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特別の教科「道徳」指導案

「思春期の子育て」-先生からお母さんへ-④

2019.06.25 12:29

                         横浜市立大学非常勤講師 鈴木 豊

第51話 『自己実現』

「子どもの自己実現を支援する」などという言葉を、しばしば耳にします。

子どもの夢や目標、願いを実現できるように、親や教師が子どもを援助していこうとするものです。

誰もが納得する言葉ですが、「自己実現」という言葉の中の「自己」とは、いったい何を指すのでしょうか。

「遊ぶお金がほしい」とか「車がほしい」、「恋人がほしい」「旅行がしたい」などということも、本人の願いですが、それを実現させることが、ここでいう「自己実現」でないことは明らかです。

自己の欲望の充足などという願いが、自己実現であろうはずがありません。

では「自己実現」とは、いったい何を指すのでしょうか。

私は、人の心の中には「二人の自分がいる」と思います。

「良い私」と「悪い私」といって良いかもしれません。

「良い心」と「悪い心」、これは人間の二面性などともいわれます。

「利己心」と「利他心」という二面性でいえば、利己的な私の願いではなく、利他的な私の願い、つまり人のために役立ちたいという私の願いこそが、「真の自己実現」なのではないでしょうか。

有名なシュバイツアーやマザーテレサなどは、苦しんでいる人たちを助けたいという願い、目標をもってそれを実現した人たちです。

これらの人たちが抱いた願いや目標こそが、「真の自己」であり、真の「自己実現」を果たした人といえるのではないでしょうか。

第52話 『ボーイズビーアンビシャス

      少年よ大志を抱け』

Boys be ambitious!(ボーイズ ビー アンビシャス)

北海道大学(札幌農学校)の初代学長であったクラーク博士は学生を前にして、「少年よ大志を抱け」と語った話は有名です。

当時の札幌農学校では、教授は全員アメリカ人、授業のすべてが英語で行われ、大学のカリキュラムすべてがアメリカ式で教育が行われました。

当時の卒業生としては、5千円紙幣にも使われた「新渡戸稲造」、そして「内村鑑三」をはじめ、明治政府や大学教官として活躍した優秀な人材を数多く輩出しました。

クラーク博士の言葉の「少年よ大志を抱け」は余りにも有名な言葉なのですが、クラーク博士が学生に話した一部にすぎないことは、あまり知られていません。

実はクラーク博士は、次のように語ったのでした。

Boys be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish

aggrandizement , not for that evanescent thing which men call fame .

Be ambitious for the attainment of all a man ought to be .

諸君よ、大いなる志を持ち給え!

お金のためや自分の利益のためや、人々が名声と呼んでいる、はかないものを求めるために、志をもってはならない。

すべての人々のための、大いなる志を抱きなさい。

という言葉でした。

将来の世界を担う子ども達に、大きな志や目標を高く持ってほしい。

しかし大切なことは、「すべての人々のために!」という思いなのです。

第53話 『生きる意味』

「夜と霧」という世界的な名著があります。

ユダヤ人の心理学者V・E・フランクルの代表作です。

フランクルは、第2次世界大戦のときナチスドイツによって捕らえられ、「アウシュビッツ収容所」に送られます。

収容所の中で、たくさんのユダヤ人が日々殺されていく極限状況の中で、そこに生活しているユダヤ人の精神状態を、心理学者の目を通して描いた本が「夜と霧」です。

フランクルは後に、ロゴセラピーという心理学を確立します。

ロゴスとは「意味」という言葉です。

「生きることの意味」についての心理学を確立したのです。

フランクルはお金や地位、名誉などたくさんの冨や名誉を手にしても、それだけでは人間は幸福になれないと述べています。

人間はたとえ絶望の中にあっても、「生きることの意味」を自覚している人間はなお崇高な生き方ができることを、「アウシュビッツ収容所」で体験したのです。

食べ物がなく自分の体を維持するにも困難な状況にあって、それでもなお体の弱っている友のために、自分の食べ物を与えた人。

ガス室へ送られる友の身代わりとなって、自らガス室へ入り死んでいった人たちをフランクルは収容所で見たのです。

自分のためにではなく、人のために何ができるのか。

その答えが分かったときに初めて人間は、私という人間がこの世に生まれ「生きる意味」を見いだせるのかもしれません。

第54話 『聞き上手』

話しをしていて「会話がはずんでくる人」と「不愉快になる人」がいます。

この違いは何に起因していると思いますか。

会話は自分だけではできません。

これは当たり前のことですが、この点が大切で相手の話しの聞き上手になることが会話上手でもあるのです。

「会話」では自分の考え(内容)を伝える前に、相手の気持ち(感情)をまず察してあげることが大切です。

「相手が何を言おうとしているのか(内容)」「どんな気持ちなのか(感情)」を察するのです。

相手の話したいこと(内容)、思い(感情)を否定して、自分のことばかりをつたえていたのでは、会話は弾まないのです。

カウンセリングにおいては話の内容ばかりでなく、相手の感情を受容することを指摘しています。

江戸時代の禅僧である良寛は、戒語という文章の中で次のようなことを指摘しています。

「言葉の多き、早こと、問わず語り、差し出口、人の物言い切らぬ中にもの言う、

 人のことをよく聞き分けもせずに答えする、このことすまぬ中に他のことを言う、

 すべては言葉は惜しみ惜しみ言うべし、言うたことは再び帰らず」

今の時代にも充分通用する、聞き上手になるための極意ではないでしょうか。

第55話 『良心を育む』

警察につかまるようなことをしてはいけません。

人に迷惑をかけてはいけません。

しかし、法律を犯さなくとも、人に迷惑をかけなくとも、してはいけないこともあります。

誰も見ていなくとも、悪いことにブレーキをかける心、それを良心と言います。

良心は、誰も見ていなくとも悪いことをしない心であり、誰も見ていなくとも、良いことができる心です。

こうした良心を子どもの心に育んでいかなければなりません。

良心は人に誉められるための心でなく、怒られないための心でもありません。

良心は、良いことをすれば良い結果が生じ、悪いことをすれば悪い結果が生じるとう思う心です。

昔の人は、「誰も見ていなくとも、お月様が見ているよ」と言いました。

あるいは、「神様はすべてを見ている」とも言いました。

「ご先祖様がいつも見守ってる」とも子どもに教えました。

一部の人は非科学的と言いますが、科学の力は宇宙の真理のほんのわずかを説明しているにすぎません。

科学では証明できないこと、論理では説明がつかないことが、この世にはたくさんあります。

科学では説明できませんが、悪い行為は必ず悪い結果を生み、良い行為は必ず良い結果を生み出すのです。

誰も見ていない時に良いことをすると、良心はさらに大きく育ちます。

誰も見ていない時に悪いことをすると、良心はさらに小さくなっていきます。

良心は、人を幸せにする心でもあります。

そこから昔の人は、徳をつんでいけば幸せになれると言うのです。

第56話 『職業よりも生き方の方が大切』

医者・弁護士・国家上級公務員。これらの職業は、いずれも学力優秀な人間でなければ、採用試験には合格できません。

こうした職業に従事する人たちは、社会的にも高い評価を受けています。

これらの人たちは、エリートなどともよばれます。

なぜエリートかといえば、ごく一握りの高度な専門知識をもっている人達だからです。

反対に多くの人達がついている職業や専門的な知識を必要としない職業は、社会的評価が高くありません。

賃金も低く、仕事の安定性や待遇面でも劣っています。

こうしたことから多くの親はわが子を、エリートと呼ばれる職業につかせたいと願います。

それが子育ての目標であることすらあります。

しかし人間の価値は職種によって決まるのではなく、人間性や生き方によって決まるものではないでしょうか。

「生きる喜び」を感じ、日々生活することができる職業は医者や弁護士だけではありません。

子どもがなりたい職業につくことができれば、「生きる喜び」が感じられるでしょう。

親として子どもの学力だけに気をとられるのではなく、一人前の人間に育てること、人間性に優れた人になれるように支援することが大切なのです。

「職種」は生活するための基盤にすぎません。

社会的な評価よりも、子どもがやりたい「職種」こそが、子どもの天職なのでしょう。

「できる人だ」と技能を賞賛されるより、「できた人だ」と人間性を賞賛される人になってもらいたいものです。

第57話 『いただきます』

食事をする前に私は、「いただきます」と手を合わせ(合掌し)ます。

「いただきます」と言うことは一般的ですが、手を合わせる人はあまりいません。

理由は、「いただきます」という言葉の意味にあります。

「いただきます」とは、他の生き物の「生命をいただく」という意味から由来しています。

私達は、植物の生命や動物の生命を「いただく」ことによって、自分の生命を生かしています。

私が生きるということは、他の生き物の生命を奪うことでもあります。

そこに人間の罪深さがあり、生きる悲しみがあるのです。

私達が生き続けるということは、幾多の植物や動物の生命を奪うということでもあるからです。

では、人間はいない方が良いと考えるのではなく、他の動物や植物の生命をいただくこと、殺生をするということは当然のこと、当たり前ではないということです。

他の生き物の生命を奪うことは当たり前ではなく、私たちの生命を保つために仕方がなくいただいている訳です。

そこに、手を合わせて合掌をするという意味があるのだと思います。

「いただかせてもらいます」という感謝の心をもって食事をしたいものです。

第58話 『できなかったではなく、やらなかった』

「勉強しなければ」と思いながらも、なかなか実行できないのが人間です。

勉強に限らず仕事やお手伝いなど、やらなければと思っていても実行するには、

自分の心の中の「なまけ心」に打ち勝つ、「心の強さ」が必要です。

「勉強しなければ」とは思いながらも、「なまけ心」は「テレビを見たい」とか、「ゲームをやりたい」、「マンガを見たい」などといっています。

ついつい勉強は後回しになり、お母さんが見るに見かねて「勉強をやりなさい」などと声をかければ、「お母さんがうるさいから、よけいにやる気が無くなった」などという答えです。

