偏食が社会の問題になっています。

この現象はかつて空前の繁栄を誇ったローマ帝国をほうふつとさせます。

ローマ帝国もまた衰退期は飽食の社会です。グルメや珍味がもてはやられていました。

人々は美食をもとめ、食べ物を食べては自ら吐いている状態でした。

後にローマ帝国は滅んでいきます。

当時のローマ人にとって、食事は欲望のはけ口でした。

昔の日本には、「食は薬なり」という考え方がありました。

食は心身を整える調薬でもあるのです。

食の欲求ばかりにとらわれず、心身を整えるためのものとして食事の内容を考えていきたいものです。

第42話 『自己表現』

自己表現とは、自分の気持ちや感情を相手に伝える伝達表現です。

昔から日本人は自己表現が下手な国民であると言われます。

相手の気持ちを察することを重要視し、逆に自分の気持ちを抑えることを美徳としてきたからです。

アメリカ人やヨーロッパ人、西洋の人々は、自分の考えや感情をはっきり表現します。

それは多民族、多宗教、多文化の人々が同じ地域で生活をしていることもあって、互いを理解し合うことが、仲良く共存していく上でとても重要だからです。

「うれしい」「悲しい」「ありがとう」という感情表現から、「はい」「いいえ」といった自分の考えや、意志をはっきりと相手に伝えること、表現することは、互いを理解し合う上でとても重要な要素です。

家族の中にあっては、理解し合えている、分かり合えている関係だから自己表現などしなくても、わかり合えていると考えがちです。

しかし、家族の絆というものは家族だから出来ているものではなく、作り上げていくものです。

日々家族との心の交流を大切にし、互いの理解をさらに深めるために、家族であっても自己表現することを、もっと大切にしていきたいものです。

第43話 『実行する勇気』

目標や夢に向かってチャレンジする。

しかし、目標や夢やりたいことがあっても、「実行」するには強い意思が必要です。

失敗したらどうしよう、まわりの友だちは自分をどう見ているだろうか等、考えはじめるとなかなか実行に移せないからです。

その一歩が踏み出させなければ、新しい自分の成長はありません。

「一からのスタート」などという言葉があります。

一からのスタートするとは、「いったんゼロにリセットする」という意味が含まれています。

今までの自分から「新しい自分」に生まれ変わり、ゼロからスタートする。

時には今までの自分をすべてリセットして、新しい自分への第一歩を歩みだすことも必要です。

失敗は成功のための大切な経験と考え、失敗を恐れることなく行動を起こすことが大切なのです。

plan do check action という言葉があります。

計画を立て、実行し、結果を反省し、再び行動する。

それが「目標」を達成するための方程式なのです。

第44話 『困難を与える』

テレビドラマの脚本家として有名なジェームズ三木さんは、子育て講演の中で

「私は親として、子どもにたくさんの困難を与え、困難を乗り越える力を身に付けさせることを 心がけている」という内容の話をされました。

普通親は、子どもに悲しいことや、苦しいことが起きないように努力しています。

こうした親の努力とは反対のことを、ジェームズ三木さんはいっているのです。

どんな親でも、わが子がいつでも「明るく、元気に生活する」ことを願い、子どもの苦しんでいる姿を見ることは、親の苦しみでもあります。

こうした親の愛情は尊いものです。

しかし、時として親は子育ての目的をしっかり自覚しなくてはなりません。

子育ての目的は、子どもが「一人前の社会人」として立派に育つことではないでしょうか。

大人になり子どもが巣立っていく社会は、多くの困難に満ちあふれています。

自分の思い道理にならないことが、たくさんあります。

幾多の困難に直面していくであろう子どものために、親としてできることは、困難を乗り越える力を養ってあげることです。

子どもが失敗をしたり、苦しまないように手助けをすることではなく、子どもが失敗や苦しみを乗り越えていく力を育ててあげる事が大切なのです。

親の慈愛に満ちた応援があれば、きっと子どもは自分の力で困難を乗り越えていけるでしょう。

第45話 『乱暴な言葉』

「てめえが悪いんだろ」「うぜえ」・・・

柄の悪い乱暴な言葉が、教室から聞こえてくる時があります。

誰もが乱暴な言葉に接すると、心が暗くなります。

言葉はその人の心を伝えているからです。

乱暴な言葉使いは、その人の心まで醜くくしていきます。

日本語は言霊(ことだま)であると言われます。

言葉に魂がこもっているのです。

乱暴な言葉使いは、その人の心を乱暴にしていく力があります。

反対に優しい言葉は、その人の心を清らかにし、やすらぎをもたらすのです。

道元という人は正法眼蔵という著書の中で、相手へのいたわりの心をもった言葉を「愛語」と呼びました。

愛語はいつくしみの心であり、決して暴悪の言葉ではありません。

愛語は人々に安らぎの心をもたらし、清らかで、あたたかい、平和な社会を作り出す、大きな力があると道元は言いきります。

「知るべし愛語は愛心より起こる。愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻転の力あるを学 すべきなり」とは、私の好きな良寛という人の言葉です。

第46話 『うその連鎖』

「うそはうそを生む」とか、「悪いことは、悪いことを生む」と言われます。

「うそ」や「悪いこと」は、そのことを隠すためにまた次の「うそ」や「悪いこと」を作り出すからです。

学校生活には「約束」というものがあります。

みんなが気持ちよく生活するためには、ひとりひとりががまんすることも必要です。

自分勝手な行動ばかりでは、集団生活は成り立たないからです。

修学旅行等の宿泊行事でも「携帯電話をもってこない」とか、「お菓子は決められた時間で」等の「約束ごと」をしました。

携帯電話で話さなくても、友達と一緒の時間がたくさんあります。

それでも「携帯電話を持ってこない」という約束を破って、密かに持ってくる生徒が時としています。

「携帯電話」を持ってきているだけで、約束を破った「悪いこと」となるのですが、その生徒が携帯電話を使用する。

消灯時間を過ぎてからこっそりと連絡しあうなどということになります。

消灯時間後のおしゃべりという、次の「悪いこと」にもつながるのです。

「悪い内容の打ち合わせ」などによっては、「さらに悪いこと」が引き起こされるのです。

世の中には大変に悲しいですが、「悪い人」はいます。

うそを平気でつくような人。

人の物を平気で盗む人等です。

こうした「悪い人」は、一日にしてそうなったのではありません。

「うそがうそを呼び」、「悪いことが悪いことを生み」しだいに大きな悪へとつながっていくのです。

「小さなうそ」を軽く考えてはいけません。

「小さな悪い事」を軽く考えてはいけません。

「小さなうそ」を反省できる心、「小さな悪い事」を反省できる心こそが「悪い連鎖」を断ち切れるのです。

第47話 『因縁』

「失敗は成功のもと」という言葉を、失敗しても次には成功するという意味にとらえている人がいますが、そうではありません。

そこには条件があります。

失敗した原因を見つめ、失敗の原因を反省することによってのみ、同じ失敗を繰り返さないということです。

失敗を通して、「失敗の本質を知り」「自分を見つめ直す」ことの大切さを言っているのです。

人間は失敗の原因を人のせいにして、素直に反省できないばかりか、周りの人を責めたり、不満を言ったりします。

「因縁」という言葉があります。

物事の結果には、必ずもととなる原因があるという意味です。

「因」は、直接的な原因を言い、「縁」は、間接的な原因を言います。

普段私たちは直接的な自分の原因についても、素直に自分を反省したり、謝る気持ちがもてないのですが、間接的な原因で起こった失敗については、なおさら周りの人を責めたり、周りの人への不満の気持ちが出てしまいます。