結局は、自分に都合の良い良いわけをして、実はやりたくはないのが「怠け心」です。

いつでも都合の良い言い訳をして、やらなければならないことを後回しにするのではなく、今実行することこそが大切なのです。

言い訳を決ししてせず、

「できなかったのではなく、やらなかった」ことに、気付くことが大切なのです。

第59話 『父親像と母親像』

子育てにおける父親と母親の役割はとても重要です。

戦後理想とする父親像や母親像が失われてしまったことが、子育てにおける親の自信を失わせている側面もあります。

カミナリ親父と怖れられた父親像は,今や過去のものとなり優しい父親が一般的になりました。

その一方では、家庭内での父親の権威も失われ今の子どもにとって父親よりも、母親のほうが怖い存在なのかもしれません。

子育てでは、父親と母親の役割がしっかりしていて互いに尊敬し合える関係であることがとても大切です。

父親の存在は、昔も今も「家族の柱」であることに変わりはありません。

母親の存在も、「子どもを育む」中心的存在であることに変わりはありません。

子どもにとって親は尊敬する存在であり、そのためには父親の権威が家庭の中で大切なことになります。

親に対して「おはようございます」、「お帰りなさい」「行ってきます」等、挨拶をしっかり言えない子どもが増えています。

親に対し、正しい態度で対応することができ、挨拶のできる家庭こそが親と子の正しい関係であり、その上に立って初めて父親や母親の役割が十分に発揮できるのだと思います。

第60話 『お金の使い道』

「お小遣いはいくらもらえるのか」子どもにとっては大問題です。

親にとっても子どもにいくら与えるか、大いに悩むところです。

お金を与えすぎることは、子どもの浪費癖を助長したりもします。

お金を活かして使う力を子どもに身に付けさせなければなりません。

また、欲しい物を「がまんする力」を育てなければなりません。

お金は貯めるだけのものでなく、遊ぶためのだけのものでなく、自分を成長させるためにもお金を使える力を身に付けてもらいたいと思います。

以前オーストラリアの高校生と話す機会がありました。

オーストラリアの高校生も日本の高校生のようにアルバイトをする人が多いようです。

しかし大きな違いは、お金の使い道です。

日本の高校生の多くは遊ぶためにアルバイトをしますが、オーストラリアの多くの高校生は高校卒業後に次の学校へ行くためのお金を貯めているというのです。

お金は時に人間をダメにもしますが、時には人間を成長もさせます。

お金を活かす使い方、お小遣いの有益な使い道についても一考してもらいたいものです。

第61話 『悪いのは、僕だけじゃない』

悪いことをしても、僕だけじゃない「みんなしているんだから」という言い方をしばしば耳にします。

「悪いのは、僕だけじゃない。みんなしているよ」という姿勢です。

法律や規則を破ってもみんなが破っているのであれば、許されるのでしょうか?

戦前の日本に山口判事という裁判官がいました。

昭和21年(1946年)、日本は太平洋戦争に破れ、国土は荒廃し食料は極度に不足していました。日本政府は食料の配給制度をとり続けていました。

当時の配給量は、成人一人当たり一日に米が292g、野菜75g、魚は4日にイワシ1匹程度でした。ジャガイモやサツマイモなどの配給があれば、その分だけ米の配給が減らされました。それに加え配給が遅れたり、配給が行われない日さえもありました。

正規の配給だけに頼っていては確実に栄養失調になり、餓死が待っていました。

そこで人々は「食料統制法」という法律を破って、ヤミ買いといって不正に売られている食料を買ったり、近郊の農家へ直接食料を買いに出かけました。もちろんこの行為も食料管理法違反です。

こんな時代でしたが、東京地方裁判所所属の山口良忠判事は、違法なヤミ買いをあくまで拒否し行いませんでした。

その結果、昭和22年8月、極度の栄養失調で倒れ、その年の10月11日に亡くなりました。33歳の若さでした。

山口判事は政府から配給されるわずかな食料を、まず小さなわが子に与え、夫婦はほとんど毎日、汁だけをすする生活でした。

山口判事が病床で綴った日記には、次のような文章が残っています。

「食料統制法は悪法だ。しかし、法律としてある以上、国民はこれに服従しなければならない。自分はどれほど苦しくともヤミ買いなんかはやらない。自分は、平素ソクラテスが悪法だと知りつつも、その法律のために、いさぎよく刑に服した精神に敬服している。(省略)自分はソクラテスならねど食料 統制法の下、喜んで餓死するつもりだ。」

山口判事は、悪法であっても法律を守ることが正義だと考えました。そのために餓死したのです。

法律や規則を守るということは、それほどまでに意味のあることなのです。

第62話 『七夕』

7月7日は七夕です。

七夕の夜には、天の川を隔てて輝く、彦星(わし座の1等星アルタイル)と織姫星(こと座の1等星ベガ)が一年に一度だけ会える日です。

どうして織姫と彦星は一年に一度しか会えないかといえば、働き者であった織姫と彦星が、結婚してからというもの全く仕事もせず、二人で遊んでばかりだったからです。

天の神様は大変に怒りました。

そして、天の川を隔てて二人を離れ別れにさせたのでした。

それ以後、織姫は泣いているばかりでした。

天の神様は、一生懸命に働くのであれば一年に一度だけ会うことを許したのです。

それが七夕のお話です。

誰でも年頃になれば、織姫と彦星のように「恋」をします。

デートは楽しい時間ですが、遊びと勉強や仕事が両立できなければいけませんね。

天の神様も父親です。娘をかわいく思わない父親などいません。

天の神様もきっと織姫にも彦星にも、遊びと仕事(勉強)の両立を教えたかったのでしょう。

中学生にとって勉強は大切なのですが、遊びと勉強の両立だけでなく、遊びと「家のお手伝い」の両立も大切です。

もうすぐ夏休みです。部活や勉強が忙しいからと、家のお手伝いをしなければ、お父さんもきっと怒ることでしょう。

「働かざる者、食うべからず」ですね。

第63話 『心頭滅却すれば火自ずから涼し』

勉強をするには静かで落ち着いた環境が大切ですが、必ずしも私達のまわりの環境は、静かで落ち着いた環境とは限りません。

近くで家族が見ているテレビの音や、話し声は、生活上常に存在するからです。

周りが多少騒がしくとも、勉強に集中できる精神こそが大切なのです。

武田信玄の菩提寺、恵林寺に行くと「風林火山」という有名な言葉と共に、「安禅不必須山水滅却心頭自涼」という言葉が山門の両側に掲げられています。

「安らかな禅は、必ずしも山水を用いない。

 心頭を滅却すれば、火も自ずから涼しくなる」

つまり「心を静め、無心の境地になるためには、必ずしも静かで落ち着いた環境が必要なのではなく、精神を集中することができれば、火の中であっても涼しくなる」という意味です。

私達の生活に置き換えてみると、勉強や仕事をするために、必ずしも静かな環境が必要なのではなく「精神の集中こそが大切なのだ」、となるのでしょう。

そういえば昔、二宮尊徳翁はたきぎを背中に背負い、歩きながら本を読み、勉強したそうです。

勉強には、必ずしも静かで落ち着いた環境だけが必要ではないことを物語っています。

第64話 『あいさつを大切にしよう』

「人間」という漢字は、「人の間で生活する」と書きます。

また「人」という字は、「一人の人間を、もう一人の人が支えている形を表している」と言います。

人は周りにいる人たちに、支えられながら生きています。

周りの人に感謝することが大切なのですが、なかなか出来ないのも人間です。

しかしやる気になりさえすればすぐにでもできること、それが「あいさつ」です。

「あいさつ」の大切さは誰もが知っているのですが、ついついおろそかになってしまいます。

「挨拶」という漢字は、「挨」(近づくという意味)という漢字に、「拶」(元気を引き出すという意味)という漢字から出来ています。

「相手に近づいて、元気を引き出すこと」が、「挨拶」という漢字の意味です。

人から「あいさつ」されると、誰もが「ここちよい感情」になります。

そして心の中の「元気」が引き出されてくるのです。

「あいさつ」は人間が生活する上でとても大切で、大きな力をもった言葉です。

周りの人たちすべてに感謝の気持ちが表せなくとも、家族や友だち、近所の人、学校や職場の人、生活の中で出会う人に心をこめて、「あいさつ」をしてください。

第65話 『親心(赤心)』

子どものためなら親はどんな苦労もいといません。

親がわが子にもつこうした真心を、赤心(純粋な心)といいます。

親はわが子に危険が迫ると、自分の命を犠牲にしてまでもわが子を助けようとします。

こうした心が親心なのです。

しかし子どもに対する無私の親心は、溺愛の心とは違います。

子どもの心を育んでいく心こそが、親心だからです。

時として親は、子どもに厳しく当たらなければならない時があります。

「獅子が我が子を、谷底へ突き落とす」という心に似ています。

友達のような親子関係を自慢げに話す親がいますが、親子の関係は友だちのような同等の関係ではありません。

親と子が同じ心の高さでは、子どもの心を育むことはできないからです。

親という漢字は「木の上に立って子どもを見る」と書きます。

子どもよりも高い位置にある心ゆえに、子どもの心を育んでいけるのです。

子どもは発展途上ですので、まだまだ未熟な存在です。

子どもに振り回されたり、心配と苦労を親は背負うのです。

子育ては大変な労力を必要とします。

子育ては大変なのですが、子どもにもらう喜びは、親でしか味わうことのできない至極の喜びでもあります。

第66話 『道徳は幸せへの道』

「道徳教育」というものがあります。

「道徳」という言葉は、どこか偽善的であまり好まれていないようです。

私は「道徳教育」が好きです。

「道徳教育」は「幸せになるための教育」だと受け止めているからです。

私達は、人としてこの世に「生」を受けました。

私達の本当の願いは、お金でも地位でも名誉でもありません。

それは、「幸せ」に生きるということです。

しかし、幸にせ生きるということは大変にむずかしいことです。

それは、私達の心の中にエゴイズム(自己中心)やニヒリズム(虚無)といった悪い、やっかいな心があり、そうした心に振り回されているからです。

幸せに生きるためには、悪い心に振り回されない自分を創ることが必要です。

昔から日本には、生き方の「道」として、「道徳」というものがありました。

道徳は「徳」を積み重ねていく、「道」でもあるわけです。

徳を積むことによって、人は幸せになれることを知っていたのだと思います。

善いことをすれば、必ず善い結果が生じ、悪いことをすれば必ず悪い結果が生じます。

人を勉強や仕事、能力、地位といった一面的な「はかり」だけで見ることなく、人間性という、心の「はかり」で見てあげることが、子どもを育てる上でとても大切なことだと思います。

第67話 『手本は二宮金次郎』

お父さんやお母さんは、「手本は二宮金次郎」と言えば誰のことかすぐにわかると思います。

昔の小学校の校庭には、薪を背負って歩きながら本を読んでいる「金治郎」少年の銅像が必ずありました。

二宮尊徳(幼名:金治郎)は江戸時代の後期、今の神奈川県、小田原の近くの栢山という土地の農家の長男として生まれました。

幼少の時にお父さんを亡くし、一家は離散してしまいました。

働きづめの生活の中でも、金治郎は家族が一緒に暮らせる日を夢見て、一生懸命仕事に励み、再び一家を立て直したばかりか、小田原藩に召し抱えられ、農村の復興に生涯を尽くしました。