この「因縁」という言葉には、物事のすべての結果には直接的な原因、間接的な原因であれ、必ず自分の中に原因があり、失敗につながっているという意味が含まれています。

失敗は直接的であれ間接的であれ、必ず自分に原因があることを教えています。

人の悪口を言っていたり、意地悪をしていれば、直接的であれ間接的であれ、いずれ悪い結果や失敗が生じます。

周りの人に良いことを心がけていれば、いつしか良い結果、成功へとつながるのです。

どんな失敗があっても他人を責めるのではなく、自分を反省しさらに自分を成長させていきたいものです。

第48話 『競争原理は必要悪』

自由主義社会は、競争原理の上に成り立っています。

社会の中での競争で、ほんの一握りの人間だけがトップになります。

選考過程では、人間のほんの一部の能力(仕事の実績、テストの結果等)だけによって昇進や採用が決定します。

それは、勝者が人として優れていて、敗者が人として劣っていることではありません。

競争原理はややもすると勝者を高慢に、敗者を卑屈にさせます。

高慢な心や、卑屈な心は好ましくありません。

人生の目標は人格の向上です。

競争に勝つことだけではありません。

むしろ人をけ落とすことではなく、人を救うために何ができるかということです。

競争は相手をけ落とすことですから、善悪でいえば「悪」となります。

しかし自由主義社会は、競争原理によって効率化し、経済の繁栄がもたらされています。

自由主義社会には、競争という「悪」が必要なのです。

強者が弱者の上に立つ社会ですから、強者は弱者に対して思いやりの心をもった社会でなければなりません。

「自由と平等」という自由主義社会の原理には、「博愛」という精神がなければならないのです。

第49話 『形と心』

最近の公立中学校には「校則」というものがありません。

校則はありませんが、生徒手帳には「生活の約束」という緩やかな形で、学校生活のルールが示されています。

軍隊のような細かな規則で生徒を管理し、ひとりひとりの個性を全く認めなかった時代から、最近は子どもの個性を重視しようとする方向へ変化してきています。

あいさつや言葉使いなどは、「礼儀」と呼ばれます。

いわば人としての「形」です。

礼儀という形はとても大切ですが、そこに相手を敬う「心」が伴うことも大切であることはいうまでもありません。

日本は古来、剣道、柔道、茶道、華道などまず「形」から、次に「心」を磨いていくことを重んじてきました。

最今の学校は、「形」よりも、まずひとりひとりの「個性」、いわば「心」を育てることを大切にしているともいえます。

最近の学校には「形」としての「規則」はいらないかと言えば、そうではありません。

学校にはたくさんの人が生活しています。

ひとりひとりの生徒がわがまま放題であったり、他の人に対する配慮や思いやりの心がなければ、集団生活は維持できないからです。

他の人に対する配慮や思いやりの精神が根底にあって、初めて集団生活が維持できるからです。

最近は個性の尊重という言葉ばかりが先行していますが、自律のない個性は単なる「わがまま」です。

それは個性などでは決してありません。

集団生活の中で各自の、自律の心があって、初めて個性が尊重されるのです。

第50話 『親の振りみて・・・』

中学生の時期の子育ての難しさとして、「親への反抗」があります。

小学生の時のような「素直さ」がなくなってくるからです。

親の言うことを「素直に聞かない」「口答えする」「逆らう」などの態度が見られるようになります。

中学生の時期は、自分なりの考えをもつようになる年代です。

そして、「親のふり」や「教師のふり」など大人の様子もよく見ています。

周りの大人によって、態度を変えることもあります。

時にはその人が「恐いから」ということもありますが、「相手が尊敬や信頼できる人なのか」も見ています。

「自分を棚にあげて」という言葉がありますが、「日頃親の態度がだらしない」、「日頃教師の態度がいい加減」、そのような態度のままで親や教師がいくら子どもに注意して見ても、子どもは「何を言っているんだ、おまえだってそうだろう」と思っていれば注意に従わないでしょう。

中学生の時期の子育ての難しい所は、「親や教師の姿勢が問われる」ということでもあります。

その時期の子どもは「親の態度や教師の態度」もしっかり見ています。

「自分を棚にあげて」では、中学生の時期の子どもは言うことを聞きません。

この世に完璧な親など、どこを探してもいませんが「正しく、まっすぐに生きようとする姿勢」があれば、子どもは必ず信頼するでしょう。

「子どもは親の鏡」などと言います。

後ろ姿で教育のできる、大人でありたいものです。