金治郎の教えの中に、「至誠(しせい)」と「積少為大(せきしょういだい)」というものがあります。

「至誠」とは「真心や正しい行いは、必ずみんなにわかってもらえる」。

そして、「積少為大」とは「小さな事でも少しずつ積み重ねていけば、とても大きなことができる」という意味です。

真心は必ず周りの人の真心に通じ、悪い心は必ず周りの人の悪い心につながっていくものです。

また、勉強や仕事、すべての取り組みは1日1日の小さな努力の積み重ねが、将来の大きな偉業につながるのです。

「至誠」と「積少為大」の教えは、現代にも充分に通用する教えではないでしょうか。

第68話 『親孝行』

私たちは、「人」として生まれました。

人という動物は、他の哺乳動物とは全く違う点があります。

それは、年老いた親の面倒を見る唯一の哺乳動物であるところです。

鳥や猿、犬、猫といった高等動物の親は、生まれた子どもの面倒(世話)をみます。

人間と同様に、親は自分の命をかけてまで必死に子どもを育てます。

しかし子どもが成長し独立した後で、年老いた親の面倒をみる哺乳動物はいないのです。

人という動物だけが、年老いた親の面倒をみるのです。

親は自分の命を削りながらも、必死で子どもを育てます。

私たちが大きくなれたのは、親のお陰です。

この大きな恩を考えるとき、親孝行がなぜ大切なのかがわかると思います。

「義理」という言葉があります。

「義理」とは「正義の道理」という意味です。

恩を受けたことに対して恩を返す(恩返し)ことを、義理と言うのです。

人として最も大きな「義理」は、「親孝行」です。

親孝行は、この世に「人」として生まれた以上行わなければならない、大きな「義理」なのです。

親孝行をさせていただいて、初めて「人」となれるのかもしれません。

第69話 『家出と無断外泊の違い』

携帯電話の普及により、子ども達の生活に様々な変化がでてきました。

生活が便利になった反面、携帯電話を使った新たな犯罪や非行が多発しています。

「出会い系サイト」と呼ばれる「伝言板」はインタ-ネットへの接続も可能となり、性犯罪や高額な有料電話による被害が一般の家庭にも広がっています。

「家出」や「無断外泊」が急増している一因にも「携帯電話の普及」があげられています。

中学生が数日から数週間、あるいは数ヶ月にわたって家に帰らない、「プチ家出」と呼ばれている「外泊」が増加しています。

しかしほとんどの場合、家庭から警察へ対して捜索願いは出されていないそうです。

それは、子どもの携帯電話を通して「元気だよ。今友達の○○さんの家にいるの。心配しないでね」などと、本人の声を聞くことができるからです。

子どもが家に帰らなくても、子どもの声が聞ければ親は捜索願いまでは、と考えているようです。

警察では、「家出」とは「本人が家を出る意志をもっている」状態であり、「無断外泊」は「家に帰る気持ちがある」状態として区別しているようです。

電話は子どもの「声を聞くこと」ができるのですが、「生活の様子を見ること」はできません。

子どもの被害や非行の芽を摘むためには、親はすぐに家に帰らせるか連れ戻すことが何より重要です。

非行少女の多くは「無断外泊」で使う生活費や遊ぶお金などを、「援助交際」などによって得る場合が多いといいます。

非行少年の場合は恐喝や万引き、盗みによってお金を得るそうです。

中学生、高校生の時期の「外泊」は、外泊先の御家庭の親と親が直接連絡をとり合い、双方の「親による許可」が必要であると考えます。

「私を信頼していないの」と言う子どもの言葉を気にする親がいますが、子どもを信頼することと「我が家のきまり(ル-ル)」を守らせることとは、視点の違う問題です。

高校生の時期までは、「外泊」は親の許可なしには許すべきではないと思います。

それは、子どもの「自律」する力がまだ成長段階で未熟だからです。

第70話 『家庭でのきまり』

中学生の時期は自立へ向けて、少しずつ自己管理できる力を育てていく時期です。

具体的には親や周りの人の手助けなしに、自分の力でやり遂げることができるようにすることです。

自分で行ったことに対して、責任を持たせていくことも必要です。自由には責任と義務が伴うからです。

自分の力でやり遂げること「自立」とともに、自分自身をコントロールする力「自律」も育てていかなければなりません。

中学生は「自立と自律」の両方の力を育てる時期なのです。こうした力をすでに持っている子どもはいません。

そこで「家庭でのきまり」というルールの範囲内で、子どもの自立の力を育てていくことが望ましいのです。

「家庭でのきまり」なしで中学生に「自律」を求めることは、子どもの発達段階を無視した行為であるように思います。

門限の時刻や外泊に伴う約束ごとなど、「家庭でのきまり」を各ご家庭で決めることが大切です。

「家庭でのきまり」は、中学生の時期から高校生の時期へと少しずつ成長と共にゆるめ、完全な自分の責任の中で、自立した生活の方向へ育てていくことが道筋だといえます。

最近、多くの中学生が携帯電話をもつようになってきました。

自律の力が弱く友達に流されやすい中学生の時期は、できれば携帯電話をもたせない方が望ましいと思います。

携帯電話を媒介とした犯罪、悪い交友関係の広がり、プチ家出、性情報、恐喝など携帯電話に伴う事件は子どもたちの身近にまで広がりを見せています。

「家庭でのきまり」は他のご家庭や、友達の家庭との比較で決めるものではありません。各ご家庭で親の考えをしっかりもって、作ることに意義があるのだと思います。

第71話 『子育ては、親育て』

中学生の時期の子育ては、とても大変です。

親の言うことを、素直に従わない時期だからです。

しかし、こうした時期だからこそよけいに重要な時期だとも言えます。

それは、子ども自身が自分を作り始める時期だからです。

親からすれば、親の思い通り、言う通りに行動できる子どもの方が良い子として映りますが、子どもは親の言う通りには動きません。

言われたことに逆らって、言われたこととは反対の行動をする子どもさえいます。

それでも、子どもに親としての考えを伝え続けることはとても大切なことです。

子どもの考えは、未熟であるからです。

たとえ親であっても、子どもの生き方は子ども自身が決めなければなりません。

日々、子どもに振り回される生活の中でも、親は一生懸命に打ち込んでいる子どもの姿や子どもが成長しているうれしさは、子育ての苦労を吹き飛ばしてくれます。

振り返れば、親となった私達も、こんな苦労を親にさせて育ったのかという感謝の思いが湧いたりもします。

子育てには、苦労があります。そこから喜びや感謝の心も生まれます。

子育てには、苦しみがあります。そこから親自身も成長できるのでしょう。

第72話 『正直』

「うそ」をつかないことは、人として大変に大切なことです。

昔は「正直者」というと大変な誉め言葉であり、それだけで徳の高い人であることをさしていました。

今の世に中は、「うそ」をつくことに寛容な社会です。

うそであっても、「人が困らなければ」とか「小さなことなら」とか、「相手のことを思って」等等です。

「うそ」を許容する風潮があるのです。

「言ったことを実行できない」ことも、「うそ」になります。

「約束」を破る理由があったとしても、「うそ」に変わりはありません。

昔、江戸時代の禅僧に「良寛」という人がいました。

良寛さんは、明日のことは約束しませんでした。

それは、明日の命がどうなるか分からないからです。

新撰組の旗印で有名な「誠」という漢字がありますが、「誠」は当時の武士がとても大切にしていたことのひとつです。

「誠」という漢字は、「成す」と「言う」からできています。

「成すことを言う」、つまり言ったことは必ず実行する。

それが武士の生き方でもあったのです。

「うそ」は人と人の間に、「仲たがい」や「争い」を引き起こすもとになります。

サトウハチーさんの詩です。

毎朝目がさめたら、きょうも一日ウソのない生活をおくりたいと祈る。

夜眠るときにふりかえって、その通りだったらありがとうとつぶやく。

ひとにはやさしく、自分にはきびしく。

第73話 『忍耐』

「娑婆(しゃば)」という言葉があります。

「娑婆」とは仏教の用語で、私たちが住んでいる世界のことをいいます。

サンスクリット語の「saha」という音を漢字に当てたものだそうです。

「saha」とは、サンスクリット語で「忍耐」という意味です。

私たちの世界のことを、仏教では「忍耐(忍土)」と呼ぶのです。

なぜなら私たちの生きている世界は、楽しいことよりも苦しいことのほうが多いからです。

上手にいくことよりも、うまくいかないことのほうが多いからです。

うれしいことよりも、悲しいことのほうが多いからです。

戦争や犯罪のない平和な世の中を人々は願いますが、この世に戦争や犯罪が無くなったことは一度もありません。

人間の「欲望」「怒り」、「恨み」「憎しみ」の心などが引き金となって、戦争や犯罪が起こっています。

人と人が仲良くすることを日本語で、「和」といいますが、「和」という漢字には「やわらぐ」という意味もあります。

人と人が生活している中で、「怒り」や「恨み」「憎しみ」の心を起こさずに、「和らいだ心」でいるためには、「忍耐」が大切なのです。

たとえまわりの人に「馬鹿にされても」、「はずかしめを受けても」、じっと耐え忍ぶ心の強さが大切なのです。

今もなお続いているイスラエルとレバノンの紛争などは、まさに暴力が暴力を生み、恨みが恨みを生み、復讐が復讐を生んでいます。

最近の日本の子ども達の特徴は、キレやすい所だといいます。

すぐに切れたり、暴れたり、短絡的な犯罪を引き起こす子どもが増えています。

悔しくても、上手くいかなくても、じっと「忍耐」、我慢することの出来る、たくましい「子ども」に育てたいものです。

第74話 『愛情を受けて育った子』

「愛情を受けて育った子は、悪いことはできない」と、日本を代表する哲学者「梅原猛」さんは言います。

梅原さん自身は生まれて間もなく母親を亡くし、おじさん夫婦の子どもとして育てられました。

実の子同様に育てられたのですが、子ども心になぜか両親が本当の親ではないことを感じていたと言います。

梅原さんは、昔神戸で起きた小学生殺害事件の犯人、A少年の屈折した気持ちが、自身の青年期の屈折した気持ちに共通していて、理解できる点があると言います。

ではなぜ、梅原さんが犯罪に走らなかったのかと言えば「愛情を受けて育てられた」ことだと語っています。

「愛情をかけて育てる」ということは、「ほめる」とか「しかる」という部分についてではなく、「魂」という部分の話しです。

A少年の母親も二人の兄弟を、同じように育てたと言います。

なぜ、A少年だけが犯罪を犯したのか、母親自身が振り返ってもわからないそうです。

子どもを育てる上で、怒ってばかりでは子どもは萎縮します。

しかしほめていれば子どもは正しく育つかといえば、そうでもありません。

「愛情をもって、怒っているのか」、「愛情をもって、ほめているのか」が問題なのです。

自分の感情によって怒るのではなく、子どものために怒っているか、が問題なのでしょう。

冷たく叱る人がいます。

子どものことを考えてではなく、「きまり」や「自分の感情」「世間体」によって子どもを「しかる」、そのような時に子どもは往々にして「冷たさ」を感じるのです。

誰しも自分のことが一番大切です。

こうした自分中心の愛から、いかに周りを人をも愛する心、慈しむ心へと広がりをもっていくのかが、「愛情を受けて育てられたか」という親子体験によって育まれるということかもしれません。

第75話 『どの職業につくかよりも、どう生きるか』

子ども達に将来の夢を尋ねると「医者になる」「弁護士になる」「パイロットになる」「外交官になる」等等、「職業」の名前は出てくるのですが、「こう生きたい」「このような人間になりたい」という「どう生きるか」、に関わる答えはほとんどありません。

これは大人社会の考え方でもあります。

戦後の日本人はお金持ちになる生活を、「幸せな生活」とダブらせながら生きてきました。

お金持ちになることが、幸せになることと考えていました。

今日本は世界に冠たるお金持ちの国となりました。

物が社会に溢れ、供給過剰から、デフレ・価格破壊という現象さえ起きています。

お金持ちの国となった今、日本人は「幸せ」になれたのでしょうか。

社会のモラルが低下し、犯罪が低年齢化し、私たちの身近にまで危険が迫ってきています。

戦前の貧しい日本人は、豊かな自然の中で、隣近所や地域の人と助け合って生活していました。人々の心にはやさしさが溢れていました。昔の方が幸せだったという声さえ聞こえてきます。

お金持ちの国になって初めて私たちは、「幸せ」にとって大切なのは、お金だけではないことがわかり始めています。

給料の高い職業だけが偉い職業ではありません。

すべての職業が、社会を支えている大切な職業に変わりはありません。

職業に貴賤などはないのですが、相変わらず職業による偏見が払拭されていないようです。

政治家や官僚の汚職、逮捕報道が流れてきます。

「どの職業につくかが一番大切なのではなく、どう生きるか」が最も大切であることを痛感させられます。

権力や地位の高さが「人の偉さ」ではなく、与えられた仕事や社会の中で、いかにまわりの人たちのことを考えられるのか、まわりの人のために努力できるのかが「人の偉さ」なのでしょう。

第76話 『失敗して初めてわかる』

人間だから、失敗をします。

人間だから、うまくいかないこともあります。

しかし、失敗してわかることもあります。

「健康のありがたさ」などは、病気になって初めてわかるものです。

「親のありがたさ」も、親元を離れて初めて気付くものです。

「正しい言葉使いの大切さ」も、トラブルや困った経験をして本当に気付くものです。

失敗する前に、苦労する前に、失う前に気がつけば良いのですが、なかなか気づかない、気づけない、それが人間なのかもしれません。

人間は、辛い思いや悲しい思い、苦しい思いをした時には、自分を謙虚に見つめることができます。

それは人間のすばらしさであり、成長の源なのでしょう。

一生懸命が裏目に出ても、正直があだになっても、良くあれとしたことが恨まれたり、誤解されても、良いのだと思います。

まっすぐに生きようとする、それが正しい生き方だと思うのです。

「つまづいたり、ころんだりするほうが自然なんだな、にんげんだもの」とは

 相田みつをさんの言葉です。

第77話 『親の言う通りにはならないが、親のする通りに      なる』

中学生の時期は反抗期と呼ばれます。

親の言うことを聞かないばかりか、親に逆らったり会話をしなかったり。

子育ての中で、一番心労が多い時期かもしれません。

中学生の時期の子育てが大変な、もうひとつの理由は親の行動が問われることです。

中学生の時期は自分の考え方が少しずつ広がり、大人のズルさもわかってくる時期です。

「本音と建て前」という大人が使い分ける部分が、中学生には不正として写るものです。

親がきれいごとを言っても、子どもは親の行動を見ています。

だらしのない親の日常の行動を棚に上げて子どもを叱ってみても、子どもは従いません。むしろ逆効果となります。

「親の日常の行動が問われる」からこそ、中学生の時期の子育ては大変だと思うのです。

子どもは、一生懸命に働いている親の姿を、心の中で誇りに思うものです。

逆に社会の地位や職種、金銭などは、大人のようには囚われていません。

だから、大人社会の出世主義的考え方ではなく、父と母の「人生の生き方」をしっかりと子どもに伝えてほしいと思います。

「どう暮らしていくかではなく、どう生きていくべきか」を、子どもに伝えてほしいのです。

「子どもは、親の言う通りにはならないが、親のする通りになる」とは高橋先生(明星大 学)の言葉です。

第78話 『わからないことは、いけないこと?』

「こんなこともわからないの?」「こんな問題やさしいじゃないの」

大人の心ない言葉の投げかで、子どもは自信を失っていきます。

勉強というものは、わかって当たり前なのだと大人は傲慢になっているからです。

子どもはわからない自分を、だめな人間だと感じます。

周りの友達より、自分の方が劣った人間だと感じるのです。

はたして勉強は、「わかって当たり前」なのでしょうか。

けっしてそうではないと思います。

人類の長い歴史を経てようやく築いてきた学問を、あっという間に理解することなど不可能でしょう。

初めて学問と対峙する子ども達にとって「わからない」こと、「知らない」ことは当たり前なのです。

たかだか数年の短い学校生活の中で、「よくわかる」ことの方が難しいでしょう。

私は理科が専門ですが高校生の時に初めて、中学校の理科の授業の中で教わった「質量と力の違い」がよくわかりました。

その時の「わかった喜び」「感動」を、今でも覚えています。

人間は誰でも疑問をもち、好奇心を持ち続けます。

何年も後になって、初めてわかることもたくさんあるのです。

いくつになっても「わかる」ことには感動があり、「喜び」があるのです。

むしろ、長い時間がかかってようやく「わかった」ことのほうが、喜びも感動も、理解の深さも応用力も、すべてにわたって大きのかもしれません。

すぐにわかることが求められている理由は、テストや入試というものに間に合わせようとしているにすぎないのかもしれません。

本当の勉強は、早い時間で「わかる」ことよりも、「わかる」喜び、感動を味わうこと、自分の生活の中に生かし、応用する力を養うことにあるのでしょう。

「わからない」ことが、自分を卑下することにつながることに大きな問題があるのです。

偉大な発明家「エジソン」は、小学校の落ちこぼれで小学校を退学させられました。

しかしけっして、「自分は劣った人間だ」などとは思っていませんでした。

独学でいっそう勉強に取り組んだ結果、大発明家となったのです。

子どものわかろうとする姿勢、努力する姿勢こそが大切なのです。

第79話 『ものわかりの悪い親になろう』

子どもにとって、ものわかりの良い親とものわかりの悪い親。

子育てとって、どちらの方が望ましい親だと思いますか?

私は、「ものわかりの悪い親」だと思います。

時どき「私の家では、子どもと親が友達のようです」と誇らしげに話される方がいます。

私は「友達のような親」では、子どもにとって大好きな親かもしれませんが、望ましい親だとうは思いません。

「子どもを育てる」ということは、子どもの言うことをできるだけ受け入れてあげることではないからです。

子どもの望みをかなえればかなえるほど、子どもは甘え、欲望は際限なく広がっていくものです。

しまいには、がまんのできない人間に育っていくのです。

子どもはすぐに友達のことを引き合いに出して、自分の要求をかなえさせようとします。しかし他人の家庭と同じようにしてあげることが大切なことではありません。

じっとがまんする力や、自分の力で望みをかなえる気構えを育てることが、実は子どもにとって望ましい親の対応なのでしょう。

友達関係は同等の関係です。

しかし親子関係は同等ではありません。

親は子どもを育てる役割を担っているのです。

中学生の子どもを、大人と同じように対応することはできません。

「お父さんがダメと言ったら、我が家では絶対にダメ」ということも、時には大切なことだと思います。

親は子どもの喜ぶ顔を見たいものです。

子どもに良い顔をしたいものです。

しかし、一人前の社会人に育ててこそ子育てです。

たとえ逆境に遭遇しても、雑草のようにたくましく生き抜く子どもに育てることこそが、親の本願なのではないでしょうか。

第80話 『敬老』

人が年をとり、60歳になった節目を「還暦」と言います。

還暦とは「子どもに還る」という意味です。

そこから、第二の人生が再スタートするのです。

現在の60歳は、年寄りという年齢ではありませんが、昔は人生50年などといわれ、その当時の60歳という年齢は、かなりのお年寄りでした。

年をとっても肉体も頭脳も、かくしゃくとした人もいますが、

誰でも年をとれば、物忘れがひどくなり、体も固くなり、敏捷性も鈍くなります。

動作も遅く、周りの人から見ると、いらいらするかもしれません。

あまり良いイメージのない「老」という言葉ですが、実は大変に尊敬をこめた意味があるのです。

「家老」「老中」「大老」などという役職が江戸時代にありましたが、この「老」という漢字は年をとったという意味ではありません。

現代の「長」という意味に近いかもしれません。

現在の私たちも、江戸時代のように尊敬をこめた「老」という意味、姿勢で「老人」に接したいものです。

大先輩である方々の努力が、今の私たちの社会、家庭、生活を成り立たせていることを、忘れてはなりません。

そしてお年寄りを大切にできる人が、めぐり巡って将来、大切にされるお年寄りになれるのでしょう。

第81話 『親としてではなく、自分のために生きている』

最近の「子育ての問題」のひとつとして、親の姿勢があげられています。

母親も父親も日々の限られた時間を、子育てではなく自分を優先に使う親が増えていることです。

父親も母親も、人生を有意義に生きることは何よりも大切なことですが、人生にはその時その時の、「優先事項」というものがあります。

親は、子どもが生まれれば誰もが親ではなく、「子育て」をしてこそ「親」といわれる所以がある訳です。

独身時代の生活は誰にも束縛されることなく、思い通りの生活ができました。

しかし子どもが生まれると、とたんに子どもに縛られた生活が始まります。

不自由な生活が始まる訳です。

そこに生活上のジレンマが生まれる訳ですが、親は自分のことよりも子育てを優先に考える訳です。

その点をわきまえることが、親の自覚だと思います。

他の多くの動物は「子育て」を終えると死んでしまいます。

子育てこそが、生きる意味である訳です。

人間の親にとって、「子育て」はすべての時間ではありません。

子どもが家を離れ、独立した生活を始める迄です。

振り返ると、子育ては短いようです。

親にとって子育ては、金銭的、物理的にも、精神的にも大変な苦労の連続です。

しかし大きな苦労をするところに、喜びや感動が生まれるのではないでしょうか。

親としての幸せは、子どものお陰で得られるのでしょう。

第82話 『時には、こうしなさいも必要』

 今の時代は子どもの主体性を大切にする時代です。

子どもが困難にぶつかったときに、子ども自身の力で困難を乗り越えさせる、生きる力を育てることが重要だからです。

 子どもが社会へ出たときに、自分の道は自分で切り開いていかなかればならないからです。

中学生の時期は子どもの心をたくましく育てる時期ですが、時に友だち同志(人と人との関係)の中で、大いに悩み、大きな苦しみが生じることもあります。

ついには心が疲れはて、子ども自身で判断する力さえも萎えてしまう状態があります。

そのような時に、親がこうしなさいと命令することで子どもは自分の心を休めることができる場合があります。

体を鍛える時に適度な運動が必要ですが、過度に運動しすぎたときには、体を一時的に休める必要があることと同様なのです。

心を鍛える時期にでも、疲れた心を一時的に休ませることも時には必要なのです。

子どもの心が疲れ過ぎていると感じたときに、親はこうしなさいという命令も時には必要なのです。

第83話 『話すことと話し合うこと』

子ども達が大人になる頃は、日本と世界との関係はますます緊密化し、より国際化した世の中になっていることでしょう。

いろいろな国々の人たちとコミュニケ-ションをもち、共に歩んでいくことがこれからの人たちには求められています。

お互いを理解し合うためには、まず自分の考えをしっかりもち、相手に伝えられること。そして相手の考えをしっかりと受け止められることです。

小学生にとっては、人前で話すこと事態、それだけで大きな出来事です。

中学生になると、人前で話す体験が増えてきます。

体験を積むことに比例して、「話すこと」も上手になっていきます。

「話すこと」はだいぶ上達するのですが、「話し合うこと」は上手とはいえません。

「話すこと」とは、自分の考えを一方的に相手に伝えることだからです。

しかし「話し合うこと」とは、自分の考えをしっかり伝えると共に、相手の考えをしっかり受け止められることです。

相手の考えを「しっかりと聴きとる力」が大切なのです。

相手の話をしっかりと聴くためには、相手の考えよりも自分の考えの方が優れているというような心の姿勢では、相手の考えをしっかり理解することはできません。

「理解する」という言葉を英語では、「under stand」と書きます。

相手よりも「アンダー:下に スタンド:立って」、初めて相手を「理解」できるのです。

その姿勢が身について、初めて「話し合う」力が身に付くのだと思います。

第84話 『耳で聞く言葉と、心で聴く言葉』

言葉使いや態度など、礼儀を身につけることがとても大切であることは言うまでもありません。

しかし、思春期の子どもは「反抗期」とも呼ばれ、言葉使いや態度の悪い子どもも現れてきます。

大人が声をかけると、「ウルセ-」「ムカツク」などという返事が返ってくる場合もあります。

子どもを教育する立場にある親や教師は、こうした子どもの言葉だけに振り回されてはいけない場合があります。

なぜなら、子どもの口にする言葉と本心とは、つねに一緒ではないからです。

無礼な態度や悪い言葉使いを直していかなければなりませんが、まず初めに認識しなければならないことは、「子どもとの信頼関係が希薄である」という事実です。

子どもはまわりの大人が自分を認めているのか、嫌っているのか、という点を無意識に感じ取り選別しています。

相手に嫌われているという感情は、「反抗」という行為としても現われます。

「信頼関係」を築くには、まずは子どもに「寄り添う」ことです。

会話がなくとも、声をかけ、寄り添うことから信頼関係の構築は始まります。

子どもに、「私はあなたが好きですよ」という心のメッセ-ジを送り続けなければなりません。

「この子は、どうしても相性が合わない」などと口にする親がいますが、絶対に子どもに言ってはならない言葉です。

子どもは「愛される」ことによって心が安定し、成長するからです。

子どもとの「信頼関係」はまず、「私はあなたが大好きですよ」という心のメッセ-ジを送ることです。

子どもの言葉や態度だけにこだわることなく、まずは子どもとの信頼関係を大切にし、子どもの心の叫びが聴き取れる親や教師でありたいものです。

第85話 『コミュニケーション』

人と人との交流をコミュニケ-ションといいます。

「コミュニケ-ションをいかに円滑に行うか」は、集団生活を営む上での大きな課題です。

特に民間企業のサ-ビス業界では、お客様とのコミュニケ-ションをいかに向上させるかは、企業の発展にかかわる大きな問題なのです。

ホテル業界や外食産業では、お客様とのコミュニケ-ションが重要な課題です。

コミュニケ-ションの基本とは、挨拶であり、言葉遣いであり、態度です。

「礼儀と呼ばれていることが身に付いているか」が、社会人は問題になるのです。

笑顔で人と接することの重要性もまた指摘されています。

ハンバ-ガ-ショップの接客対応を思い出していただければ、笑顔の重要性が理解できると思います。

こうしたことは、一部の企業だけの問題ではなく、家庭でも学校でも学ぶ姿勢が求められています。

しかし礼儀の心には、「誠意」が必要です。

誠意をもって対応する、温かい心使いがなければ、信頼の絆で結ばれたコミュニケーションにはならないでしょう。

第86話 『子ども観』

親や教師がどのように子どもをとらえているのか、その人の「子ども観」によって子どもへの対応は、大きな違いとなって現れてきます。

戦前の日本では「子供」という漢字の意味する通り、「子ども」とは大人に「供」する存在として考えられていました。いわば大人の従属的存在でした。

子どもとは、親や大人の言うとおりに行動する存在でした。口答えなどは決して許されません。

親の考えによって、子どもの進路や結婚相手さえも決めていました。

子どもは、いつまでも未熟な存在として考えられていたのです。

現在の「子ども観」とは、国連の「子どもの権利条約」に示されている子どものとらえ方が主流であろうと思います。

子どもは自分の権利を認識し、主張でき、実践する力をまだ十分にもっていません。

親をはじめ大人の援助が必要です。このことから、子どもは保護する対象として考えられてきました。しかし子どもの権利条約では、子どもを発達可能態としてとらえています。

子どもが自身が権利を行使する主体である点を、大人と同様に保障している点が特徴です。

親の考えで子どもの進路を決定したり、結婚相手を決めるなどということは、子どもの権利を保障するこの法律を犯すことになります。

この法律の子ども観によるまでもなく、子どもの考えを尊重し育てることは、子育ての基本でもあります。

子どもは未熟な部分があって当たり前です。大人から見るとぶきようにも見えます。

子どもは失敗や試行錯誤を繰り返しながら成長します。

親や教師は、こうした子どもの成長過程を支え、放任ではなく真の人となる教育をしていくことが求められているのです。

第87話 『自己効力感』

「窓際族」という言葉があります。

窓際族とは、会社の第一線の仕事からはずされ、日々仕事らしい仕事を与えられず、ただただ時間を無為に過ごさせられている人だそうです。

窓際に追いやられたるとだんだん「やりがい」や「生きがい」が消えうせていきます。

「給料をもらえるのだから、いいじゃないか」と考える人もいるでしょうが、世の中はそんなに甘くはありません。

その後退職に追い込まれる人もいるようです。自ら退職していく人もいるようです。

「やりがい」や「生きがい」が無くなったことが原因です。

「やりがい」や「生きがい」は、人の「意欲」や「活力」を生む出す源なのです。

それでは、「やりがい」や「生きがい」をもてる条件とは何なのでしょうか?

それを生みだすひとつの条件として、「自己効力感」というものがあります。

「自己効力感」とは「自分が周りの人に対して、役に立っているという思い」です。

例えば、水くみという単純な作業でも「人の役に立っている」と感じ取れれば、「やりがい」や「生きがい」をもつことができるのです。

「自己効力感」が大切であることは、大人でも子どもでも同様です。

最近、ボランティア活動が高校で義務付けられようとしています。

老人や子ども、障害者といったハンデや障害を抱えた人に対して、援助や支援を行うのが代表的なボランティア活動です。

ボランティア活動をする人にとっての最大の喜びは、「感謝される喜び」なのです。

それは「自分が人の役に立っている喜び」なのです。

「自己効力感」から生じる喜びは、いつしか自分がこの世に生きている、「意味」や「自覚」へと広がっていきます。

人生の幸せは「生きる喜び」を感じとること、といっても良いのかも知れません。

第88話 『自分の将来像がイメ-ジできない』

今日本では、フリーターと呼ばれる若者が増えています。

「自分のやりたい仕事が見つからない」ということも、フリーター増加の一因にあげられています。

多くの若者は、就職する場面に直面して初めて「私のなりたい職業は何なのだろうか?」という疑問をもちます。

そして答えを見いだせないままに、求人情報から得られる情報に従って就職企業を決定していく人が多いようです。

働き初めてから後でも「はたして私は、この職業で良かったのだろうか?」という疑問を生じ続けていきます。

就職後、数年の内に会社を辞めてしまう若者の多くはこのような理由が多いようです。

今の日本の社会では、まだまだ転職をすることが容易な社会ではありません。

企業で得たキャリアを次の職場でも生かせることが、極めて少ないようです。

ですから、最初から生きがいのもてる職業に就職することが大切なのです。

そのためには「自分のやりたい仕事」をイメージできることが大切なのです。

日々の生活の中で、「1年後の自分の生活」そして、「10年後の生活」などを考えることが大切です。

イソップ童話に、「アリとキリギリス」というお話があります。

将来(冬)にそなえて今から準備する「アリ」と、日々遊び暮らしている「キリギリス」、その様子は、今の若者たちにも共通している所があります。

「有名な学校へ合格すること」が重要であって、入学後の目的はなくただ遊んでいる学生と、好きな勉強や将来の夢を目指して日々努力している学生、それはあたかも「アリとキリギリス」のようです。

「自分は何のために勉強するのか」、また将来の自分のイメージがもてることが大切なのではないでしょうか。

第89話 『躾(しつけ)が揺らいでいる』

「躾」とは、「身」を「美しく」することです。

日本語辞典には「礼儀作法や社会生活に必要な規律を身につけさせること」とあります。

「礼儀」や「規律」は、子どもの頃に「躾」という方法で身につけていきます。

「躾」は外からの力によって自分を律していく、「他律」という教育です。

人は成長するにつれ、少しずつ自分の力によって自分を律する「自律」へと向かっていきます。

「躾」は、子どもがいやがったとしても礼儀作法や規律を身につけさせていくことです。

子どもがいやがることを強要してはいけない、と考える風潮もありますがそれでは「躾」はできません。

「強要」は「暴力」を用いることではありません。子どもの人権を尊重することと「強要」は両立できるものです。

強要することが悪いことのように考えている人がいますが、子育ての中では「人としてやってはいけないこと」「悪いこと」「礼儀に反すること」等は絶対に許してはいけないことです。

正しいことを、子どもに「強要」しなければなりません。

「子どものいやがることは、しない」「子どものいいなりになる」など、

こうした親の対応は、少しずつ子どもの「わがままを増長させていきます」。

思春期ともなると、体も大きくなり親の手に負えない子どもになるでしょう。

「注意」や「怒られる」という経験が少ない子どもには、他人から「注意」を受けたり「怒られたり」すると、「自分に敵意を抱いている」と感じ反抗することがあります。

他人から「注意」を受け、逆ギレして暴れるなどはこの例です。

「うるせえ」と声だけの反抗から、時には「暴力」をふるう子どももいます。

「躾」は、社会性の根幹です。

子どもの頃に「強要」してまでも身に付けさせるものです。

「勉強の強要」や、「親の体裁からくる強要」などは「躾」ではありません。

子どもの主体性を育てる内容については、「強要」しても育たないのでしょう。

第90話 『リーダーとしての桃太郎』

日本の昔話に「桃太郎」というお話があります。

「きじ」と「犬」、「猿」を子分として引き連れ、「鬼退治」をするというお話です。

桃太郎のお話は「桃太郎の正義感あふれる勇敢な行為」に対して賞賛が送られるのですが、「桃太郎」を「指導者(リ-ダ-)」として眺めてみると新しい発見があります。

それは、本来「きじと犬」「犬とさる」「きじと猿」は互いにとても「仲が悪い関係」として知られています。

それを踏まえて、あえて仲の悪い動物を集めた点に指導者(リ-ダ-)としての桃太郎のすごさがうかがえるのです。

「指導者(リ-ダ-)」という立場は集団をひとつにまとめ、目標に向かって集団の力を最大限に発揮させることができるか、という点に指導者の真価が問われるところです。

したがって、普通は気のあった仲間・集団こそが「大きな力を発揮できる集団」として考えがちです。

しかし「桃太郎」の集めた集団は「仲が悪いもの同士の集団」でした。

それぞれが仲が悪い関係であっても、集団の目的に向かって「各自の個性が最大限に発揮できる集団」を作り上げたところに、「真の指導者(リ-ダ-)としての桃太郎の力量」が読みとれるのです。

「空を飛べるきじ」「すばやく走れる犬」「木登りのできる猿」、それぞれが自分の個性を最大限に生かし、自己の力を十二分に発揮することで集団として計り知れない力が生まれることを「桃太郎の昔話」は教えているのです。

「ひとりの力」たす「ひとりの力」は、数学では2倍にしかなりません。

しかし、それが「ひとりの力」たす「ひとりの力」が3倍にも4倍にも、10倍になる理由は、それぞれが違った「個性」だからです。

集団にはたくさんの仲間がいますが、ひとりとして同じ個性の人間はいません。

集団の中の各自の個性が十二分に発揮しみんなの力が合わさったとき、その力は50倍にも100倍にもなるのです。

第91話 『大きな夢をもつ』

北海道大学の初代学長クラ-ク博士は学生に対して、

「Boys be ambitious!(少年よ大志を抱け!)」という言葉を残しました。

「大志(大きな夢)」をもつことはとても大切なことです。

人間は大志(大きな夢)を持つことによって、成長があるからです。

「大志(大きな夢)」に対して「小志(小さな夢)」というものがあるとすれば、どこに違いがあると思いますか。

「部活動での夢」や「勉強での夢」が「小志(小さな夢)」でしょうか。

クラ-ク博士の「ボ-イズ ビ- アンビシャス(少年よ大志を抱け)」という言葉は、あまりにも有名ですが、そのあとの言葉を知る人はあまりいません。

それは、

「Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement , not for

that evanescent thing which men call fame . Be ambitious for the

attainment of all a man ought to be .」

「お金のためや自分の利益のためや、人々が名声と呼んでいるはかないものを 求めるた めに、志をもってはならない。すべての人々のための、大いなる志を抱きなさい。」

とクラ-ク博士は言われたのです。

クラーク博士は、自分だけのために生きる目標や夢を「小志(小さな夢)」といっています。

クラ-ク博士は、「人々のための夢(大志)」をもって生きることが大切であると学生に語っているのです。

「大きな夢(大志)」とは、大臣や医者になることではありません。

この世の中のすべての仕事が「人々のための仕事」なのです。

「自分のことだけにとらわれて働くのではなく、人のために働いているか」が問題なのでしょう。

第92話 『加点主義と減点主義』

「人の評価」には二通りの方法があります。

人の良いところを見て評価する「加点主義」という考え方と、人の欠点や失敗を見ていく「減点主義」という考え方です。

教育や子育てのように「人間性の成長」などを目的とした取り組みには、「加点主義」の考え方の方が適しているのではないでしょうか。

「加点主義」は学校での成績や民間企業など人の育成に関わる分野で多く用いられています。

もう一つの評価方法である「減点主義」はといえば、ケ-スバイケ-スであるといえるかもしれませんが、「交通違反の反則キップ」などは代表的な「減点主義」です。

「交通ル-ル」は全員が守ることを前提としているわけですから、守った人が偉いわけではありません。

交通ル-ルは守って当然という考え方です。

こうした場合には、「減点主義」の方が適切であると思います。

しかし、「加点主義」にしろ「減点主義」にしろ、評価の最大の欠点は「点数にこだわるあまりに本質を忘れる」ということです。

「何のために加点されるのか」「何のために減点されるのか」ということです。

成績に入らない取り組みは、やらないなどという生徒が、このような例にあたるのです。

悲しいことに私たちは「評価」のために一生懸命に働くという側面があるのです。

しかし、誰一人評価してくれなくとも「正しいこと」や「人のための取り組み」などは、神様はきっと評価してくれていることでしょう。

第93話 『子育てをする動物』

亀やトカゲなどの「ハ虫類」と呼ばれる動物は「子育て」をしません。

子どもは卵から生まれると、すぐに自分の力でたくましく生きていきます。

「ハ虫類」から「鳥類」、「ホ乳類」と呼ばれる動物に進化して、初めて「子育て」をすることができるようになりました。

そこに高等動物と呼ばれる所以があるのです。

これらの「動物たちの子育て」は、子どもを群れ(集団)の中で守り育て、遊びを通しながら集団での生活を学ばせていきます。

獲物をとる技術や外敵から身を守る方法などを身に付けさせるのです。

子どもは自分で獲物がとれ、子どもを産めるまでに成熟すると、親は強制的に子どもを自分の縄張りの外へ追い出してしまいます。

これが動物の巣立ちです。子育てはここに終了するのです。

巣立った子どもは、もはや子どもではなく新しい家庭を作る一人前の大人となったのです。

親の縄張りを出ることによって、今度は子どもが自分の家族のための巣穴や縄張りを作るのです。

人間は知恵が発達し高度な文明を築きましたが、「子育て」の本質を見失っている人もいるようです。

パラサイト(寄生虫)と呼ばれる若者や閉じこもり等、親から独立できない若者が急速に増えています。

これらの若者は決して「一人前の大人」とはいえません。

自分の力で生活し、自分の家庭を築くことができないからです。

子どもが親から独立できること、自分の家庭を築けること、ここに「子育て」の本質があるのではないでしょうか。

第94話 『子どもの可能性を閉じていく言葉』

子どもの夢が達成できない最大の理由は、「あきらめ」です。

小さな子どもは、今の成績などにこだわることなく大きな夢を抱きます。

「宇宙飛行士」や「医者」や「スポーツ選手」「パイロット」等々。

子どもの夢を聞くと、一様に大人は「勉強を一杯しないとなれない」とか、「成績が良くないとなれない」などと否定的に答えがちです。

ですから、多くの子どもが僕には無理だとあきらめていくのです。

二宮尊徳は、「積少為大(せきしょういだい)」という言葉を残しました。

小さな事を積み重ねていけば長い時間の後で大きなことができる、という意味です。

一日一日の努力は小さなものですが、十年後は想像できないほど大きく成長しているのです。

大リーガーで大活躍のイチロ-選手も、小さな頃は未熟だったはずです。

大リ-ガ-で活躍する自分を、はたして子どもの頃に想像できたでしょうか。

努力の積み重ねで、自分でも信じられない力が身に付いていくのです。

子どもは誰でも自信がありません。だからあきらめやすいのです。

体力も学力も忍耐力も、すべての力が未発達です。しかし、それが子どもなのです。

力の弱い自分に「自信」など生まれようがないのです。

「自信」は、出来なかったことが出来るようになって初めて生まれてくるものです。

「むりだ」「難しい」と周りの人から言われていれば、あきらめていくのが子どもなのです。子どもの夢や可能性を、否定的な言葉の投げかけで閉ざしてくのです。

「自分の夢を実現する力」は「あきらめない力」です。「積少為大」なのです。

今の自分にとってはるか彼方の夢であっても、小さな努力を積み重ねていけば着実に夢に近づいていくのです。

第95話 『成績にこだわる』

学校生活の中で、こんな質問をする生徒がいます。

「先生、これは成績に関係ありますか?」という質問です。

「成績には関係ない」と答えると、決まって「じゃ-、やめた」という反応です。

勉強は成績だけのためにするのでしょうか。

 勉強とスポ-ツは同じものではありませんが、同じようにたとえることができる、と思います。

スポ-ツを「勝つ」ためにしている人と、「上手になる」ためにしている人がいます。

勉強も同じです。

「成績のため」にしている人と、「学ぶため」にしている人がいるのです。

勉強でもスポ-ツでも、最初の目的は「学ぶこと」「うまくなること」です。

「よく学び」「よく練習」すれば、おのずと「成績」や「結果」は後から付いてくるでしょう。

「結果ばかり」「成績ばかり」にこだわっていると、いつしか「学ぶこと」、「うまくなること」という点がおろそかになり、しまいには勝てれば良い、成績さえよければよいとなってしまいます。

成長する人とは、「学ぶこと」「練習すること」をいつまでも、大切にできる人ではないでしょうか。

第96話 『男らしさと女らしさ』

「男は男らしく、女は女らしく」という言い方は、今は差別用語のようです。

昔の日本の社会は「男は仕事、女は家事」という固定的な観念から、女性の社会進出を制限したり、男女の性差による差別が存在していたからです。

今では、幼稚園の先生に男性が、タクシーの運転手に女性がなどなど、性差による差別はなくなってきています。

男女の性差による差別は間違っていますが、男と女の違いをすべてなくしていくことは、はたして正しいことなのでしょうか。

男性と女性がいて、初めて子どもが生まれます。

これは男と女という、「違い」があるからできることです。

「男と女の違い」を、「優れているとか劣っている」という優劣の「差」で考えることは間違っていますが、男と女という性の違いによる違いを、互いの「良さ」や「幅」として見いだすことができれば、男女の違いは、人間性の広がりや深まりを与え、男女がいることによる豊かさ、あるいは、かけがえのないパ-トナ-となるのです。

「お父さんの良さ」と「お母さんの良さ」が合わさり夫婦の良さは、2倍よりもさらに大きなものになります。

男女に性による違いがあるからこそ、互いに「豊かさ」が生まれるのではないのでしょうか。

第97話 『努力の貯金』

自分に自信のない子どもは、高望みをしません。

やる前からあきらめているからです。

「行けたらいいな」と思う学校があっても、

「なれたらいいな」と思う夢や目標があっても、心の中であきらめてしまうのです。

誰にとっても「夢」や「目標」というものは、今の自分の力ではできないことです。

だからそれを、「夢」や「目標」というのです。

今の自分ができなくとも、1年後の、3年後の、あるいはもっと将来にできるかもしれません。

それは誰にもわかりません。

しかし、わかることがひとつだけあります。

努力を続けていけば必ず夢や目標に近づいていくということです。

例えば、「お金を貯める」という「目標」があります。

毎日百円ずつ貯金を続けていけば、1年で三万六千五百円にもなります。

少しずつですが、着実に貯金の額が増えていくのです。

それは何事にも通じることです。

「努力という貯金」を少しずつ、着実に貯めることによって必ず夢や目標に近づいていくのです。

そして、結果的に夢や目標に、たとえ届かなくとも、成長した自分の姿がそこにはあるのです。

前向きに最後まで生き抜いた私がそこにいるのです。

第98話 『短気な人』

短気な人がいます。すぐに腹を立てたり、すぐにキレル人のことです。

「短気は損気」という言葉がありますが、「短気な人は損をする」という意味です。

短気な人は、ささいなことにでも腹を立てて、どなったり、物をけったり、たたいたり、取り組んでいることを投げ出して帰ってしまうこともあります。

こうしたことでは重要な仕事などはまかせられません。

会社だったら、仕事からはずされてしまうでしょう。

協調性や責任感といったものが全くないからです。

周りの人たちもしだいに愛想をつかし、遠のいていってしまうでしょう。

短気な人は、本当に損な気質なのです。

私は短気は生まれつきな性格だとは思いません。

では、その原因には何があるのでしょうか。

ひとつには子どもの頃に、我慢する力が充分に育まれていなかったことがあるのではないでしょうか。

腹を立てたときに「カッとなって暴力をふるったり」、「周りの人に当たり散らしたり」、そのようなときに、「周りの人がいうことを聞いてくれた」こうした経験が根底にあるのではないでしょうか。

「暴力をふるったり」「どなったり」すると、周りの人が従ってくれる。

こうした体験が、マイナスの「学習」として残っているのでしょう。

家族や周りの人がわがままを「許している」ことが、あったのではないでしょうか。

「子育て」の目標は、「一人前の社会人」に育てることです。

「すぐに腹を立てて人をどなったり、周りの人に当たり散らしたり」、これでは一人前の大人とはいえません。

「我慢する力」や「協調性」、「責任感」などが育っていないからです。

「悪いことは絶対に許さない」、「良いことは誉める」こうした善悪の価値観を、小学生の時期までにしっかりと、「躾」として身に付けさせなければならないのだと思います。

第99話 『あの子は、なぜ教室に来ないの?』

教室で生活している子ども達の多くは、不登校の生徒の気持ちを理解できないでいるでしょう。

「なぜ、元気なのに学校へ来ないの?」「なぜ学校の相談室に来ているのに、教室へ来ないの?」等の疑問をもっています。

不登校の生徒の原因はひとつではありません」

しかし「人と人との関係」、「人間関係」や「学校」という集団に対して、不適応が生じている場合が多くあります。

人は友だちがいるから楽しみを得ることができるのですが、また人は、友だちによって苦しみも得るのです。

クラスは気のあった友だちだけではありません。

気の合わない友だちもたくさんいます。

「人は友だちによって助けられます」、しかし「友だちによって意地悪もされるので す。」

子どもが大人に成長する上で最も大切な勉強は、「人間関係」や「集団適応」という勉強です。

なぜなら、子どもたちは将来一人前の人として社会に巣立っていかなければならないからです。

職場という集団の中で、気の合わない人たちとも生活していかなければならないのです。

仲の良い友だちがたくさんいる生徒がいます。

しかしそうした友だちがいない生徒もいます。

多くの友だちと仲良く生活できる生徒がいます。

しかしなかなか上手に生活できない生徒もいるのです。

学校に来られない生徒は、学校をさぼっている訳ではありません。

「学校に行かなければ、学校へ行かなければと、常に思っているのですが行けないので す。」

ひとりぼっちで家にいる気持ちを考えてみてください。

ひとりぼっちでいるさみしさや不安、つらさを考えてみてください。

それが、不登校の生徒たちの気持ちなのです。

第100話 『まっすぐに』

背筋をまっすぐ伸ばした正しい姿勢は「長生きの秘訣」です。

背中の丸まった「猫背」と言われる姿勢はいけません。

背中を「まっすぐ」に伸ばすことは、健康に大切なことです。

なぜなら、私たちは地球の重力に逆らって立っているからです。

重力に逆らって立つには、大きな力が必要です。

まっすぐに立つことで、自分の体重をバランスよく均等に、体全体に力を分散させているのです。

姿勢の悪い人は、バランスが崩れ体の一部分により大きな、片寄った負荷(力)がかかってきます。

この負荷(力)が長い間に、いろいろな場所に障害を生んでいくのです。

体と同様に「心」も曲がっていてはいけません。

心が「まっすぐ」だからこそ、「幸せ」が感じられると思うからです。

法律を破っていなくとも、人に迷惑をかけていなくても、「いけないこと」はしない。

それが「まっすぐ」ということでしょう。

まっすぐに、正直に生きて、結果的にバカを見たり、損をしても、それで良いのではないでしょうか。

まっすぐに、正直に生きることは、昔風に言うならば「正義の道理」というのかもしれません。

「正義の道理」とは「義理に生きる」ということでもあります。

辞書には「人のふみ行うべき道」とあります。

心も体も、「まっすぐに」生きても、必ず「幸せ」や「長生き」につながるとは限りません。

しかし、満足できる生き方だとは思いませんか。